第17話

「出張だ」

「どこにですか?」

「隣の国」


 ある日の夕食。エドガー様はゴリゴリと、チーズの塊をすりおろしながらそっけなく答えた。


「チーズはどのくらい?」

「あと2、3回分でお願いします」


 トマトソースを絡めた短めのパスタに粉チーズをこんもりとかけてもらう。肉とトマトのパスタには赤ワインがよく合う。


「ワインは全部飲むな。今度から小さいのを買いなさい」

「だって、大きいのも小さいのもあまり値段が変わらないんですよ……?」


 パスタにはチーズがかかっているが、それとは別に違う種類のチーズを食べる。実は聖女は乳製品も禁止だったのだ。こうなってみると、今までの我慢は本当になんだったのかと思わざるを得ない。


「多少はいいが、飲みすぎると健康によろしくない」


 エドガー様はワインの瓶を私から遠ざけた。明日には「酸化したから」と言ってお肉のソースにされてしまうのだろう。それはもったいない。だって、なかなかのお値段だったのだから……。


「しかしですね。この数日間の実験結果によると、聖女が祝福したワインは健康に良い、と結果が出たじゃないですか」


 成果を求められてもどうしたらいいのか分からないので、この数日は実験と称して、市販のワインに『祝福』を与え、それを三軒隣のお爺さんに飲んでもらっていた。彼はとんでもないうわばみで、お酒と名がつけばなんでも飲む性質なのだ……。


 逃走の際に靴を貸してくれた奥さんは体の調子が悪いのでお酒は控えていたが、せっかく私がくれたのでと一緒に飲んだ所、随分と体が軽くなったと言っていた。


「祝福されたワインは健康にいいんですよ。つまり私の健康にもいいんですよ」

「む?」


「それに、私のお小遣いで買ったものですから、食費ではないんですよ」

「むっ……?」


 論破した。これは完全なる勝利である。これからは飲み放題だと思ったが、エドガー様は食い下がる。


「いや、だめだ。今回はいいが……これは……そうだな。酒類が及ぼす健康被害と言うよりは、自分で自分の欲求を制御できない事にある」


 私が言いたかったのは、そういうことに違いない──エドガー様は、一人それで納得したようだ。


「酒屋にはフィオナに新入荷を見せるなと言っておこう」

「困ります。これは私の趣味ですから」


 ワインをグラスに注ぎながらふと思い出す。……あれ、大事なのはチーズでもワインでもなくて……ええと。そうだ、出張の話だった。


「ところで、隣の国? でしたか」

「先日の話を覚えているか? 遠出の件だ。上に掛け合ってみた」


 そこまで言って、エドガー様は言い淀んだ。普通なら、無理だったから切り出しにくいのだと思うだろう。しかし、私は違うと感じている。


 これは切り出すのが照れ臭い話。つまり、私にとって良い知らせに他ならない!


「我々はここから隣国へ行き、数日滞在する。市井の生活を見学して、より一層の見識を深めることを目的とする。いわゆる……」


「新婚旅行ですか!?」

「出張だ」


「本当にそんなことできるんですか!?」

「許可は取った。予約も取った」

「もうですか!?」


 仕事が早すぎるのではないか。エドガー様はソファーに置いてあった鞄から書類を取り出した。旅行の行程表らしい。


「7泊8日」

「ななはく!?」


「往復の旅客船の日程に合わせるとそうなるな。出発はここの港からなので、余裕を持って観光できるだろう」


 少しの沈黙があり、エドガー様は言いにくそうに切り出した。


「他の国よりは土地勘があるし、アーチボルド国王とは知らぬ仲ではない……ので選んだのもあるが、本当の理由は、結界が薄くなっているのか調査をしてこい、と言われている」


「……でも、わかりませんでした、でいいのでは?」

「その通り。もちろんフィオナが他のところへ行きたいというのなら変更する。自国内か友好国に限るが」


「いえいえ、そこでいいです。そこがいいです」


 なんたってその国は、若かりし……今も若いけれど、かつてエドガー様が留学していた国なのだ!



「しかし、よく許可が取れましたね」


 明日は旅行用の服などを買い出しに行くことになった。エドガー様は食後のデザートに瓜を切ってくれた。


「果物の皮を剥くのが上手ですよね」

「……そんなことまでいちいち褒めなくてもいい」


 謙遜しているようだ。いや、褒められ慣れているのかもしれない。もっと大っぴらに褒めた方がいいのだろうか……。


「過去、聖女がお付きの騎士と駆け落ちした事例がある」


 そんな事件があったなんて全く知らなかった。私が知っている歴史書にはそんなことは一言も書いていなかった。


「持ち出し禁の書類だ。かなり昔の話ではある。過去の情報を知って真似されると困るからだろう」


 冷静に考えると、確かに聖女宮で働く人は女性かおじいさんが多かった。エドガー様は異端なのだ。そうして、私がころっと落ちてしまうのだから、もちろん他の聖女だってそうなるに違いなかった。


「二人はどうなったのですか?」


「連れ戻されてしまったが、やはり数日は結界は持ったようだ。しかし君もわかっているだろうが、祈りがなくなった瞬間から微細に結界は劣化していく。その速度は聖女が突然死した時とさほど変わりない」


 騎士はどこに行ったのですか、とか「突然死した聖女」は逃げた人と同一人物なのですか、とか聞いてはいけないのだろうなと思う。


 いや、エドガー様は聞いたら答えてくれるだろうけれど、聞いても微妙な気持ちになるだけなので。



 まとめると、聖女がいなくなると精霊様の方で、次の聖女の準備が整うまでなんとかやりくりをしてくれる。


「貯金箱みたいなものですかね……?」


 祈りの際、一度に送り込める魔力には限りがあると言われていて、常に規定量でやっていたのだがそれは送り出す側の問題であり、聖石自体にはもっと容量があるのではないか、とエドガー様は思っているらしい。


 こちらに来てから一日八回を五回、三回と減らしていき、今は朝の一回でまとめて祈りを捧げることにしている。そしてそれを今度は数日、一週間まで伸ばしてみようと言うのだ。


「この数日間の指示は、その布石だったのですね!?」

「まあ……」


 エドガー様は私よりも遥かに聖女の力について考えているようだ。個人差が大きい事なので次の世代には通用しないかもしれないけれど、それはきっと悪い事ではないだろう。

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