第6話
びくり、と体が強張る。私がこの港町に逃げてきたことはエドガー様どころか王宮だってとっくに掴んでいるはずだ。ダリル王子が許したところで、他の人たちは許さないだろう。
楽しい時間はもうおしまいだ。エドガー様は所長として私を連れ戻すためにやってきたのだから……。
どんどん、とノックの音が聞こえ、ぐっとグラスを握る。割れてしまうかもしれないと、ばかなことを考える。
しかしエドガー様は無反応だった。床の上で膝を抱え、横目で大通りに意識を向けているその様子は、どう見ても意図的な無視だ。
「……?」
ぼんやりとしたランプの灯を頼りに、じっとエドガー様を見つめる。何を考えているのかわからない。しばらくしてノックの音が無くなったのを確認して、エドガー様は静かに口を開く。
「ここは空き家だし、この部屋の窓は通りに面していないから明かりが漏れることはない」
「……どうしてですか」
エドガー様は問いかけに答えず、立ち上がり私に向け手招きをした。
足音を殺しながら、上の階へ向かう。屋上の手すりから身をのりだすと、衛兵が持っているだろう明かりがいくつかゆらめいていた。
「……あんなにたくさん」
「あまり見ていると勘付かれる。戻ろう」
私の髪の毛は明るい紫だ。今日は色々な人と会ったけれど、見慣れない紫の髪の女、と言われたら私のことを思い出す人もいるだろう。
「また来るかもしれませんよね……」
「仮に発見されても、落ち着くまで保護していましたと言えばいい」
何しろ私は聖女管理局の所長なのだから──とエドガー様は眼鏡を拭きながら答えた。
月明かりの下でエドガー様の顔を見て、眼鏡に認識阻害の魔法がかかっていることに初めて気がつく。
「その瞳の色は……」
エドガー様の瞳は、私が思っていたようなごく普通の青ではなかった。
青と緑の混じり合った虹彩。どうしてこの人が『星の瞳』を持っているの?
私の問い詰めるような視線に、エドガー様は悪びれもなく答えた。
「君が知らないのも当然だが、マクミランと言う苗字は王家の庶子につける名だ」
「そう……なんですか」
それは一部の人──王家の人間や高位貴族にとっては常識であるらしい。
私にとってエドガー様は新鮮な驚きに満ちた謎の人物であったけれど──若いみそらでいきなり所長に就任したのも、妙に仕事熱心なのも、王族に対して全くなんの怖れも抱いていなさそうな様子も、ようやく理解できた。
……なんだ。それはつまり、熱心なのは血筋ゆえ、なのだ。
「庶子でも魔力に優れていれば養子として引き取られることもあるが、私はこの通りなんの才能もない平民だ。私一人では訴えても制度の一つや二つ、変えることすら叶わない」
エドガー様は力のない自分を恥じている、と言った。
「何かしてやりたいと思っていたが、悪戯に期待させるばかりで、逆に君を苦しめてしまっていたな」
嫌気がさすのも当然だ、とエドガー様はつぶやいた。私が自分に失望しているから、相談もなしに出ていったのだと思っているのだ。
「違います」
階段を駆け降りて元の部屋へ戻る。私はさっきから、事あるごとに泣いている。王宮を飛び出した時はむしろなんでもやってやるぜの気持ちだったはずなのに、今はこの体たらくだ。
「フィオナ……泣かないでくれ、頼むから……」
後ろからついてきたエドガー様は珍しくおろおろしている様子だった。窓際に座らされ、何か他にしたいことはあるかと問われる。
「今は何が? 私が出自を隠していたのがまずかったのか?」
「……いいえ。なんでしょうね……ここにきてから、うまく感情が整理できなくて」
私はずっと、気持ちを押し殺していた。それがとうとう吹き出してしまい、自分で制御できなくなっている。
「今日の朝、あいつから何を言われたんだ?」
「ダリル王子が……エスメラルダ様を膝に乗せていて……」
そこだけは勘違いしてほしくないのだが、私は二人がいちゃついていたことにショックを受けたのではない。
「……膝の上に乗りたかったのか?」
そういう訳ではないが、私は頷いた。つまるところ、楽しそうにしている所を見て妬ましくなった気持ちが確かにあった。
「私でよければ膝を貸そうか」
「え……」
再び沈黙が場を支配する。エドガー様は失敗したと思ったのか、慌てて立ち上がった。
「今のは忘れてくれ。決して不純な意味ではなく、この場には自分しかいないのでそれでよければ、と」
「乗ります!」
この機会を逃すことはできないと、ありがたくエドガー様の膝に乗ることにする。いきなりそんな提案をされて驚いてしまったが、王宮に帰るまでは存分に甘えさせていただく。
「へへへ……」
すっかり涙が引っ込んでしまった。何だか非常にむず痒く若干の後ろめたさがあるので、確かにこれは不貞行為と言って差し支えないだろう。でも、もう婚約は破棄したんだったかな。
「こんな感じか?」
実際はもっといちゃいちゃとした様相で、エスメラルダ様はぴったりと上半身をくっつけていたのだが、さすがにそれをやると怒られそうなのでお行儀よく太ももの上に腰掛けている。
「まあ、そうですね」
これが物語の中なら素敵な男性が傷心のヒロインを「あんな奴のことなんて忘れてしまえ」と言わんばかりに抱きしめてくれる訳だが、ここにいるのはエドガー様なので、そのような事態にはならない。
この人はあくまで私の上司なのだから。そう思いつつちょっと期待して振り向くと、エドガー様は腕を組んで非常に難しい顔をしていた。
「あの……」
「ん?」
「何を考えていますか?」
港での問いをエドガー様に返す。今まで、業務以外でこんなに話すことはなかった。婚約者のいる身で他の男性と話すのは「はしたない」と言われていたからずっと遠慮していた。
不真面目だと思われたくないし、迷惑をかけたくはなかった。
「明日のことを」
私はこの夜が永遠に続けばいいのにと思っている。
自らふざけた話に乗った。ダリル王子に腹が立っているのも、聖女の仕事に疲れているのも本当だ。私はずっと逃げたかった。最近はどんどんエドガー様に依存したい気持ちが強くなっていて、自分はこのままいくとどうなってしまうのだろうと、常にじっとりとした不安があった。
「明日とか、いらないです……」
我慢しようと思ったが、やっぱり口に出してしまった。エドガー様はふるふると首を振った。
「そこを何とかやりがいのある感じに持っていくのが私の仕事だ」
もう寝なさい──エドガー様はそっと手を伸ばし、指で優しく瞼に触れた。すると、途端に眠気が襲ってきて、私はまどろみに吸い込まれていった。
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