第5話

 手押し車はいつの間にかいなくなっていた。お代を払っていないのに……。


 とりあえずついてきなさいと言われ、エドガー様に手を引かれて市街地に戻り、一件の店にたどり着いたのだが、中はずいぶんと混雑している様子だった。


「おい、エドガーじゃねえか。今は満席なんだ、悪いな」


 お店のおじさんがびっくりするぐらい大きな声でこちらに話しかけてきた。


「観光船が寄港しているのか……」


 エドガー様は眉間のシワを伸ばした。


「自分で作れよ。今時は仕事一筋より家事炊事ができる方がモテるって話だぜ」


 店主らしきおじさんは、調理場からエドガー様と背後の私を交互に見た。


「今はそれどころじゃない……」


「鍋ごとでいいなら出してやるよ」


 エドガー様は難しい顔のまま調理場へ入っていき、焦げついた鍋を受け取って戻ってきた。「これ5人分ぐらいあるだろう……」と小さく呟くのが聞こえる。


「ついてきなさい」


 さらに後ろをついていく。エドガー様は途中でパンを買い、ワインを買い、お菓子を買い、花を買った。


 お店の人たちはみんなエドガー様のことを知っている様子だったが、その背後に幽霊みたいにくっついている私の事には一切触れてこない。まるで誰も私のことを見ていないみたいだ。


 坂をどんどん登っていくと、商店街が終わって住宅街になる。エドガー様は一軒の家の前で立ち止まる。


 真四角でもなく、かといって円形でもなく、三角でもなく、増築に増築を重ねた様な珍妙な家だった。


 空っぽの植木鉢をずらすと、下には鍵が置いてあった。


「ご実家ですか?」

「いや。つい先日まで人に貸していた。家財道具が残っているはずだ」


 家の中は少し埃っぽく、寂しい空気が漂っている。玄関を抜けると居間があった。敷地面積だけはある聖女宮に比べると非常にこじんまりとしているが、私の部屋は実際このぐらいの広さなので、普通に生活する分にはきっと、これで問題ないのだろう。


「出来るか?」


 エドガー様がランプを差し出したので、火を灯す。


 聖女はその力でもって、灯りをともすことができる。新年のお祭りの時には、たくさん光の玉を作って見物客の方に向かって投げる。


 それを捕まえると、その一年はいいことがあるそうだ。私はいつも、その様子をただ黙って眺めていた。私の分は、ないから……。


「ありがとう」


 お礼を言われて嬉しいはずなのに、お祭りの事を思い出して物凄く胸が苦しくなった。


 エドガー様は台所の脇にある木戸を開ける。後ろをついていくと中庭が見え、薄暗いがどうやら井戸もあるようだ。


「良かった、一応ひと通り残っているな」


 エドガー様はかまどに火をおこし、井戸から水を汲んできて、棚から食器を出して洗い始めた。


 炊事は女性の仕事だとばかり思っていたが、世の中の男性もするのだと妙な気持ちになる。


 そのままじっと見つめていると、エドガー様は一階ではなく、二階の部屋で待てと声をかけてきた。


 階段を上がると、大通りではなく裏側の斜面に面した、海の見える部屋があった。


もう、日は沈みかけている。夜になって朝になれば……いや、もっと前にこの逃避行は終わってしまうのだろう。


 窓を開けて換気する。さんに顎を乗せぼんやりと頬に風を受けていると、エドガー様が鍋を持って上がってきた。


 床の上にクロスが敷かれ、私の前にどんどんと先ほど買ったものが並べられていく。


「ビーフシチューだ」

「これがですか」


 先程の言葉を思い出す。自分でやれ、とおじさんは言っていた。


「エドガー様は、ビーフシチュー 、作れるんですか」

「これは結構時間がかかる料理なんだ。いきなりは作れない」


 子供の頃あの店でお小遣い稼ぎをしていて、ついでに料理を習ったのだと言う。


「うちの母親は家事はからっきしだったからな……まあそれは追い追い。とりあえず食べなさい」


「エドガー様は……」

「ん?」


「私が先ほど、魚を食べていたのをご覧になったでしょう。その上肉まで……」


「せっかくの機会だ、論文が正しいことを片っぱしから証明してやる」


 エドガー様の論文と言うのは、聖女の規律と実際の結界の運用には全くなんの関連性もなく、ただ悪戯に人権を侵害しているだけの古びた習慣である──との主張である。


 なんでも、激しい干ばつによって一時的に野菜が不足した年の贅沢と、そのあとたまたま菜食主義者の聖女が重なった事により、伝承として定着してしまった。なのでそれとこれとは全く関係ない、という言い分だ。


 しかし誰もそんな事には興味がないため否定も肯定もされず、事実確認については宙ぶらりんのまま時は過ぎ去っていった。


「いただきます」


 おそるおそる口に含んでみる。……確かに美味しい。私の貧困な語彙では表現できないので美味しいです、としか言えないが……。


「……美味いことは美味いはずだが、泣くほど……いや、それもそうだな。私は君に何もしてやれていないからな」


 エドガー様が、きゅいきゅいと音を立ててワインのコルクを開けるのを眺める。そんなことはないですよ、色々やって貰っていました、と口に出せずに私はべそべそと泣きながらビーフシチューを食べた。


「飲みなさい」


 聖女は儀式の時以外は禁酒……いや、そんなことはもうどうだっていいのか。私は言われるがままに乾杯し、あっという間に瓶が空になった。


「流石にそれはやりすぎじゃないのか……水にしなさい」


 エドガー様が飲んでいたのは良く見るとワインではなく水だった。つまり減った分は全部私ということになる。


「このワイン、美味しいですよ……なんだかビーフシチューに合う気がします」

「それはそうだろう」


 何がそう、なのか私にはいまいち分からないが、とにかくエドガー様の常識では「そう」らしかった。


「もう全部なくなってしまいました!」


 私はやけくそでワインの瓶をひっくり返した。お酒を飲むのがこんなに楽しいとは思わなかった。ふわふわして、こんな状況なのに陽気な気持ちになってくる。


「おかわりを所望します」

「だめだ」


 エドガー様は水差しの水をワインの瓶に移し替えた。


「これで我慢しなさい。明日になったら買ってやるから」


 明日。明日か。それなら、いいかな……。そう思った時、玄関の方からガヤガヤとした音が聞こえ、一気に酔いが覚めていった。

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