第7話

「帰ります」


 朝日の中、ヨレヨレの髪の毛をいじりながら私はエドガー様にそう告げた。


 一夜明けて私はすっかり冷静になり、起きてすぐ朝の祈りをする余裕さえあった。やはりここからでも結界の維持は問題なくできていた。


 夜通し廊下で見張りをしていたのだろうか、エドガー様は大層寝不足そうな顔をしている。


 これ以上この人を困らせたくはないので、王宮に戻るつもりだ。でも、一つだけお願いを聞いてほしい。


「ねえ、エドガー様……私のこと、必要ですか?」

「ああ」


「それならきちんと定年まで勤め上げてくださいね。先に結婚とかしたら恨みますから。聖女の呪い、怖いですよ?」


 頑張って明るく振る舞ったが、どうやら空回りのようでエドガー様は全く心ここにあらず、とでも言いたげに虚空を見つめていた。


「そのことについてだが」

「はい」


「やはり私の論文は正しいのではないか?」

「……それはそうですが」


 会話が噛み合っているような、いないような。寝不足でぼんやりしているのだろうか。


「今、王国はフィオナが行方不明になり危機感を感じているだろう」


 エドガー様は静かに語り始めた。


「聖女がいなくなったと思うもの、必要性を認識していないもの、そもそもいなくなったことに気がついていないもの、そして私が聖女を確保し、説得を試みていると考えているもの。どれが多数と言うのは関係ない。全員に向け聖女は怒っている。自分を取り巻く理不尽さに気がついた、と発信する」


「今ならこちらも強気に出ることができる。君の待遇について、交渉をしよう」


 机上の空論とされていたことを、私は実際にやってのけた。今ごろは呑気な教会の面々も結界がびくともしない事に気がついているに違いないとエドガー様は言う。


 皮肉な事にダリル王子のとんちきな行動によって、いろんなことが証明され始めた。本当に人生どう転ぶかわからないものだ。


「とりあえず朝食を食べようか」


 エドガー様が階段を降りようとしたその時、またしても階下からドアを叩く音が聞こえてきた。


 見つかってしまった。一晩中探して、やはりここが怪しいとなったのだろう。


 エドガー様は落ち着いている……というよりは、むしろ不遜と表現した方が正しい顔だった。


 ノックの音はさらに激しくなり、とうとうドスン、と嫌な響きが聞こえてくる。扉を斧で破るつもりのようで、とても「実験結果を発表します!」と言い出せる雰囲気ではない。


「ど、どうしましょう」

「こっちだ」


 エドガー様は「ひとまずここから逃げる」とだけ短く言った。


 屋上から梯子をつたって、家の裏側へ降りる。崖のふちを通って隣の家の敷地を二軒分通り抜け、三軒目の裏口をノックする。


「あらまあ、おはよう」

「おはようございます」


 中から元気そうなおばあさんが顔を出した。


「今日はずいぶん騒がしいのね」


 そう言いながらも、彼女は家の中に入れてくれた。そのまま屋上に向かう。洗濯物がはためいている。ちらりと、路上に衛兵がうろついているのが見えた。まだ最初の白い家のあたりに固まっている様だ。


「……屋上で、何をするんですか?」


 聖女と言ったって、空は飛べないしエドガー様が転移魔法を使えるわけでもない。


「隣の宿屋に行く」


 エドガー様は手すりに立てかけてあった巨大な木の板を手に取り、それを建物と建物の間に渡した。


「歩道は人でいっぱいだからな」

「えっと……」


 確かに、この家と隣の建物は隣接していて飛び移ることができる人もいるだろう。しかし、そんな事をしでかすのは物語の中だけだと思うのだが……。


「相変わらずやんちゃだね。逃げるなら、靴を履き替えなきゃね」


 おばあさんは私の前に靴を差し出した。細いミュールを脱いで、それに履き替える。ぼろぼろだけれど妙にしっくりくる。


「こ、ここを渡るんですか?」

「たとえ落ちても即死はしないから聖女の奇跡でなんとでもなる」


 エドガー様はこれをやったことがあるらしく、ひょいと板に乗った。相変わらず普通の様子だが冷静に考えてみると、こんなのとんでもない。


「は、はわわ……」


 よじ登ったのはいいものの、ほんのごく僅かな距離に足がすくむ。さっさと歩かないと見つかってしまうかもしれないのに、全く動くことができず、板の上でプルプルと震えている。


「来い!」


 エドガー様に手を引かれなんとか渡りきる。洗濯物を干している女性があきれた顔でこちらを見ていた。


 小走りに屋上から階下へと向かう。先程の女性が先に階段を下りていき、ロビーに立っていた恰幅の良い男性に声をかけた。


「若旦那、ルシアちゃんとこのエドガーが女の子を誘拐して逃走しているよ」


「エドガー・マクミラン。お前はいつか、とんでもない悪事をしでかすんじゃないかと俺は睨んでいた……」


 若旦那と呼ばれた男性は本から飛び出してきたような強面で、苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、窓の外をうろついている衛兵のことは知らんふりをしてくれているようだ。


「牛乳屋は?」

「今ちょうど来ている」


 若旦那が顎をしゃくった先から、作業着を着た小さな男の子がひょいと顔を出した。


「コリン、頼む」

「何を? ヨーグルト?」


 私も、男の子も、若旦那もびっくりしたのだが、エドガー様は牛乳を配達する台車の中に潜り込むと言い出した。


 牛乳瓶の詰まった箱と箱の間に横たわり、緑の布をかけられる。台車はゴロゴロと、石畳の上を慎重に進んでいく。


 早朝から、往来で、台車の上でエドガー様と密着して衛兵から逃げ隠れしているなんて、昨日の私に言っても一つとして信じないだろう。


「どぉーこぉーまぁでぇ〜行く〜の?」


 コリンと言う牛乳屋の少年は、歌いながらエドガー様に問いかけた。


「魚屋まで」

「たぁだぁ〜ではいけません〜♪」


 ガシャガシャと金属が擦れ合う音が台車の横を通り抜ける。私を探しているのだ。


『家はどうなった?』

『もぬけのから。間違いなく居た。まだ街中にいるはずだ』


「もし牧場の坊主にお尋ねなら♪」


『実家は?』

『知らぬ存ぜぬの一点張り』


「お、お母様が……」


 地元ということは、エドガー様の家族はこの街に住んでいるのだ。私のせいで大変な事になっているかもしれない。


「あの人については別に心配しなくてもいい……」

「そ、そ、そんなこと言われてもっ」


「おおーーきなチーズを買ってくださいな〜!!」


『朝っぱらから呑気にうるせえなこのガキ!!』


 コリン少年が私の声を誤魔化すために張り上げた歌声が衛兵の癇に障った様でガシャン、と台車が蹴りとばされる。


 思わず叫びそうになり、口を塞がれる。何やら外で言い争っていたが、無事に解放された様で再び台車は動き出し、しばらくしてまた止まった。


「お魚屋さん!つきましたよ!」


「そら、一気に立ち上がって、店の中に駆け込むんだ」


 体を起こし、目の前にあった店に飛び込む。ひんやりとした空気が奥から漂ってくる。


「おはよう!早いなぁおい!」


 店の中にいたのは昨日の魚フライのお兄さんだった。この街の人はみんな明るい。


「必要があればきちんと早起きだってする」

「お前昨日から何してんだよ? マジウケるんだが」


 エドガー様が何かに追われている事を知らないはずもないのに、彼はとても楽しそうだった。


 お兄さんの明るさが罪悪感を少しだけかき消してくれる。


 魚屋の地下に降りていくと、中は驚くほど広大な地下室だった。細いトンネルがさらにどこかへと繋がっているようだ。


「お嬢さん、海に行くなら海道具一式。初回無料だよ」


 何やら色々と入ったカゴを渡され、湿った空気のする通路を通り抜ける。天然の洞窟を改造したものらしい。まっすぐ進んだ先にかすかに光が見える。


 そうして、たどり着いたのは昨日の港だった。海は朝の光を受けて、黄金に輝いている。


「つ……着いた……」


 へたへたと、私はその場に座り込んでしまった。


「着いたな」


 エドガー様は満足そうに頷いた。

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