第8話
「ここからどうするんですか」
座り込んだままエドガー様に尋ねる。立ち上がって、さらにどこかへ逃げる算段があると言うのだろうか。
「別に何も。あそこで捕まるよりは少しばかりヤキモキさせてもバチは当たらないだろうと思っただけだ」
考えてもみなかった返答に、言葉が続かなくなる。
「エドガー様、私が言うのもなんですが、昨日からおかしいですよ……」
私の知っているエドガー・マクミランと言う人は……真面目で、勉強熱心で、人に迷惑をかけるのをよしとしない、他が不真面目でも自分が頑張ればいいと思うような責任感の強い人で、もっとこう、悪く言うと面白みのない感じの……私だけが良さに気がついていればいいのよ、って感じの……とにかく、こんな大それた事をする人ではなかったはずだ。
本当に私が言うことでもないのだが、エドガー様は昨日から様子が変だ。いや、私が彼を知らないだけなのかもしれないと今更思う。
「……なんだろうな。世間では愛があればなんでもできる……らしいじゃないか」
エドガー様は独り言のように呟いた。愛……愛国心? 使命感? それとも……それとも? その後に続く言葉を期待したけれど、詳しい説明はなかった。
「まあ、多少は時間が稼げるだろうから遊ぶといい」
魚の詰まった台車がこちらに向かってきたので慌てて立ち上がる。港の端っこに進むと小さな教会とひっそりとした砂浜があった。
先程受け取ったカゴの中には薄いタオルと平らなサンダルが入っていた。靴を履き替え、おそるおそる波打ち際に近づいてみる。
「冷たい……」
海は生命の源と言うのだから、もっと暖かいのだと思っていた。
波がすっと甲の上を滑り、引いていった。スカートの裾をたくし上げ、少し前に進んでみる。ふくらはぎのあたりまで浸かって振り向くと、エドガー様は岩の上に腰掛けて私を見つめていた。
「楽しいか?」
「はい。来れてよかったです」
一緒に遊びませんか──そう口にする前に、ざぶざぶと音を立ててエドガー様がこちらにやってきた。
「この街は気に入ったか?」
「はい。とても」
遠くで聴き慣れた音がする。これは衛兵の警笛で、ああして連絡を取り合っているのだ。
「ならずっとここで暮らすといい。聖女宮に戻る必要もない。私が話をつけてくる」
そうして、めんどくさい戒律を取り払って、業務を圧縮し、空いた時間は聖女ではなくいられる。エドガー様はそんな夢物語を口にする。
「出来やしませんよ」
「掛け合ってみる価値はある」
可能ではあるのだろう。ただ、認められないだろうと思っている。
「だって、他の人にはそんな事をする理由がないんですよ」
私が楽しいだけで、ただただ大掛かりで面倒くさいことを、他の誰がやってくれるはずもない。
「王家や議会が許してくれません。それに、あなたに危害が及ぶかもしれません」
「構うものか」
エドガー様の表情は真剣そのもので、やっぱり私はこの人の事を何も知らなかったのかもしれないと思ってしまう。
「そうしないと、君が幸せにならないのなら……どんな非常識なことだってこなしてみせる」
「それは……所長の仕事では……ありません」
私のために、ただ私の楽しみだけのために、王家に楯突いて、国の仕組みを変えて、自分の人生を仕事とごちゃまぜにしてしまうと言う。
エドガー様は私の頬に触れた。
「所長でなくても、私のやるべき事だ」
「どうして……ですか」
エドガー様が口を開きかけた時、ガンガンと銅鑼の音が聞こえてきた。
振り向くと街の方からわーっと、見慣れた甲冑の騎士たちが走り寄ってくるのが見えた。私の逃走劇ももう、おしまいだ。しかしエドガー様からは全く悲壮さを感じない。
「よし、自首するか」
「か……帰ってきてくれますよね?」
「もちろん。懲戒免職されるつもりもない」
エドガー様は両手を上げたまま、悠々と砂浜に集まってきた衛兵たちの群れへ進んでいった。
「そ……その人に何かしてみなさい!! 私、何もしませんから!! いやむしろ呪う方向に行きますからね!!」
私の脅しは効果的面だったようで、衛兵たちはぐるっとエドガー様を遠巻きに眺めている。
そのまま睨み合いを続けていると、ダリル王子の補佐官がゼエゼエと息を切らしながらやってきた。
「この薄汚いドブネズミ! よくも手こずらせてくれたでおじゃるな!! 第二王子のイヌめ」
「私はイヌでもネズミでもタヌキでもない」
エドガー様は驚くほどに落ち着き払っており、対照的に補佐官は激昂している様だ。
「ふざけるのも大概にするでおじゃ!! 国を危険に晒して、これだから下半身でしかものを考えない低俗な平民が!!」
そこまで言うことはないのではないかと、私も落ち着いて反論してみる事にする。
「あなたもダリル王子の口車に乗せられて私を追放する片棒を担いだのだから、同罪ではありませんか?」
「黙れ自称聖女の偽聖女!! 聖女は癇癪など起こさないし、上司と逃避行なんてしないものでおじゃる!! この売女、間違いなくパチモン聖女でおじゃ!!」
「むっ……」
全く交渉の余地はなさそうだ。まずは補佐官を何とかしなければ交渉の場に立つこともできないと思うのだが、エドガー様はどうするつもりなのだろうか。
「さっさとこの二人をひっとらえて隔離しろ!! 淫売の子と売女を一緒にしておくと、周りもどんどん腐っていくものだからな」
「さっきから随分とうるさいゴミだな」
エドガー様はいきなり暴言を吐いた。あたりは静まり返り、クゥクゥ、ざあざあと鳥の鳴き声と波の音だけが響く。
「ご、ご、ゴミとは!?」
「俺は知っているぞ」
ものすごく自信ありげな口調なので、わざわざ何を?と尋ねるのが憚られる。衛兵たちはお互いの顔を見合わせ、私を見て、それからやっぱりエドガー様の方を見た。
「な、何を……」
補佐官はやっとの事でそう口にした。
「お前の隠している事を
発言の真意はわからないが、いっそう周りの人々はざわざわし始めた。どうやら補佐官も人望はないようだ。
「は、はったりでおじゃる」
とは言うものの、その狼狽ぶりを見ていると何かしらの後ろ暗いところはあるのだろう。
「詳しいことは裁判で話すとする。俺は逃げも隠れもしない。しかし聖女様はここに留まっていただく。国の歴史に残る大事な計画だ。邪魔をするな」
「そんなことできるわけないじゃろ!」
「お前が決めることじゃない」
エドガー様はピシャリと言い放ち、説明のために自分だけ王都に戻ると告げた。こちらに目くばせがあり──私は何となく、朝の話を思い出した。
「エドガー様に何かあれば、私は祈りをやめます。これは宣誓です。彼は正当な私の代理人として、代わりに話をして頂きます」
聖女の代理人を害する……つまりここでエドガー様を闇に葬り去ってしまうような事があれば、聖女は祈りをやめる。これは脅しだ。
「話し合いの結果には素直に応じます。ただし、それが正しく行われたものであるなら、です」
衛兵たちは私の事を偽聖女だとは思っていないらしく、手に抱えていた武器を下げたのでひとまずほっとする。
「それではフィオナ。私はきっかり一週間後に戻ってくるから、のんびり過ごして待っているように」
「そう言われましても……」
「困ったら坂の途中にある質屋を訪ねろ」とだけ囁いてエドガー様はそのまま連行されてしまい、私は浜辺にひとり取り残された。
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