第9話

「これからどうしよう」


 とりあえず、元の家に帰ろうか……お金もそこに置いてきてしまったことだし。静かになった浜辺でぼんやりと小魚を眺めていると、一人の人間がこちらに向かってくるのが見えた。


「嫁を連れ回して街を案内している、と言われて様子を見にやってくれば。息子がお縄になるところを目撃してしまった」


 気だるい雰囲気をまとって現れたのは、昨日の質屋のお姉さんだった。


 彼女は妹でも姉でもなく、母だと名乗った。最初の家はドアがなくなっているらしいので、ひとまずエドガー様の実家に連れてこられる。


「ドアの修理は依頼しといたよ。それで、今後のご予定は?」

「ひとまず一週間はここで待機……です」


 数日間、実験をしながらエドガー様の帰りを待つことになった。


 お母様はあまり話してくれなかったが、お城でメイドをしていたと言う。父親については誰だか教えてもらえなかった。王家に連なる男子はたくさんいるけれど、おそらくは……。


「まあ、詳しい話は本人から聞いてちょうだいな」


 成人した後のことはあたしゃ知りませんよ、とお母様はあくびをした。



 ──必ず戻ってくる。


 私はここにいる。ここにいたいと思っている。


 約束の日だ。私はエドガー様を待っている。この数日のあいだ、結界の調子は良く、全てが問題なく回っている。


 夕暮れが近づいている。エドガー様はまだ帰ってこない。真新しい扉を開けて、坂をくだる。買ったばかりの革のサンダルは、まだ足に馴染まない。


 すっかり覚えてしまった道をたどり、最後にお別れした海岸にたどり着く。近くには小さな教会があり、中では管理人のおじさんが礼拝堂の中を掃除をしていた。


 静かに祈る。これは国のためではなく、自分のために。



『フィオナ、もう夕暮れ時だね』


 ──こうして、たまに聞こえてくる声がある。会話をすることはできない。『彼』は一方的に話しかけ、私はそれに答える。


 声は届いているのかわからない。でも、今日は。


 ──私は、ここにいていいですか。


『構わない。きみが幸せであるのなら』


 ──仕事が終わったら……私は夕方から自由になっていいですか。


『もちろん。きみはきみの裁量で、人生を楽しむ事ができる。ぼくはそれを祝福する』


 夕方の鐘が鳴る。休息日の前日。仕事も学校も終わって、教会も閉まる時間だ。みんな慌てて買い物をして、家にこもって家族とゆっくり過ごすのだと聞く。


 私は……私は。ひとりだ、今はまだ。


「エドガー様……」


 やっぱり、だめだったのだろうか。全ては夢物語で、定められたことをひっくり返すなんてできっこないのかもしれない。


 でも、エドガー様は信じてくれと言った。だから、私は待っている。


 キイ、と礼拝堂の扉が開く音が聞こえる。振り向くと、そこから顔を出していたのは管理人のおじさんだった。


 大変申し訳ないのだけれど、がっかりした顔をしてしまう。


 ──でも、後ろから、ひょいっと、顔を出したのは……エドガー様ではないか!


「待たせたな」

「エドガー様!!!!」


「もう残業はすまいと誓ったのに、初日からこれだ」


「エドガー様……!!」

「外でその呼び方はやめてくれ」


 走りよっていくと、エドガー様はいつも通りにむっつりした表情だった。


「週末は馬車道が混んでいてな」

「戻ってきたということは……」


「勝訴だ」

「しょうそ……」


 つまり何らかの裁判があり、正式に取り決めがなされたと言うことになる。渡された書類に目を通してみるものの、まったく頭に入ってこない。


「我々は聖女管理局港湾支部として異動になった」

「それって左遷ですよね?」


「栄転と言おう」


「全ての仮説は実証された。聖女の戒律に意味はなく、今後はより柔軟性のある活動をしていくことになる。君が聖女としてこの国の結界を維持し続ける限り、君の心身の自由はこの私、第158代目聖女管理局の所長、エドガー・マクミランが保証しよう」


 信じてはいたけれど、それは戻ってくる事を信じていたのであって、そんなうまい話があっていいのかと、思わず受け取った書類を落としてしまう。


 エドガー様は書類ではなく、私の手を取った。


「ほ……本当に、ですか」


「ダリル王子については、本人の希望通り真実の愛を貫き通すことになった」


 どうやら、婚約も本当に破棄されたらしい。しかし、そうなると次の相手は誰になるのか……。書類に書いてあるはずだ。視線を床にさまよわせる。



「聖女は王家と婚姻すべし、というのは法律の条文として正しくない」


「正しくは、王家の血統かつ星の瞳を持つ男子と婚姻すべしと記載がある。実際に8代前の聖女アンネマリーの記録には……」


「法律の話は後でいいです」


 エドガー様は喋り足りないようだった。気まずい時……言い出しにくい事がある時……何かものすごく主張したい事がある時、口数が多くなることを知っている。


「身分も、武力も、比べてしまうと財産も大してないが……」


「私がいちばん君を幸せにできる。フィオナ、私と結婚してくれないか」


 ……それって偽装ですか、同情ですか、それとも本気ですか。問いかけたいのに、言葉が出てこない。


「私は本気だ。これは仕事ではなくて、個人的な申し込みだ」


 非現実的すぎて流石に幻覚なのではないかと疑ってしまう。私はもしかして、ものすごく疑り深いのかもしれない……。


「わ……私のような者が、エドガー様を、貰って……独占してしまっていいのでしょうか?」

「取り合うほどの男じゃない」


「料理できませんし、世間知らずですし、仕事以外でしてあげられる事があまり思いつかないのですが……」


「笑ってくれ。それだけでいい」


 笑えと言われても。私が硬直したままなので、エドガー様はさらに語り始めた。多分向こうも照れくさいのだろう……。


「私は自分の体に流れる血が疎ましかった」


「望んでこんな風に生まれた訳じゃないとか、本当に一般人だったら悩まなくて済んだのに、とかそんなつまらない事を考えて生きてきた」


「でも今になって、それで良かったと思える。君が聖女なら、私はきっと……君を支えるために居るんだ」


 私と結婚してほしい──エドガー様は、もう一度そう言った。


「や……病める時も、健やかなる時も、始業前も、休憩時間も、終業後も、春夏秋冬、変わらずに、私が聖女でなくなっても、生涯を共にしてくれますか?」


 結婚式の誓いのセリフって、どんなのだったかな。自分が使う事なんてないと思っていたからうろ覚えだ。


「もちろん。ただ一人、君だけのために万難を排し、永遠に愛すると、この魂に誓おう」


 夕暮れの鐘の音が聞こえる。いや違う、これはきっとおじさんが私たちのために鳴らしてくれているのだ……。

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