六 夜の訪問者
昼間のやっかいな子供が押しかけてきたことに顔をしかめ、深呼吸してできるだけ眉間の力を抜いてから、戸を開ける。
「何をお困りか?」
言葉の通じるナーソリエルの部屋ををわざわざ訪れたということは、そういうことだろう。空腹か、部屋で何か壊しでもしたか、明日の予定を忘れたか──
「……よしよしされに来ました」
「は?」
枕をぎゅっと抱きしめたファラが心細そうにこちらを見上げている。廊下で話すと声が響くので、とりあえず部屋に招き入れた。
「……何の御用でいらしたか、もう一度伺っても?」
「今日は一緒に寝ます」
「は?」
昼間の元気はどこへやったのか、十歳の葉神官は悲しそうにとぼとぼ歩いて、勝手にナーソリエルの寝台に上がり込んだ。
「おい……」
ナーソリエルの枕を引っ張ってずらし、隣に自分の枕を設置している子供を呆然と見て、咄嗟に言葉が出ずに瞬きを繰り返す。
「……眠れないのならば、香草茶を淹れて差し上げよう。それで部屋へ帰りなさい」
「眠れないのではありません。ナーソリエルによしよしされたいのです」
「エルトールは」
「彼では嫌です」
少年は絶対に動かないぞと言わんばかりに毛布を被って丸くなり、叩き出して泣き叫ばれでもしたらどうしようと思ったナーソリエルは、ひとまず香草茶を淹れることにした。陶器の水差しの底に魔法陣を描き、水を温め始める。
「……よしよしはまだですか」
適当な返答が思い浮かばず沈黙したが、布団から頭だけ出して当然のような顔で催促する姿に、これはどうしようもないと悟った。水差しを置くと寝台に歩み寄り、手を伸ばして茶色い頭に手を乗せてみる。するとファラが頭をぐりぐりと動かしながら「そう、これです」と言った。
コポコポと音がして湯が沸いたので、カップに茶を注いで寝台の子供に握らせた。ファラは大人しく茶を飲んで、小さく「お花の香りがします」と呟いた。
「ファラ、これを飲んだら──」
「シャルと呼んでください」
「……ふむ」
口調からして、それが本名なのだろう。神殿ではありがちな「こんなの本当の名前じゃない」と駄々を捏ねる子供なのだろうかと、少し身構えながら続きを待つ。
「……マリオン・ルシエーレ=ファルマーティ。五歳まで、そういう名前でした。それが、突然取られてしまった」
「神殿によって奪われたと?」
ファラは香草茶を一口飲んで、頷く。
「家族は私に、神殿に招かれるのは名誉なことだと言いました。それは、寂しいけれど受け入れています。けれど……どうして神殿は人から名を奪うのでしょうか。ただ一生懸命、神へお仕えするだけではどうしてだめなのでしょう。父や母や姉がシャルと呼んだ僕は、消えてしまったのですか? 僕はもうどこにも、いてはならないのですか?」
「ファラ」
少年の目に段々と涙が浮かんできて、ナーソリエルはおろおろした。どうしよう、今にも大声で泣き出すのではなかろうか。頭を何度か撫でてみたが、その途端に寂しそうな声でしゃくり上げ始めた。慌てて手を離す。困った、どうしよう。トルスを呼びに行くか?
「……フォーレスで色々な人に訊きましたが、私が納得できる答えは見つかりませんでした。中央ならと思ったけれど、言葉がまだできないから、エルトールにはきっと伝わらなくて、ううん、それだけではなくて、彼はきっと私の頭を家族のように撫でてはくれないから」
「神は……神殿へ入ったからといって、名を奪うことはなされない。あくまでも眷星名は神殿の制度であって、名という無形のものを本質的に他者が奪うことはできぬ」
ここでは互いに特別な名で呼び合う決まりなのだと、そう考えていれば良い。そう言うとファラは目をまんまるくして、そのままの顔で動かなくなった。
「……ナーソリエル」
か細い声で呟いたファラが、手にしていた香草茶を一気に飲み干し、空になったカップを出窓にそっと置くと、毛布を捲って寝台の隣をぽんぽんと叩いた。
「はい、お隣ですよ」
「ファラ」
「シャルです。今日は、そう呼んでください」
「……シャル」
少年の勢いに押し切られてしまったナーソリエルが困り果てた顔で寝台の隣に上がると、ファラはみるみる笑顔になって瞳を水色にキラキラさせ、大人しく横になって目を閉じた。
「明かりを消してください」
「そなた……」
「ねえ、ナーソリエルのおめめは、元はどんな色なのですか?」
「……灰色」
「ふうん」
比較的どうでも良さそうに相槌を打たれた。青とか緑とか言えば、もう少し興味を持ったのだろうか。
子供の時は淡い灰色だったのが年々色を濃くしている瞳だが、成人した今はかなり明るい光に照らされないと漆黒に見えるような色になっていた。実は気ではなく闇の魔力持ちなのではないかと検査されたが、薄い闇と濃い気の判別は難しく、結局並外れた記憶力の高さから気であろうと結論づけられた。貴重な闇持ちであれば問答無用で天の神殿に入れられ、賢者になるなど夢のまた夢なので、わかりやすい叡智の祝福を受けていて本当に良かったと思う。
考え事をしている間に寝息が聞こえてきて、見るとファラは既に眠りについていた。どういう神経をしているのだと思ったが、こんな子供を放り出すのも気の毒なので、今夜は我慢するしかないだろう。とはいえこんな状態ではとても眠れそうになかったので、閉じた瞼の動きを注視しながら少しずつランタンの光の出力を上げ、薄暗い中で寝転がったまま再び本を開く。少年がすうすうと寝息を立てる度に周囲の空気が浄化されるのを少し笑って、物語の続きに目を戻した。
◇
朝の鐘に目を覚ますと、胸の上に開いた本が乗っていた。ついでに腹の上には、ファラの脚が乗っている。絶え間なく転がってくるのを夜中に何度もどかしたが、どうやら疲れ切って気絶するように寝入ったために、眠っている最中の攻撃には気づかなかったようだ。
「……ファラ」
「……ん?」
「朝だ」
「うん」
「……起きなさい」
「うん」
返事はするが目は閉じたままだ。額に手を当てて覚醒の術を施すと、途端にぱちりと目を開けて飛び起きる。
「えっ? 何? ここ、どこです?」
「ファラ」
「あ、ナーソリエル」
実年齢より幼く見える葉神官はぽかんとこちらを見て、そして力の抜けた顔でにこっとした。水を渡してやると、大人しく口をつける。
「着替えは部屋か」
「あ、はい」
「ひとりで帰れるな」
「……私の部屋、どこでしたっけ?」
「知らぬ」
答えると絶望した顔になったので、ため息をついて空中に魔法陣を描く。と、物珍しそうな視線に慌てて消し、同じ陣を顕現術で描き直した。魔力の翼を持った小さいミミズクが現れ、ナーソリエルの伝言を携えてエルトールの元へ飛んでゆく。
「伝令鳥の……魔術?」
「……より遠くまで、明瞭に声が届く」
失敗したと思いながら言うと、ファラは「凄いですね」と楽しげに目を輝かせた。
「……他言は慎んでいただけるとありがたいのだが」
「魔術、嫌いな人が多いですものね」
素直に頷いたファラに安堵して、尋ねる。
「そなたは嫌厭せぬのか?」
「陣による力の発現を人にお与えになったのは叡智の神エルフトです。魔法陣でもきちんと発現するのですから、神もお許しになっているのでは? 神が許されたことを人が許さないというのは、乱暴なことです」
「……そなたは、賢いな」
どうやら浮かれているのは性格だけで、頭脳の方はきちんとしているらしい。やはり馬鹿でなくて良かったと思いながらそう言うと、ファラは頰を赤くして嬉しそうに笑った。
「そうですか? 素敵なお医者さまになれますか?」
「努力を怠らなければ、まず間違いなく最高の医師になるだろう」
「……ふふ、最高のお医者さま」
そんなに嬉しそうにされると、無駄に褒め千切ったように思えるのでやめてほしい。両手を頬に当てて恥じらっている小さな神官を眉を寄せて眺めていると、ノックの音が響いてエルトールが訪れた。
「遅い」
「……一緒に寝てあげたんですか? 貴方が?」
「黙れ」
「怒らないでください……ファラ、部屋へ帰りますよ」
「はい、エルトール」
にこっとして礼儀正しく返事をしたファラに、エルトールはまたしても「かわいい……」と囁いて、幸せそうに少年の手を引いて去っていった。自分などより余程可愛がっているように思うが、何があの子供を突き動かして、よりにもよってここで寝かせる羽目になったのだろうか。
十秒思案してもよくわからなかったので、ナーソリエルは肩を竦めて考えるのをやめた。自然や魔法や歴史についてはしつこいくらい熱心に考察する彼だが、人の心の動きについては全く興味が湧かなかったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。