第18話

出発の日がやってきた。


 数日は旅行用の服や鞄を揃えたりするのに忙しく、観光先まで決める余裕はなかった。


 朝の祈りを捧げる。自分で脱走したり移住しておいて今更なのだが、本当にそんなことをしていいのだろうか……と不安が頭をもたげてくる。


『フィオナ。楽しんできてね。大丈夫、ぼくはいつもきみについている』


「ありがとうございます」


 会話が通じているのか通じていないのかやはり不明だが『彼』は私たちの旅行に賛成してくれているようだった。


「フィオナ、行こう」


 エドガー様がドアの向こうから声をかけてきたので立ち上がる。



「新婚旅行……いわゆる蜜月ってやつですよ、これは!」


 正直現実感がなさすぎたのだが、いざ港に着き停泊している船を眺めると急に気持ちが沸き立ってくる。


「楽しいのは結構だが……あまりそのようなことを大声で言うものではない」


 と言われても、自分の人生でありえないと思っていた事が次々に実現するのだ。叫び出すのも仕方がないことではないだろうか。


「エドガー様、ありがとうございます! 私、本当に嬉しいんですよ」


 お礼を言うと、エドガー様は目を細めた。太陽が眩しいのかもしれない。



「これを渡す。肌身離さず、絶対に無くさないように」

「噂の身分証ですか」


 私には「フィオナ・マクミラン」として新しい身分証と旅券が発行された。有事の際はこれが私の身元を保証してくれるのだ。


 その他聖女管理局の職員証も。私の仕事は「秘書」だ。厳密に言うと逆なのだけれども。


「秘書ってなんだかいかがわしい響きだと思いません?」

「蜜月の方がよっぽどいやらしいと思うのだが」


 私のたちの悪い冗談にさらなる冗談で返されてしまい、どう反応すればよいのかわからなくなった。エドガー様は失敗した、とでも言わんばかりに咳払いをする。


「どんなお部屋ですか? 新婚旅行の……お部屋……」


 普通の雰囲気にしようとしたのだが、うっかりいかがわしい会話を続けてしまった。しかしエドガー様はすでに何か別のことを考えているようで、いつもの様子だ。


「特等船室を予約した」

「特等!」


 私の声が大きいと、エドガー様は指で口をつぐむよう伝えてきた。ちらりと売り場の看板を見ると、どう考えてもひと月の生活費より上の金額が書かれていた。


 なんと言うことでしょうか。私のお小遣いでは到底足りない金額だ。自力でこの船に乗ろうと思ったら、一年はずっと貯金しなくてはいけないだろう。エドガー様のお小遣いがなくなってしまうのではないか?


「お小遣いを返上しましょうか」

「君が思っているほど安月給ではない」


 お給料が高かろうと低かろうとこの金額が高いことには変わりないと思うのだが、気にしなくてもいいらしい。


「君は欲がないな」


 行こう、とエドガー様は肩に軽く触れてきた。私としてはそのまま肩を抱いて連れて行って欲しいところだ。


 このように、欲はごく普通にありまくりですがと返した言葉は船員さんの大声にかき消された。


「乗船が始まりますーーーー特等の方からどうぞーーーー」


 私たちは若干の視線を感じながら、鉄製の折りたたみ階段を上って船内に入った。


「集合時間はずらせないのか? これでは誰がどの客室なのかわかってしまうだろう」


 エドガー様は案内の船員さんに対し、苦情とも独り言ともつかない言葉を発した。


「世の中、二等船室の客に見守られながら真っ先に乗り込むのがいいって方も多くいらっしゃるんでさぁ」


 特等はその名の通り素晴らしい部屋だった。床に柄物の絨毯が敷いてあるのが王宮っぽくておしゃれだ。聖女宮にこのような部屋はなかった。思わず跪き手で感触を確めてしまう。


「聖女のお部屋より船の方が豪華ですね!!」


 私が振り向くと、エドガー様は唇を尖らせながら眉間の皺を伸ばしていた。何か心に引っかかる事を言ってしまったのだろうか?


「とても大きなベッドがありますよ!?」


 ベッドは三人ぐらいは寝られそうな大きさだった。そのほか浴室、ソファー、ダイニング、奥にもう一部屋、自宅より大きなクローゼット、そして船体から張り出したベランダ。これは完全に家と言って差し支えないだろう。



「そろそろ出航だ。甲板に見学に行こう」


 エドガー様と一緒に甲板に出る。すでに他の乗客が鈴なりになっていて、手にはグラスを持っている。


「飲み物がもらえるようだ」

「あっ! エドガー様、見てください、あそこ」


 甲板は地上から思ったより高い位置にあるために個人が判別しにくいのだが、見送りに来たらしいお義母さんが手を振っているのがなんとか見えた。


「げっ!!」

「おかーーさーーんーー」


 微かに「フィオナちゃーん」と返す声が聞こえた気がする。


「なんでまた……」

「普通に考えたら言うに決まってるじゃないですか」


 エドガー様がいない時は、こっそり実家のお義母さんのところに行って話をするのが日常になっている。旅行に行くことを伝えたときは「ふーん」と言ったきりであまり興味がなさそうではあったのだが、そっけない割に面倒見がいいところはやはりエドガー様の母だと思う。


 出港の汽笛が響き、船はゆっくりと動き出す。


 ──新婚旅行の、始まりだ!

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