第31話
お酒を飲みすぎたのか、その日はふわふわしたまま眠ってしまったらしい。目覚めるとベッドは別だった。やっぱりベッドは別だった。
「夕方まで宿でゆっくりしようと思います」
「そうか」
体力がないわけではないが夜は観劇だし、これ以上エドガー様の新たな情報を摂取してしまうとまずい気がした。エドガー様は買い物に行くと言って私を置いて出かけてしまった。
「ふう……」
ベランダから身を乗り出すと、エドガー様がチラリと見えた。
朝食会場で、私がバターたっぷりの三日月パンに齧り付いている時、エドガー様はとんでもない事を言い出した。
今日の観劇は何時開場か、と尋ねると『急な仕事が入ったので自分は行けない』と言い出したのだ!しかし仕事と言われてしまうとごねることもできない。私は仕事に理解のある奥様なので。
「……今夜は、どうするか」
暗がりでこっそり手を繋いだりイチャイチャしたりできないなら舞台を見る理由がない、とまでは主張するつもりもない。多分一人でも楽しめるとは思うのだけれど。しかし、私の中の過激派の人格がこう告げる。
『あいつ絶対何かを隠してるよね?』と。
私は寝台に転がり、今夜の計画を練り始めた。
夕方。新しい黒のドレスを取り出す。旅行のために服を何枚も新調したうち、一番大人っぽいものでぴったりとした体型が出るカッティングに、同色の黒のレースがふんだんに使われたもの。普段の三つ編みをぐるぐると頭上でまとめる。
ドレスの胸元は菱形に空いているのでちょっと寂しいかもしれない。落としたら困るので装飾品の類は持ってこなかったが、まあ自分を見せるための場ではないのでいいだろう。
鏡を覗き込むと、エドガー様がこちらを見ているのがわかった。せっかくおしゃれしたのだから褒めてくれてもいいのに。そんな事を考えながら手持ちのコンパクトから一番濃い口紅を選び出して塗る。
鏡に映る私は、すっかり大人でなんだか強そうである。
「さっき首飾りを買ってきた」
「え?」
エドガー様はなんの前触れもなく、クッキーを買ってきた、ぐらいの調子でつぶやいた。
首飾りとはいきなり何でもない瞬間に買うものなのだろうか? いや違う。しかしお土産屋で売っていた雑貨かもしれない。それなら理解できる。貝細工だろうか?白蝶貝、黒蝶貝、いやよく見かける桃色の貝かもしれない。
「前に新しいものを、と言ったきり用意できていなかったからな」
「え、えっ、ええっ!?」
エドガー様が出してきたのは、立派な箱に入ったダイヤモンドのネックレスだった。今着ている黒のドレスに良く映え……じゃない。
「これ一体いくらしたんですか!?」
これはガラス玉ではなく本物だと、ずっしりした感触が物語っている。菱形を組み合わせた幾何学模様がなんとも大人っぽい。
ギラギラと虹色に輝く光が、これは水晶でも透明なトパーズでもなくてダイヤモンドでございます、と主張する。
「そこは気にせずに……普段使いのアクセサリーの範疇を出ないものだから」
確かにお姫様が使うようなパリュールではないが。質屋に流したものよりは値が貼るだろう。
「男が思う可愛いものよりは大人しめなデザインの方がいいと言われたのだが、趣味ではなかったか」
「いえ……そのようなわけでは、ないですが……」
されるがまま、ネックレスは私の胸元までやってきた。エドガー様の指がうなじに触れ、どきどきしてしまう。まるで最初から示し合わせたみたいに、額縁の中の絵のようにぴったりと収まっている。
「これでよし。どこからどう見ても奥様だ」
エドガー様は満足げに頷いた。
ホールまでは一緒に行ってくれると言うので、送ってもらう。
会場はすでに人で賑わっていた。入り口に「当日券、立ち見券、完売」の立て看板が立っており、主演女優が大きく描かれた看板の前に立ち止まって、憧れの目で見上げ、通りすぎる人たちがいる。
目一杯のおしゃれをする人、普段着の人、仕事帰りの人。服装の規定はあってないようなものだ。
「私、ちょっと気合入れすぎじゃないですかね?」
「席によって気分が変わるものだ」
私の持っているチケットは二階の仕切られた席……いわゆる特別席らしい。それならば身支度を調えすぎるという事はないだろう。
「それではまた後で。終わるまでには戻るつもりだが、間に合わなければカフェにでもいてくれ。くれぐれも、知らない人について行ったり、外をフラフラしないように。もし万が一何かあった時のために、現金はこっそり隠しておくこと。これが大使館への地図だ」
エドガー様はその後も長々とした注意事項を口にする。そんなに心配なら、私も連れて行けばいいのに──と思う。
一体、この異国の地で、私を置いて、なんの仕事があると言うのか。
……怪しい。
鎖骨の上でびかびかに輝いているだろうダイヤモンドのネックレスを指でそっとつつく。
男は浮気をすると罪悪感から妻に突然の贈り物をすると本で読んだことがある。見覚えのない身分証。彼には、もう一つの役職がある。
怪しい。怪しい怪しい怪しい怪しい……。
一度疑い始めると、まるで全てのことが繋がっているように思えてくる。
私はエドガー様のこと何も知らない。過去も、現在も、未来も。全ての会話は嘘ではない。しかし、嘘が混じっていないとも限らない。信用していないわけじゃない。
ただ、知りたいだけだ。私たちは運命共同体なのだから。そのようなわけで、私は観劇をしない。こっそり尾行するつもりだ。
「それではフィオナ、楽しんできてくれ」
「はい」
たまたま、横のカップルが待ち合わせで合流できたのか、ハグをして、それから熱烈なキスをした。
「……」
無言で頬を突き出すと、エドガー様はためらった様子もなく私の頬にキスをした。
「……!?」
「くれぐれも、妙な行動はしないように」
「あ、は、はい」
や……やっぱり怪しい。いつもなら「バカなことを言うものじゃない」とその場を誤魔化すはずだ。エドガー様はさっさと角を曲がって消えてしまった。
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