五 ファーリアス
「……ナーソリエル?」
真っ直ぐな丸い水色の瞳がこちらを見て、小さな高い声がそう尋ねた。ナーソリエルが頷くと、水の愛し子がぱあっと顔を輝かせて部屋に飛び込んでくる。
「うわあ、おうたのひとです! やったあ!」
ぺたぺた裸足で駆けてきて、そしていきなり抱きつかれた。出演者以外はまだずぶ濡れなので、触れているところからどんどん水が染み込んでくる。目を白黒させていると、少年は共通語で「おうたを聴きました。とっても素敵でした」ともごもご言った。
「み、水の葉、ファーリアス。そなたのヴェルトルート語が上達するまで、私が通訳と教師役を務めることになる」
動揺しながらとりあえずそう伝えると、ファラは頰をナーソリエルの胸に押し当てたまま「はい!」と馬鹿みたいに満面の笑みで言った。披露目の時には大変利発そうに見えていたのだが、見間違いだったらしい。手を繋ごうとしてくるのをさりげなく避ける。と、その時体重をかけてトーガをむんずと掴まれ、ナーソリエルはよろめいた。しかしそんなことは気にせず、少年は必死に背伸びをしながらナーソリエルの肩を掴み、膝に足を掛けてよじ登ろうとしてくる。
「──何だ!!」
「おめめの色をね、近くで見たいのです。不思議な色をしていますね」
「は!?」
背後でヴァーセルスが爆笑している。こんなに楽しそうな彼の笑い声を初めて聞いた。
「屈むので、待ちなさい! 登るな!」
「本当ですか?」
「──ファラ!」
とそこで、少年の世話役らしい水の枝神官のエルトールが駆け込んできた。
「あなたは……また、ひとりで歩き回って。しかも何をしているんですか?」
消えた子供を探し回ったのか息切れしながら尋ねた青年を振り返って、ファラがにっこりする。
「おうたのひとに会いにゆきますと言われたので、そうしました」
「『おうたのひと』って……か、かわいい」
エルトールが片手で口を覆うと呟いた。まだ笑いが続いているヴァーセルスが「彼は子供好きですから」と言う。それは結構だが、見たところ教育係には向いていないのではないか。ナーソリエルも人のことは言えないが。
「それで……ナーソリエルにご挨拶はできましたか?」
「それはちょっと待ってくださいね、おめめの色を見てからです。いま、ナーソリエルが座ってくれますから」
「は?」
エルトールはぽかんとしていたが、渋々しゃがんだナーソリエルの両頬をファラが鷲掴みにして引き寄せ、瞳をまじまじと覗き込むと、途端にさあっと青褪めて少年を引き剥がしにかかった。
「ちょっとファラ! 彼は神殿一気難しいのだから、あまり失礼しないで!」
「……そなたの方が礼を失しているように思うが」
低く呟くとエルトールが飛び上がり、ヴァーセルスが顔を背けて肩を揺らした。
「ご、ごめんなさいナシル! その、悪気はありません!」
「……そうか」
「ファラもほら、ごめんなさいを言いましょうね?」
「どうしておめめがそんなに黒いのですか? 闇の窓を覗き込んでいるようです」
「ひっ!」
更に青くなった水の青年がふらりと壁に寄りかかり、ヴァーセルスが完全に後ろを向いて震えるだけになった。闇の女神は破壊神であるからして「闇のような瞳」は破壊的、或いは破滅的な瞳であると言っているも同然なのだが、まあ馬鹿にするような空気は感じないので、その程度ならばさほど気にしない。
「そなたの瞳は青く光るだろう。元の色は……茶系統だな?」
「はい、焦がしたお砂糖の色です」
「そなたの祝福は、水色をしているな? 私は気の神官ゆえ、祝福は影の色だ。影とは即ち浅い闇である。気の神が母たる闇の女神から受け継いだ黒い影色が、そなたと同じように、瞳に集まっている」
「あ、わかりました! ナーソリエルも、風の愛し子なのですね」
「いかにも」
「お揃いですね!」
「……そうだな」
目にも留まらぬ速さで手を繋いだファラが、水色の瞳をキラキラさせて笑った。手に触られるのは好かないが、水の愛し子だからか、清潔な感じがして嫌悪感はない。むしろその純粋な好意に青い瞳の小さな妖精を思い出して、気づくと繋がれているのと反対の手を持ち上げ、明るい茶色の髪をそっと撫でていた。
「おや……おやおや」
ヴァーセルスの驚く声でハッと我に返って、素早く手を引っ込める。見下ろすと、ファラは直前までの輝かしい笑顔を消して、何やら眉を寄せた難しい顔で撫でられた箇所を触っていた。その姿にひどく落胆して、肩を落とす。
「……ひとまず、今日はご挨拶だけですから。今日のところは私が面倒を見ますが、明日からは昼前に語学の勉強を、昼食を終えて午後から二時間ほど、水の塔へ付き添って通訳をお願いします」
「……心得た」
頷くと、エルトールは気まずそうなままファラを連れて控えの間を出ていった。再び部屋の隅で心を落ち着けようと踵を返すと、ヴァーセルスに腕を掴まれる。
「こら、いい加減になさい」
「……わかっている」
低く呟いて腕を振りほどく。仕方ない、今夜部屋でひとりになってから思う存分やればいい。ナーソリエルはそう考えて深いため息をつき、リュートを抱えて昼食へ向かった。
◇
その後も神殿内での儀式をいくつかこなし、長い一日を終えて、ナーソリエルはようやく自室の鍵をかけて閉じ込もると寝台の上で膝を抱えた。今夜は例の研究にも手を出す気にならず、毛布の中には書棚から小説を一冊持ち込んでいる。こんな日は古典文学よりも冒険ものや推理小説の方が気楽で良いのだが、神殿でそんな娯楽は許されていない。
静かな石造りの部屋でページを捲る幽かな音を聞いていると、いくらか心が落ち着いてきた。とはいえ読書中にそんな心の動きを把握している時点で全く集中はできていない。しかしそれでも、物語の世界が閉塞的な神殿の中で逃げ込める数少ない場所であることに変わりはない。
ふと顔を上げて、枕元に下げてあるランタンを指先でちょんとつつく。光がゆらゆらと揺れ、影が大きく伸び縮みするのをぼうっと眺めた。外はまだ雨が降り続いている。今夜は満月だが、白く光る月の姿は雲に隠れて見えないだろう。月が隠れる、つまり神の目から隠される夜、ナーソリエルには神殿がいつにも増して暗く冷たく感じる。例えるなら、どこかで何かが狂い始めているこの場所から、神の加護が拭い去られるように──
コンコンと、聞き逃してしまいそうな小さなノックの音が響いてナーソリエルは眉を寄せた。誰だこんな夜中に、鬱陶しい。
「……誰かね?」
「……ファーリアスです」
呟くような声が扉の外から聞こえた。
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