第21話

「酔った……」


 エドガー様はよろよろと立ち上がり、窓を開けてベランダに出た。ちょっとやそっとでは壊れないだろう頑丈な柵がついているが、万に一つということもある。


「危ないですよ」


 これが逆の立場だったら怒るくせに、と今は言わないでおこうか。エドガー様の後をついてベランダから外に出ると、生暖かい風が吹き付ける。


 先程とは違って月は出ているが薄暗く、どこまでも暗い海が広がるばかりだ。浜辺で聞くような断続的な波の音ではなく、地の底から湧き出てくるようなごおーっとした音がひたすらに続く。


 聖女の力を使って明かりを灯す。


「疲れるからやめなさい」


「君は歴代の中でもとびきり力が強い! って教えてくれたのはエドガー様じゃないですか」


「それはそうだが……」


 エドガー様はテーブルの上に突っ伏した。眠いのかもしれない。その様子をじっと見ていると、不意に昔の事を思い出す。



 エドガー様はニ年前のある日、突然職員の位置をすっ飛ばし、所長として私の前に現れた。正直言って、最初は気難しそうだし、私を憐れむような目で見たエドガー様のことが怖かった。


 ちょうどその時は先代の聖女が引退まじかと言うことで、孤独に打ちひしがれていたのもある。


 大体の人にとって王宮で働くことは安定と名誉がありとても素晴らしい事だと聞いていたが、エドガー様は今と違って、真面目ではあるけれど情熱を持って仕事に取り組んでいるようには思えず、管理局のことをつまらないと感じているようだった。


 不満があると言うことは、この人は外の世界を知っているのだとぼんやり思った記憶がある。こっそりと世間のことを尋ねてみても、最初の頃はあまり話してくれなかった。


 今なら理由がわかる。贅沢をさせないのは、ずっと閉じ込めておくのは、憧れてしまうと辛くなるからだ。


 聖女に自由はなく、最後の最後にご褒美として王族との結婚が与えられる。それは強い血を次世代に残す新たな仕事であると言うのはさておき……。


 王家の方々の何人かもかつての聖女の血を引いていて、そのような人は魔力が強く出やすい。


 王家はその魔力を持って国民に尽くすべし。つまりは人より魔力が優れていて初めて王族として認められる。まあそれは私にはどうでもいいことだ。エドガー様が王子でも別に構わないけれど、王子じゃないから今の生活があるのだし。


 前々から考えていた、素朴な疑問を口に出す。


「エドガー様は、どうして聖女管理局に来たんですか」

「王子の補佐官にはなりたくなかったから……それに、暇そうだと思った……」


 仕事命で、細かいとか厳しいとか陰険とか陰口を叩かれているエドガー様には、なんと労働意欲がなかったのである!


 真面目そうな見た目に騙され……いや、それでもやっぱり他の人よりはきちんと仕事をしていたはずだ。


 エドガー様はぼつぼつと過去を語り始めた。以前にも説明された通り、魔力はあるが大したことはなく、それでも瞳の色は王家特有のものだったので、養子に引き取ろうかと声をかけてくださる妃はいたそうだ。


 しかし、お義母様はそれなら自分で育てましょう、と不動産と『お勤め』の年金をもらって故郷に戻ったのだそうだ。


 そうしてあれよあれよと、地元の実業家としては女だてらに結構成功したらしい。


 幼少期のエドガー様は生活には不自由がなく、自分の瞳の色も気にしたことがなかった。ただ、父親のことを聞くことだけは躊躇われたと言う。


 『ててなし子』として普通に育ち、進学先の国いちばんの学校──もちろん私はどんなところか知らないけれど──とにかく王立アカデミーで出会ってしまったのだ。


 年齢どころか誕生日も目の色も同じ第二王子、コンスタンティン様に。


 殿下はもちろん、すぐにエドガー様に気が付いた。と言うより、当の昔に調べがついていたので手ぐすね引いてお近づきになるのを待っていた。


 出会った時のことを、はっきり覚えているのだと言う。


『我が弟よ。挨拶にこないから、僕の方から来てしまったよ』


 コンスタンティン殿下はそう言ってエドガー様に両手を広げて微笑みかけたのだと言う。ふわふわの金髪に星の瞳を持つ、見た目はキラッキラのコンスタンティン王子が例の怪しい笑みで近づいてきたら、私も恐怖を感じると思う。


 そうして夢の学生生活はバラバラに崩れ去った。


 その時のエドガー様の心境を考えると心が痛い。普通の平民として学生生活を満喫するはずだったのに、暗黒の学生時代になってしまったのだから。


 コンスタンティン王子がちょっかいをかけ、逐一報告するものだから国王陛下は「どこかにいるはずの隠し子」の事を思い出してしまった。気がつかれなければその他大勢で済んだはずだったのに、そこからあれよあれよと引きずり込まれてしまったらしい。


 エドガー様はそれが嫌で隣国に留学もとい逃走し、なかなかに愉快な学生生活を過ごしたらしい。その間、私はずっと離宮で聖女の修行に勤しみ、豆のスープを飲んで暮らしていた訳だけれど。


 帰国後のエドガー様は王子どものお付きの仕事が嫌で、必死に暇そうな職業を探して、誰もやりたがらない、なぜなら給料も高くないし役得もない地味でパッとしない仕事──すなわち聖女管理局にたどり着いたのだった。


「今思うと、留学せずにいればもっと早くに助けることができたかもしれないな」


 月明かりの下で、エドガー様は私を見て目を細めた。メガネをかけていないので瞳の色がよく見える。


 私はその視線が少し嫌だと感じた──憐れまれている事ではなく、そこにあるのは情愛ではなく、ただの親切心な気がしたから。


 風が強くなってきたので、室内に戻る。私が黙ったので、エドガー様は責められているのかと、後ろをついてきた。


「すまない。これからはより一層気を引き締めて業務にあたるつもりだ」


 その言葉を聞いた瞬間、脳裏にひらめきが走った。振り向いて、エドガー様ににっこりと笑いかける。


「はいっ」

「……?」


 両手を伸ばし、聖女の精神を安定させるのも聖女管理局の務めではないでしょうか!と凄むと、エドガー様はたじろいだ。


「私は15年前から王宮にいて、エドガー様が呑気に牧場で遊んでいる時も、海岸で釣りをしている時も、ずっと修行していたんですよ!」


「それを言われてしまうと……」


 ふふふ。私もなかなかに駆け引きがうまくなってきたのではないか。


「ですから、エドガー様は私の言うことを聞くべきなんですよ! 今頑張るって言いましたよね!」

「……いや……まあ、言ったが……」


 こうして私はエドガー様を寝床に侍らせることに、とうとう成功したのである!



 したのであるが……もちろん何も起きる訳でもないし、眠れない。エドガー様は眠っている。メガネがないと緩衝材がないと言うか、生々しいなあ……。


「いやこの状況で寝るとかないでしょう!」


そう。エドガー様は速攻で寝てしまったのだ。寝たふりではなく、安らかに眠っているのだ。そんなバカな……。


 こっちはドキドキしすぎて小刻みに震えているぐらいなのに、この状況でもう入眠しているなんて。


 やはりお酒を飲ませすぎたのだろうか。まさかエドガー様はこの状況を見越してあえて深酒をし、自滅の道を辿ったのではないか? とすら思う。


「ちぇ」


 進展はしたのでよしと、あきらめて眠ることにする。腕に頭を乗せる。これが腕枕か。やったぜ。


 ……しかし、眠れないのである。


 確かにこれは一人じゃないと眠れない。こんな状況で眠れる訳がない。自分の心臓の音が妙にうるさい。


 暑い。だめだこれは。本当にだめだ。……向こうの部屋へ移動しようか。いや、自分で言っておいてそれはあまりにも格好が悪い。


 全く眠れない。ここから一体どうしよう……?

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