彼方

神夜

彼方

 その日はすごい大雨だった。

 周りが見えなくなるほどの雨は2人の人間の運命を変えてしまった。

 鳴り響く救急車のサイレン、誰かの叫び声、目の前に広がるのは愛する恋人だったモノ。彼女の息は既になく、その愛しい瞼が開くことはもう二度とない。自分の後ろには、愛する彼女が身体を張って、自身を犠牲にしてまで助けた男の子。背中を向けていてもしっかりとわかるほどに痛い視線をこちらに向けている。

 無理もないだろう。自分を助けてくれた女性は大量の血液を流して死んでいるのだから。きっと一生のトラウマになってしまったに違いなかった。


 でも。


 でもそんなことはどうだっていい。だって自分には、彼女をおいて他に大切なものなどないのだから。その彼女が死んでしまった今、自身に生きている意味などない。存在する価値などない。彼女だけが世界の全てだったのに。神様はいつも僕に試練をお与えになるけれど、僕は一度だって1人で超えられたことなどなかった。いつだって彼女が横で手を貸してくれていたから。


 でもそんな愛しく優しい彼女は死んでしまった。見ず知らずの男の子を守って死んでしまった。彼女のことしか愛せない僕という人間をひとりぼっちにして死んでしまった。モノになってしまった。彼女は最期の時、僕に一言「強く生きて」と言った。彼女が僕の弱さを知らないわけがなかったのだから、これはやはり生きろということなのだろうが、それにしてもあまりにも酷いではないか。そんなことはできない無理だ。そう言ってやりたかった。


 けれど、その機会は用意されてはいない。だから僕は生きなくてはいけない。ここで死んでしまっては彼女に向こうで顔向けできない。僕は強く生きなくてはいけない。


 アァ、それにしても彼の視線が痛い。

(許せない)

 早くどこかにいけばいいのに。

(許せない)

 お前が見ていたって彼女が生き返るわけじゃない。

(許してなるものか)

 許せない。復讐を。呪いあれ。災あれ。

(罰を)

 罰をくださねば。





 ある事故現場で少年が1人立ち尽くしている。目の前には血塗れで横たわる女性とその女性の前で叫び続けている男。


 あぁ、これは子供の頃の記憶だ。


 少年であるのは自分自身。15年前の大雨の日、道で車に轢かれそうになった自分を命がけで助けてくれた女性。女性の少し前を歩いていた男性は酷い音に振り向き惨状を目にする。自分はただ女性の体に包まれて怯えることしかできなかった。なんども跳ねたような気がする。弾み引きずられた女性の体はあらぬ方向に曲がり、しかし自分を傷つけまいと抱きしめていた。


 幸運なことにかすり傷で済んだ自分。

 無関係であったのに自分のために犠牲になった女性。

 愛する者を永遠に失った男性。


 少年はその時誓った。見ず知らずの自分を助けてくれた彼女に恥じない人間になると。


 そして目を覚ます。

 15年たった今、あの日の誓いを忘れたことなど一度もなく。俺は警察官になった。見ず知らずの誰かを守れる人になるために。



 ある日、交番で男が暴れているとの通報が入った。


 その交番に勤めていたのはお世話になったことのある男性警官で、俺たちが駆け付けた時には既に息はなかった。現場は酷く荒らされていて、壁にはペンキで文字が書いてあった。


 《みつけたよ》


 彼はいったい誰に見つけられたというのか。誰が彼を見つけたというのか。人格者であった彼が誰かに恨まれるということは想像しがたく、現場のペンキは落書きとして処理された。


 「それにしても、あの人のことは残念だったな。お前、なかなか世話になっていただろ。気を落としすぎるなよ」

先輩が、自分の背中を軽く二度叩いた。俺は「はい」と声を出しながらも、落書きとして処理されたあのペンキの文字が、何故か頭から離れずにいる。《みつけたよ》だなんて、意味もなく書くだろうか?そんなことを考え今日という日が終わる。


 「ただいま……」

わんわんと愛犬のイチが出迎える。日は暮れ、真っ暗になった家の中でイチの声はよく響いていた。


 署で何度も見た交番の防犯カメラの映像を思い出す。真っ白なトレーナーでフードを被った男性とみられる犯人。犯人は被害者の身体を1度刺すと、被害者が拳銃を発砲、脇腹へと命中する。しかし、それに動じることなく被害者を2度刺し、相手が動かなくなったのを確認してからペンキを取り出して壁に文字を書いていく。決して上手いとは言えないその平仮名の5文字は、より一層不気味さを纏っている。


 また、犯人の動きも奇妙だった。被害者の生死を確認する際のあの動きはとてもペンキまで持ち出すような計画的な犯行をした者の動きとは思えない。まるで子どものようにひょこひょこと動き回っていた。

「わんわん」

「あぁ、そうだな。きっとあいつを捕まえてみせる」

 命の恩人である彼女に祈る。

 我儘だとはわかっているけれど、どうか俺に力を。


 しかし、捜査はあまり進むことがないまま、同じ犯人による次の事件が起こってしまった。被害者は自分の先輩。彼にも大変世話になった。それなのに結局何の恩返しも出来ないまま、やつの手にかかってしまった。彼は、自宅にて家にあった包丁で2度刺して殺されていた。指紋は検出されず壁にはまたしてもペンキで文字が書かれている。


 《げんきでうれしい》


 俺はただひたすらに自身の無力を呪った。やはりあの文字はただの落書きではなかったのだ。自分がもっとちゃんと調べていれば、先輩が殺されることはなかったかもしれないのに……! この文字はいったい誰に残されたものなのか。流石の捜査本部も、二回続いた犯行と文字にただの落書きでは済まされないと判断したようだ。


 また、俺には少しの暇が与えられた。上司から少し休んだほうがいいと言われたのだ。もちろん俺はまだ問題ないと反論しようとしたけれど、もう何日もまともに睡眠をとっていなかった自分の体はかなり限界に近かったらしい。その場で膝をつき医務室に運ばれた。悔しかった。


 そういえば、最近母さんと連絡をとっていない。元気にしているだろうか? 女手一つで俺を育ててくれた偉大な母。例え父親がいなくたって、恥じることはないと太陽のように笑っていた。いろいろなことがありすぎた。少し眠って、そうしたらひさびさに声が聞きたい……。


 《たからものをこわしたのはだあれ?》


 その文字が書いてあったのは、最初の事件から1ヶ月ほどがすぎた頃の俺の実家だった。犯人がずっと呼びかけていたのは俺だったのだ。結局、母と話すことはできなかった。俺がめんどくさがって家への連絡を怠ったから、母の遺体はすでに腐り始め、異臭を放っていた。恐らく犯人は最初の犯行から2度目の犯行、そして今回とそこまで間を空けずに実行していたのだろう。連絡をもらった俺はすぐに向かい、そして、蛆が湧きハエが飛び回る母の遺体を抱きしめ泣き叫んだ。心は折れそうだった。


 けれど折れてはいけない。俺の命はあの日救ってもらったのだから。自分にはまだ恋人がいる。そうだ、彼女と連絡を取らなければ、もし自身を狙っているのであれば彼女にだって……! あまりにも急いで家を出たために携帯電話を家に忘れた俺は、電話をするために家に急いだ。


 《いのちはぼくのてのなかにあるよ》


 そして家で見たのは荒らされた部屋と見慣れたペンキ文字。いつも出迎えてくれる愛犬の姿はなく呼んでも返事はない。震える手で恋人に電話をかける。


 プルルルルル

 カチャ

 「もしもし! 真奈か? 今どこに」

彼女に掛けたはずだった。「んーん? 僕はナナだよ? 」けれど聞こえたのは、どこか聞き覚えのある男の声。

「誰だ……。真奈は何処にいる! 」

コワイなぜこの知らない男が彼女の携帯を持っているのか。かなりつらくはあるが、浮気であってくれればいいと、そう思う心すらあった。

「誰って酷いよ、僕は君にたくさんお手紙を書いたのに……。ねえ、僕のおうちに来てお話ししよう? 」

まるで子供のような話し方で、男はご機嫌に語る。俺はただひたすらに恋人の安否を聞き続けた。

「真奈は無事なんだろうな。お前は何処にいる!」

一瞬、あの母の遺体の顔が真奈の顔になった。俺は頭に思い浮かんだ、その最悪のシナリオに首を振り男の居場所を聞く。

「どこ? ここは何処なんだろう……。わかんないから、頑張って来て! あ、誰かほかの人に言ったらだめだからね。僕はいつも君を見ているんだから」


 気持ちが悪かった。来いというのに場所が分からないという異常な発言。通話の向こうで男が誰かに話しかけている。わんわんという鳴き声、これはもしやイチだろうか。犯人はいったい何を考えているんだ。俺は荷物をまとめ、恋人と愛犬を助けるために家を出ようとする。すると、電話の向こうから気の抜けるような男の声が響く。


 「もしも~し、繋がってますかー? うんうん聞こえてるみたいだね。おねーさんに聞いたら、携帯のじーぴーえすっていうので位置がわかるみたいだから、それを頼りに来てね」

理解できない男の言動に混乱しながらも、携帯のGPSで恋人の居場所を調べる。隣の地域ではあるが考えていた以上に近い場所をさした矢印を目的地に設定し、自転車を漕ぐ。その場所までは、狭い道が多く車を使うのは得策じゃない。


 自転車を漕ぎながら、ペンキの意味を考えた。《みつけたよ》《げんきでうれしい》《たからものをこわしたのはだあれ? 》《いのちはぼくのてのなかにあるよ》問題は、三つ目だ。宝物を壊したのはだあれ? 宝物とは何か、誰の宝物が誰に壊されたのか。ここにヒントが隠されているはずだ。


 自転車で2,30分かけてようやくたどり着いたGPSの指す場所は、西洋風の大きな屋敷だった。もう一度電話をかけようとすると突然ひとりでに門が開く。そして、玄関から一人の男がやってきた。

「いらっしゃいませ~。自転車はその辺に止めておいていいよ! 」


 男はただひたすらに白かった。

 髪も肌も服も真っ白で、顔色が悪く酷い隈の男はそれでも満面の笑みで俺を出迎え、唖然とする俺の手を握って歩き始めた。驚きとっさに手を振り払おうとするも、しっかりと繋がれた右手は離れる気配がない。年齢も職業も何もかもが想像できないこの男は時たまふらつき脇腹を抑えながら歩く。その姿が、世話になった交番の彼を殺した人間だということをはっきりと示していて、握られる手に力がこもった。


 「真奈とイチはどこだ」

知りたいことは他にもたくさんあるが、今聞かなくてはいけないのはこれだけだ。彼女救ったらすぐにこんな場所からは出たい。不気味な旋律を奏でるオルゴールの音がやけに耳についた。


 そしてある部屋にたどり着くと、男はドアを開け俺をそこに放り込み、ふらついた俺に馬乗りになったきた。骨と皮しかないようなこの男でも全体重をかけられればなかなかに動くことはできない。床に強く頭を打った俺はとても眩暈がして動きが鈍る。

「やっとあえた」

俺が最後に見たものは、満足そうな男の笑顔だった。


 次に目が覚めた時、真っ先に見えたのは白い男のシルエット。だぼだぼのトレーナーを着て俺に背を向けている。好機だ! と思い体を動かそうとすれば俺の身体は床に打ち付けられた。ガタガタッ

「うわっびっくりした……。あ、起きた? お腹空いてる?」


 どうやら椅子に拘束されていたらしい俺の身体は全く思い通りには動かず、男が起こそうとする。

「お、重くて戻せない…。このままでもいいかなぁ。ねぇ? このままでもいい? 」

流石に動けない男が縛り付けられた椅子は重かったようで彼は横向きになっている俺と目を合わせるようにして横になった。


 「彼女と犬を返してくれ」

この男のペースには乗せられたくない。俺はそれだけを繰り返す。男は何がおかしいのか、クスクスと笑っていた。

「おもしろいね。このままお話するの? ふふ。そうだ、ねぇえお前とかじゃなくて、お名前で呼んでよ」 手が出ていない袖をぱたぱたと動かして男は言う。俺は、断ると言い目をつぶった。


 「あーーそんなこと言うんだ! いいもんおねーさんのこと殺すもん」

「な! やめろ! 」

なんでそんな軽々しく殺すだなんて言えるんだ。人が死ぬということがどういうことなのか、こいつはわかっていないのだろう。大切な人を殺される苦しみも悲しみも虚しさも…きっと何1つだってわからないままなのだ。だから、そんなに軽く人を殺せる。俺がそんなことを思っていると、男は嬉しそうにまた俺の正面に横になった。


 「なら呼んで? 僕のお名前で呼んでよ」

そもそも俺はこの男の名前を知らない。いや、さっきなにか言っていたか? 確か……

「ナナ」

男は心底嬉しそうに袖から出ていない両手で口を隠しながら笑った。横になると前髪が上がり妙に幼く見える。こいつは一体いくつなんだ……。全く予想できない。


 「しょうちゃん僕のお名前知ってるんだね。うれしいなぁ」

なぜ? なぜこいつは俺の名前を知っているのか。名乗った覚えはない。けれど、今まで殺されてきた人たちを思えば知っていてもおかしくはないだろう。こいつはストーカーなのだろうか……。

「ねぇしょうちゃんお腹空いた? おねーさんがお腹空いたっていうからご飯作ってもらったんだけど、食べる? 」

「お前が持ってくる飯なんて信用できるわけがないだろう」

当たり前だ。当たり前のことを言っただけなのに、男はひどく悲しそうな顔で、でもと続ける。

「でもでも、おねーさんが作ったやつだよ? それにぼくはしょうちゃんのこと殺したりしないよ」


 誰がそんな言葉を信じられるというのか。 しかしまぁ、お腹は空く。色々なもののために餓死するか、プライドを捨て、命を捨てる覚悟でご飯を食べるか。大切な人を失った。恋人もこの家にいるという。彼女は心残りだがもう、死んでしまってもいいかもしれない。

「食べる」

お腹が空けば思考力が鈍る。鈍った状態では死ぬ確率は高くなる。飯に毒が混ぜられていれば死ぬ。食べても食べなくても未来は変わらない。それなら、彼女が作ったというご飯で死んだ方がマシだ。

「わかった! おねーさん喜ぶよ〜」

男はそういうと笑顔で部屋を出る。それにしても、彼女はどうやって飯を作っているのだろうか。拘束はされていないんだろう。


 しばらくして、男がお盆に乗った色鮮やかな食事を運んできた。そして、俺の前に置かれた机の上に乗せて笑いかける。

「ほら! 美味しそうだよ〜。ちょっとまってね、これ解いてあげるからね」


 そう言うと、この男は恐れもせず俺に施された拘束を解いた。おかしい。こんなことをして反撃でもされたらどうするんだ? 正直、長時間の拘束により、体がうまく動かないためそんなことはできないが、それにしても警戒心がなさすぎだろう。


 「お前は俺が逃げるとは思わないのか? 」

男はむっとした顔で口をすぼめる。「お名前……」と呟き、じとっと俺を見る。

「ナナは俺が逃げるとは思わないのか? 」

俺は仕方なく言い直して聞いた。なぜ、恩人や親の仇の名前なんて呼ばなくてはいけないのか。けれど、彼女がいる。彼女と愛犬のためにもあまり刺激しないようにしないと……。


 「逃げるの? この家のドアは全部僕じゃないと開かないんだよ。ひとちゃんがそうしてくれたんだ! 廊下だってそう、他の部屋もそう。だからね、僕を殺したら一生このお部屋で過ごすんだよ。そうしたい? 」

とても嘘とは思えない男の様子に、頭を抱える。なんだその造りは……。これじゃあどうしようもない。男が飽きて解放されるか俺たちが死ぬかの二択と、奇跡的に知り合いが助けに来てくれることを願うしかない。


 俺は「いや、」と言って用意された飯を食べ始める。特に何か混ぜられていたということはないようで、眠気や吐き気がないまま完食することができた。男は俺が食べている間、正面にある椅子に腰をかけニコニコとこちらを見ている。「おいしい? 」「よかったねぇ」と言うそのあまりにも無邪気な笑顔に、なぜこいつがこんな事件を起こしているのかわからなかった。


 「今は何時なんだ? 」

窓のない部屋にいるため時間感覚がないが、時間や日付感覚の喪失は監禁の定石であるため、果たして教えてくれるかどうか……。あまり期待せずに伺う。


 「? 時計……。あれ、このお部屋時計ないのか〜。ちょっと待っててね」

呆気にとられた。なぜ? こいつには不可解な点が多すぎる。あんなにも軽々しく人を殺すわりには、最初の殺人では1度目で殺しきれずに後から2度も刺した。誘拐や監禁についても連れてくるまでの手際の良さは、初犯ではないと感じさせるに足るが、連れてきてからの対応はとても監禁している人間のものとは思えない。そこが怖いと思った。次に何をするのか全く予想ができないからだ。


 「ただいまー! はいこれ時計ね。今はね〜夜の9時だよ〜。あ、お風呂入りたいよね。ちょっと待っててね沸かしてくるから! そこの押入れにお布団入ってるからひいていいよ」


 監禁されているにもかかわらず、衣食住が保証される。これは人が人なら棲みつくだろう……。真奈に先に入ってもらうから10時半まで待てと言われ、彼女の生存に安堵する。俺にはもう彼女しかいない。30分で出てこいと言われ、その通りに上がれば、男は嬉しそうに寝間着を用意して待っていた。


 「おねーさんには桃色のやつあげたから、しょうちゃんには青色ね! ぼうしもあるよ〜」

三角のナイトキャップなんていつぶりだろうか。何を考えているのか全くわからない男だが、ここにいる以上これを受け入れるしかない。その日は男の「おやすみ」という言葉で終わった。



 うれしいね。

 ずっとあいたかった。

 げんきかなっておもってた。

 でも、かのじょがいるみたいなの。

 いらないなぁいらないよね?

 ねぇひとちゃんもそうおもうでしょう?



 俺は随分と図太いらしく、翌朝男の大声で目が覚めた。つまり、かなり熟睡をしていたようだ。


 「おっはよー! 朝だよしょうちゃん。 朝ごはんは、トースターで焼いたぱんぱんです! こんがりで美味しそうだよ〜。おねーさんの目玉焼きもあるよ! 座って座って」


 ご機嫌で机の上に1人分の飯を乗せていく。おねーさんの目玉焼きというフレーズに少々どきっとしたが、見たところ普通の卵で安心した。


 俺が飯を食べ始めると、男は昨日と同じように、正面に座りにこにこ笑いながらこちらを見ている。そして、食べ終わると男は食器を持って出て行った。その間にやれることをやる。例えばドアの確認だった。このドアを開けるとき、男は鍵をさしているとは思えない。だから開くんじゃないかと思ったが、捻ることすらできなかった。おそらく生体認証か何かなのだろう。


 次に部屋の中にある棚だ。押し入れは昨日ひとしきり見たが、めぼしいものは何もなかった。棚はどうだろうか。しかし、見ようとしたところで男が戻ってきてしまった。これからどうするのだろうか。


 「何か面白いもの見つかった? このお部屋なんかあったかなぁ……」

男はまぁいいかと言って椅子に座り、俺も座れと促した。渋々正面の椅子に腰をかける。


 「今日はね、しょうちゃんのお話聞きたいな。しょうちゃんは今までどんな生活してたの? 」


 ニコニコと笑いながら両手で頬杖をつく。話すものかと思い黙っていたが、男はずっと待っていた。1時間が経とうという頃、根負けした俺は話し始めた。




 「俺は、父親の顔を知らない」

物心がついた時にはすでに母親だけが親だった。周りの子どもにはからかわれたりもしたし、どうしてうちには父がいないのか母を問い詰めたこともあった。けれど、彼女は一度も俺に父親について話したことはなかった。


 10歳の時、道で車にはねられそうになった。いや、はねられた。俺は女性に守られて、かすり傷だけですんだ。けれど、俺を守ってくれた女性の体はありえない方向に曲がっていて、彼女は亡くなった。だからこそ俺は、彼女に恥じないためにも、知らない人を守れる人間になりたいと……。


 「どうした? 急に真顔になって……」

男はずっと笑っていたのに、知らない人を守れる人間になりたいと言った途端表情を失った。しかし、本人に自覚はないらしく、俺が話しかけるとぽかんとしてこちらを見ている。

「気にするな。なんでもない」


 それから俺は今まで以上に、努力した。母に良い生活をして欲しかったし、誇れる息子になりたかったからな。そして、大学を卒業して3年、やっと刑事になれたんだ。これからは母さんをもっと支えていける。そう思ったのに……!


 「お前のせいで! お前が殺したんだ! なぜ母さんを殺した? 俺を狙っているなら俺だけを殺せばいいだろう? なんで! なんでだよ……! 」


 涙が溢れた。感情が昂り、声を上げる。

「母さんだけじゃない。俺が世話になった人、指導してくれていた先輩……。なんで殺したんだ! 言え! なぜ! 」


 許せなかった。俺の大切な人たちを殺したこいつが許せなかった。どんな正当な理由だって許せない。けれど、聞かなければ気が済まない。俺は男が口を開くのをじっと待った。

「お手紙」

「は? 」

「お手紙をね、読んで欲しかったから」

「意味が、よくわからないんだが……。じゃあお前が母さんや他の人を殺したのはただ単に俺にあの字を読ませたかったからだっていうのか? そんな、こと……」


 そんなことがあるだろうか? 酷い頭痛がした。こんなやつがいるなんて、こんなやつが野放しになっているなんて、こんなやつがのうのうと生きているなんて。


 たった1人で子供を育てた人が死ぬ。

 右も左も分からないひよっこを育てた人が死ぬ。

 気持ちだけが先走って空回った俺を育てた人が死ぬ。


 見ず知らずの子供を命をかけて守る人が死ぬ。


 そんな世界で、どうしてこんな奴が生きているのか? 生きている価値なんて1つもないじゃないか。

「なんでお前みたいな奴が生きてるんだ」


 強い憎しみを感じた。みんなにそれぞれ大切な人がいたはずだったのに。こいつはそれを奪ったんだ。俺があの日、彼から彼女を奪ったように。


 「ごめんなさい」

突然、男は謝ってきた。俺は思わず「は? 」とマヌケヅラを晒す。

「僕、お母さんがしょうちゃんにとってそんなに大切な人だって知らなかったの。他の人も。しょうちゃんの近くの人を殺せば、刑事さんのしょうちゃんが見に来るって思ったんだ。だから、ごめんなさい」


 申し訳ないと、本気で思っているようだった。気持ちが悪い。それはもう得体の知れない何かだった。こいつには罪の意識がある。けれどそれは、殺人や監禁誘拐に対してのものではない。“俺”が悲しむから、怒るから悪いと思う。一体……

「一体どうやって生きてきたらそんな馬鹿な考えが浮かぶ? 」


 ただひたすらに疑問だった。得体の知れないこの男はどうやって生きてきたのか、こんな考えのままで生きられるような社会では、少なくとも自分の知る限りではないはずだ。俺は男に聞き直した。


 「お前はどんな生活をしていた? 」

「僕? 僕のことなんて、聞いてもつまらないと思うよ」

「いいから言え」


 「僕は、5歳まではおとうさんとおかあさんと3人で暮らしてたよ。でも、5歳のお誕生日におとうさんが僕を新しいお家に連れて行ったの。『ここがお前の新しい家だ』って。そこには、僕よりも大きい子が6人いて、いー、りゃん、さん、すー、うー、りゅうって呼ばれてて、僕は7番目だから“ちー”って呼ばれてた。新しいお父さんは、僕たちに勉強を教えてくれるんだけど、毎日『君たちは親に売られたんだ』って言うの。6人のお兄ちゃんやお姉ちゃんも僕のことを『変な子』とか『気持ち悪い』って言って叩くんだよ。でも、みんな大きくなるとどっかに行っちゃうんだ。僕も18歳の誕生日にまたどっかに連れていかれそうになって、だから、僕もうどこにも行きたくなくて逃げたの」


 5つの時に、父親に売られた。ということだろうか。7番目だから“ちー”でありその前がイー・リャン・サン・スー・ウー・リュウということは、そこは中国系の組織か何かの孤児院だったのだろう。大きくなると家を出る、18歳の誕生日に連れて行く。人身売買だろうか。


 「学校には行っていなかったのか? 」

「学校? はわかんないけど、僕はおとうさんが新しいお家に連れて行ってくれてから、18歳になるまでお外に出たことはなかったよ」


 監禁されていたということか? 外に出たいと思うことは……。いや、なかったんだろう。この口ぶりでは、5つになるまでも外に出してもらったことはないだろうから、そもそも外がどういうところなのかがわからないんだ。


 「それで、18歳の誕生日に逃げてどうしたんだ? 」

「ひとちゃんに会うの! ひとちゃんは暗いところで怖くて泣いてる僕に話しかけてくれたんだ。僕が助けてって言ったら、うちに来ていいよって言ってくれて、それで、このお家でひとちゃんと暮らし始めたの」


 この家は、こいつの持ち物ではなかったということか。持ち主を調べれば、何かわかるかと思ったが難しそうだ。


 「ひとちゃんは僕のお名前を聞いて、僕が呼ばれてたお名前は中国ってところの言葉で、日本語にすると“七”なんだよって教えてくれたんだ。それで僕のお名前はナナになったの。最初のお母さんが呼んでた名前は思い出せないし、僕ね、あのお家で呼ばれてたお名前好きじゃなかったから、ひとちゃんが新しくつけてくれたんだよ」


 少し前からこいつの話にたびたび登場する“ひとちゃん”という人間は一体今どこにいるのだろうか。この屋敷の中にいるのだろうか。

「その、ひとちゃんというのは誰なんだ? 」

「ひとちゃんはね! 優しくて綺麗で、折り紙とお絵描きが上手で、かくれんぼがへたっぴな女の子なんだよ! 本当は違うお名前なんだけどね、自分の名前が嫌いだから、僕と一緒に新しいお名前にしたんだ。一人っ子だからひとちゃんなんだって! 」


 口の前に両手を当ててふふふっと笑う。こいつは、彼女の話をしている時妙に興奮し、頰を赤らめて話す。

「ひとちゃんはね、すごいんだよ! 僕は鶴しか折れないのに、ひとちゃんはお花とかも折れるんだー! 僕に色んなの教えてくれたんだよ」


 朝、確認しようと思った棚から、一羽の鶴を取り出した。

「これはね、ひとちゃんが折ってくれた最後の鶴。もうお家にはこれしかないんだ」

 先ほどまでのハイテンションは消え失せ、男は悲しそうな顔を浮かべながら鶴を愛でる。最後、ということはもうここにはいないのだろう。


 「その人は今どこにいるんだ? 」

「死んじゃったんだよ、しょうちゃん。しょうちゃんも知ってるでしょう? 」

予想外の回答に驚きを隠せない。俺が、その女性を知っている? もう亡くなった俺の知っている女性。母と彼女。まさか? まさか、

「しょうちゃんのことを守ってくれたひとだよ。それが、ひとちゃん」



 頭を、

 殴られたような衝撃だった。



 この男こそが、ナナこそが、あの日俺が愛する人を奪った彼だった。あぁ、なんということだろうか。こいつから大切な人を奪ったのは自分だったんだ。息が荒くなる。さっきあれだけ責めた。自分の大切な人を奪ったのだと、お前の奪った命は誰かの大切だったと。そして、それはそのまま俺に返ってきた。先に大切な人を奪ったのはお前だろう? と。しかし、絶句する俺を他所に男は話を続けた。


 「僕とってもつらくて、でもひとちゃんは僕に『強く生きて』って言ったんだ。だから僕、生きなくちゃいけなくて、それで先生に出会ったんだよ。先生はカウンセリングの人で、僕に何か目標を見つけなさいって言ったの。だから僕は、君に会うことを目標にして生きてきたんだ。だからね、やっとあえてうれしいよ」


 無邪気に。

 ただただ無邪気にナナは笑った。


 「あぁ、もうこんな時間だ。お腹すいたよね? お昼ご飯作ってもらおう」

彼は何事もなかったようにけろっとして立ち上がり、ドアノブに手をかけたが、急に脇腹を押さえうずくまった。


 「あっう、うぅ」

は、は、と短い息をする。近寄ってみると眉間にしわを寄せ目をつぶっていた。目の前のドアは、彼が手をかけたことで空いている。出るなら今だった。けれど俺は、もうこいつを置いて出ることはできなかった。

「おい、おい大丈夫か? 薬とかはあるか? 」

背中をさすってやると少し楽になったようで、彼は瞼を開き虚ろな目でキョロキョロと周りを見渡す。

「どうした? 何か探してるのか? 」


 親、恩人の仇。しかし、それでももう、恨み続けることはできない。彼は「おくすり」と呟き手を彷徨わせる。「薬はどこにあるんだ? 」と聞けば、棚の中だというので取りに行った。そこには、大量の錠剤と瓶の焼酎が入っている……。こいつは、酒を飲むのか。意外なものに驚きながらも薬を持って行ってやろうと手に持ち立ち上がると、彼は後ろに立っていた。

「しょうちゃん、ありがとう」


 ナナは薬を受け取ると、俺の横から手を伸ばし、焼酎の瓶に手をかけた。そして驚く俺をよそに、ざらざらと錠剤を口の中に流し込み、焼酎の瓶に口をつける。そして、そのまま飲み込んでしまった。

「お前、何してんだ! そんなことしたらダメなんだぞ。薬は容量を守って、水とともに飲み込むもので、酒なんかと飲んじゃいけないんだ」

肩をつかめばぐらりと傾き、こちらに倒れ込んできた。相変わらずうぅうぅと呟いている。

「しっかりしろ、さっきのは吐き出した方がいい。ほら、トイレ行ってこい」


 しかし、彼はすでに俺の声など聞こえてはいないようで、脇腹をさすりながら「大丈夫、大丈夫。いたいのいたいのとんでいけー」と呟き続けた。警戒心なく俺に体を預け息をする彼を支える。


 しばらくそのままでいると、意識がはっきりしてきた彼はぱっと離れた。

「お昼ご飯! 何食べたい? 」

まるで先程の続きのようにして会話を始める。俺がなんでもいいそれよりも大丈夫なのかといえば、唇を尖らせて小突いてきた。

「それ女の人が嫌いな言葉だよ。おねーさんもひとちゃんも、ちゃんと言ってって言ってた! 」


 なぜこんな場所で自分の食べたいものを主張しているのかはわからないが、俺は仕方なくスパゲティが食べたいと伝えた。彼は元気に「わかった! 」と言って外に出る。そういえば、こいつは飯を食べているのだろうか。


 戻ってきた彼は皿いっぱいに盛られたたらこスパゲティを一皿手にしている。どこか別の場所で食べているのが、それとも食べていないのか。なんとなくまともな食生活でないだろうことはわかった。真奈に作らせているあたり、自分で料理を作ることができないことも考えられる。


 あまりにも山盛りなスパゲティを前に、こんなに食べられないからお前も食べてくれと言っても、彼はいらないと言った。

「気持ち悪くなっちゃうからいらない」

「そうか」


 飯を食べると気持ちが悪くなる。長らくまともなものは食べていなかったのかもしれないし、脇腹を撃たれたことで食事を受け付けないのかもしれない。食べない理由はいくつか思い浮かぶ。


 それにしても、恋人がこんな環境で作ってくれたものを残すのは申し訳ない。俺は一生懸命たらこスパゲティを食べ続けた。彼女は、どうしているだろうか? おそらくは俺と同じような生活をさせられているのだろうが、一般人である彼女と警官である俺では感じ方に違いがあることは当たり前だ。「会いたい」と、思った。


 「なぁ、真奈とイチはどうしてる? 」

大盛りスパゲティを食べきった俺は、悲鳴をあげる胃袋を押さえつけて彼に問うた。せめて、声ぐらいは聞けないだろうか。俺がそういえば、彼は「会いたいの? 」と寂しそうに言った。寂しそうというのは、俺の主観で実際はそうではないかもしれないが、それでもいつもよりは格段に声色が落ちた。


 「ねぇしょうちゃん、おねーさんとばいばいしてよ」

いつもの笑みはない。どちらかといえば、痛みを訴えた時のような目を向ける。

「それはできない。俺にとって彼女は最後の1人だ」

じっと、彼を見つめる。


 どれくらい見つめあっていただろうか。根負けした彼は小声で何かをつぶやく。耳をすませば、それはおそらく相談だった。俺宛ではなく、そこにはいない誰か、いや手元の鶴だ。

「どうしたらいいの? 会ったらばいばいしちゃう? やだ。やだよね。うん。そうだよね。声?声かぁ……。じゃあドアの向こうかなぁ。そう思う? そうしよっか。そうしよう! 」


 相談をし終えた彼は俺に向き直る。

「ドアの向こうとこっちだったらいいよ。でも、絶対開けない! 」

それが、ナナのできる限界なのだろう。こちらを下唇を噛み締めじっと見る。

「わかった」


 ナナは、呼んでくるねと言って部屋を出る。そしてドアが閉まる直前、彼の錠剤をドアに挟んだ。もし、何かあればすぐに開けることができるように。


 「しょうちゃん、おねーさん連れてきたよ。ほら、なんか言いたいことあるんでしょ? 」

ドアの向こうには真奈がいる。

「真奈? 」


 話したい会いたい触れたい、抱きしめたい。1人にしてしまってすまなかった、もっと頻繁に電話すればよかった。そしたらこんな事に巻き込まずに済んだのに。

「将市。ごめんね」

「なんでお前が謝るんだよ。俺が、もっとちゃんとしていれば。ごめんな、ごめん。本当に……」


 真奈が謝る必要なんて1つもない。ナナが真奈を連れ去ったのだって、俺のせいなのだから。ごめんごめんと謝り続ける真奈に努めて優しく声をかける。怒ってなんかいないと伝わるように。

「何か、不便なことつらい思いしてないか?酷いことされたり、怪我をしていたりしないか? こんなところにいて、辛くないなんてことはないかもしれないけど……」


 ドアの向こうで、彼女は泣いているようだった。どうして泣いているんだ? 何かされたのか。今すぐ向こうに行って涙を拭いてやりたい。「助けて」そう言えばすぐに行ってやる。そう思っていた。

「ううん。ナナくん、ご飯もお風呂も寝巻きもお布団もなんでも用意してくれるから困ったことはないよ。それに、イチも一緒にいる。怪我もしてない。こうやって、将市の声が聞ける。ごめんね」


 愛犬は彼女の元にいると知って安心した。

「何謝ってるんだよ。真奈は悪くなんて……」

「だって、私が携帯持ってたから、GPS使えばなんて言ったから、私が彼について行っちゃったから! 」

そんなこと……。真奈はそんな風に感じていたのか。

「俺は、そのおかげでここに来れた。真奈がどこにいるかわかったし、俺が向かい合わなくちゃいけない現実も知った。お前のこと責める気持ちなんて一つもないよ。そうだ、飯美味しかったよ、ありがとう。ご馳走さま。イチをよろしくな」


 今ここで、ドアを開けて真奈を連れて……! そう考えない訳がなかった。でも、この家のドアはあいつでしか開けられない。このドアをどうにかしても、玄関が開かないのであれば意味がない。迂闊に動くことはできなかった。早く連れて出たい。


 「しょうちゃん、お話終わった?もうおねーさんお部屋に戻してもいい? 」

彼は飽きたように言う。今はまだ従うしかないだろう。俺は彼女に確認をして、彼女を部屋に帰した。


 夜、昨日と同じく、普段の生活のように過ごし、布団を敷く。彼は部屋にはいなかった。俺はそういえば少し前から拘束がされなくなったことを思い出す。あの雰囲気だと忘れているんだろう。今日は真奈と久々に話すことができた。大丈夫。彼女はまだ生きている。俺があいつと交渉して彼女を取り戻す。そう心に誓い、目を閉じた。



 誰かが泣いている。

 寝ている人の目の前で泣いている。

 これは……ナナだ。前で寝ているのは、あいつの彼女だろうか? 確か、ひとちゃんと呼ばれていたはず。またいつもの夢だろうが、いつもと違うところが1つだけある。それは場所が事故現場ではないということ。今日はなぜか部屋の中なのだ。何か別の記憶と混ざっているんだろうか。ナナはごめんねごめんねと呟き続けている。


 目が覚めた。

 相変わらず柔らかい布団に包まれている。現役の警察官がこれでは駄目だろう。もし、あいつがこうしている間にも殺人を犯していれば、俺はクビ、もしくはマスコミから干されるに違いない、無能警官として。


 しかし、ナナに限ってそれはないと思う。断言できるほどあいつのことを知っているわけでもないが、それでも今のところ俺を呼び寄せるために殺人を犯した以外では殺していないらしい。つまり、そこに何か快楽を見出しているわけではないのだ。と、そこまで考えて何の気なしに横を見る。


 するといつ部屋に来たのか、ナナが床で寝ていた。敷き布団も掛け布団も枕も何もなく、ただフローリングで小さく丸くなって寝ているのだ。手にはあの鶴が握られている。


 「おい、そんなところで寝ていたら風邪引くんじゃないのか? 寝るなら布団で寝ろよ。」

自分を監禁している殺人犯相手にそんな話もどうかとは思ったが、こいつは他の犯罪者とは違う。体を揺するとうにゃうにゃと言いながら目をこすりこちらを見てへらりと笑う。

「しょうちゃんおはよう」


 その、昨日より元気のない様子に、大丈夫か? と聞けば「しょうちゃん変なの。僕の心配するの? 」と聞いてきた。確かに俺がこいつの心配をするのはおかしいかもしれない。俺は、「そうだな」と言いながらも自分が掛けていた布団をこいつにかける。昨日よりも弱々しいこいつを見ているのはなんだか嫌だった。その日、彼は1日のほとんどを寝て過ごした。


 1週間以上が経ち、俺の中のナナへの警戒心は薄れてきていた。ナナは親の仇、恩師の仇、先輩の仇、けれど俺はナナの恋人の仇。そんな関係が俺の復讐心を殺す。どうしても強い感情を持てなかった。全てを忘れてこいつを恨めれば、幸せだったかもしれない。だけど、俺の中には、こいつを守っていた人を奪った分、こいつを代わりに守ってやらなくてはならないと、そう思う自分がいた。


 ナナは部屋に来ると、いつも何かしらの道具を持ってくる。ある日は折り紙、またある日はあやとり、そしてまたある日はこま……。当初は付き合うつもりはなかったが、いつだか、目の前で折り紙を始めた彼を見ていると、最初は上手に鶴を折っていたものの、「他に作れるものはないのか? 」と聞けば何かを作ろうとした挙句面倒になったのか、 四つ角をまとめて「肉まん! 」と言うではないか。流石にどうかと思って茶色い一枚を手に取り恐竜を作って渡してやると、ナナは大興奮で他にも何か折って欲しいと言ってきた。あまりにも喜ぶので、少しいい気になってしまった俺は、たぬきやパンダ、足の生えた鶴を折ってやった。それから、ナナは俺にもやってほしいとせがむ。


 今日はどうやらお絵描きがしたいらしい。ナナは画用紙を何枚かと使い古されたクレヨンを持ってきた。

「しょうちゃんはお絵描き上手? 僕はねーとっても上手なんだよ! 」


 まずは僕が描くから当ててね、と言いながら紫色のクレヨンで何かを描き始める。紫から始めて大丈夫なのだろうか……。黄色、オレンジ、薄橙と続き、最後に赤色で線を引く。

「できた! これなーんだ! 」


 ……。正直なんだか全くわからない。俺が正直にすまないわからないと告げると、ナナは頬を膨らませた。

「これは僕だよ! 見てわかんないの? 」


 しょうちゃんはダメだなーと言いながら新しい色を取りまた何かを描き始める。自分がこんな怪物に見えているのかはたまたただひたすらに下手くそなだけなのか……。今どき2歳児でも、もう少し上手くかけるであろう自画像に若干の戸惑いを感じながらも次の絵を待つ。とっても上手とはなんだったのだろうか?


 「じゃじゃーん! できた! これなーんだ! 」

 今度はわかるような気がする。これは、

「くまだな? 」

「正解! やればできるじゃん! 次は〜」


 ふんふふんと鼻歌を歌いながら一生懸命に絵を描く姿は、とても大人のようには見えない。無邪気に笑いクレヨンを握る。どこかに忘れてきた幼児期のやり直しのように……。


 折り紙だってあやとりだってこまだって、ろくにできなかった。それでも飽きずにやっているあたり、あまり多くのことは知らないんだろう。


 「おおーーこれは自信作だ〜! 」

目の前で大きな声を上げるナナに驚き顔を見ると、頰を赤らめ満面の笑みで絵をこちらの突きつける。「すごく上手にかけてるからわかるでしょ? 」と……。その紙には、『ぼくのたいせつなもの』という言葉とともに1人の人間が描かれている。俺はその姿に見覚えがあった。けれど、書かれている言葉と絵が合わないように見える。本当にそれは大切なものか?「ねぇわかんないの? 」と大変不服そうにするため、答えようと口を開く。


 「……俺か? 」


 もし違っていたらかなり恥ずかしいが、それでも間違っていることはないだろう。ナナは、今までのような無邪気な笑顔ではなく、少しだけ大人びた顔をこちらに向けた。

「せいかい」

「なんだよこれ、大切なものって……。お前俺のこと恨んでるんだろ? 憎いんだろ? 嫌いなんじゃないのかよ! 」


 胸が、締め付けられるようだった。そして、さらにその言葉は自分にもそっくりそのまま返ってくる。それがまた、一段と辛くて、苦しくて……。俺は、締め付けられる胸を押さえて縮こまった。


 「泣かないで、しょうちゃん。僕ね、ひとちゃんが死んじゃった時つらかったよ。この15年間しょうちゃんのことを恨み続けてた。ばいばいしようって思ってた。でもね、僕、しょうちゃんのこと大好きになったよ。君は、僕のことを恨んでいるはずなのに、僕に優しくしてくれたよね。僕は君の大切な人を奪ったのに、僕の心配をしてくれたよね。僕はそんな君を、恨み続けることなんてもうできないんだ。ひとちゃんが命をかけて守った君が、こんな素敵な人になってくれたから、僕はとっても嬉しいんだ。だからね、僕も罪を償って前を向いて生きようかなって。しょうちゃんをびっくり、させ……」


 そこで、急に重みがかかる。何事かと思い顔を上げれば、ナナは浅く息をして、大粒の汗をかいていた。眉間にはシワが寄っていて、顔は青白い。これはダメなやつだ、頭の中で警報が鳴る。何かできることはないか、ナナを布団に寝かせて立ち上がり戸棚の方へ行こうとすると、ナナは起き上がっていた。


 「おい何してる、寝てないとダメだ! 」

「しょうちゃん、僕痛み止め飲むの、やめたの。ほら、きて。時間がないんだよ……! 君を、ここに閉じ込めるわけには、いかない」


 ふらつく足でドアへ向かう。その鬼気迫る表情に気圧された俺はすぐにナナを支えた。一歩進むごとに息が荒くなる。さっきまであんなにも元気にお絵描きをしていたじゃないか? なんでこんな、急に……。


 「こ、こに、でんわ……。つうほう……。」

ある部屋のドアを開けて指をさす。すると奥には、俺と真奈のスマホが充電されていた。それを使い俺は救急車を呼ぶ。ナナはドアにもたれかかり下を向いていた。

「今、救急車呼んだからな? もうすぐ来てくれ……」

「なんで! けいさつに、つうほう!」


 ナナは、泣いていた。


 彼はひたすらに涙を流してそして、倒れた。俺は駆け寄って、自分の膝に頭を乗せてやる。酷い汗と血色のない唇が、こいつの死期を悟らせた。口が小さく動く。

「この、へやの中に、でんげん、あるから、きれば、ドアあくようになるよ。しょうちゃん、たくさんごめんね? ぼく、寂しかった」


 ナナは弱々しく手を伸ばす。俺はその手を取り握った。

「遊んでくれて、ありがとう。おねーさんと……わんことしあわせ……」





 しょうちゃんがまっくらになった。


 「ナナ。ナーナってば! もうこんなところで寝て、風邪引いても知らないよ? 」


ひ、とちゃん? どう、して?

「なぁに? もう! ぼんやりして、一緒にお花畑に行こうね! ってお話ししてたでしょう?すっごいところ見つけたんだから! もうナナびっくりしちゃうよ〜。驚きすぎて腰抜かしちゃうかも! 」


 おはな、ばたけ? ひとちゃん、ぼく……しょうちゃんと、いたの

「何言ってるの? ナナ変なの〜。夢でも見てたんじゃないの? 」


 ちがうよ、ぼくね、ひとちゃんとはなればなれになって……かなしくて……

「もう! まだ寝ぼけてるの? お寝坊さんなんだから。私たち、離れ離れになったことなんでないじゃない。ずっと一緒にいたでしょう? ほら、あっちにね、七色の橋があったんだよ! その向こうにいろんな色のお花が咲いたおーっきなお花畑があるの! そこで、ナナに今度は花かんむりの作り方、教えてあげるからね」


 なないろのはし? きれいなおはな? そっかぁ。ひとちゃん、

「なぁに? 」


 ぼくね、すごくつらいけど、でも優しい夢を見ていたみたい。

「そっか、よかったね。向こうでたくさんお話し聞かせてね」


 うん。





 「ひ、とちゃ」


 「おい、ナナ? おい! お前、頑張るんだろ? ちゃんと罪を償って、前を向いて生きるんだろ? さっきそう、言ったばかりじゃないか! しっかりしろ! 」

しっかりしろよ……もうすでに何も映さなくなったナナの目を見る。少し開いた口から風を感じることはできなかった。胸も上下していない。


 彼は、ナナは、死んでしまったのだ。



 俺は、ナナの瞼をそっと閉じてやる。もうこんなつらい世界見る必要なんてない。最後に彼女の名前を呼んだんだ。きっと迎えが来たんだろう。そっちでは、幸せになれよ。そう呟いて立ち上がる。


 それから俺は、警察に連絡をして、一度部屋に戻った。彼が描いた一枚の絵と大切にしていた折り鶴は渡したくなかった。

「ナナ……」


 ぼくのたいせつなものと描かれた俺の似顔絵と彼女が折ってくれたという最後の鶴。俺は、それをまとめて隠し持つ。あぁ、サイレンの音が聞こえる。もうすぐこの空間は消えるんだ。


 ナナの遺体が持って行かれてすぐ、彼は捜索願が出ていたことがわかった。出していたのはナナの母親で、彼女はナナが5つで例の児童養護施設に連れて行かれてからずっと、捜索願を出して探していたそうだ。旦那に最愛の息子を売り飛ばされ、離婚し、1人あてもなく探し続け、やっと見つけた時には、殺人犯として死んでいた。母親の苦しみは計り知れない。


 「お前の降格前の最後の仕事だな。大丈夫か? 」

そして今日、その母親が引き取りに来る。俺は手の震えが止まらなかった。新しく俺とバディを組んでいた先輩は、お前との仕事これしかないなと苦笑いで背中を叩く。俺は、覚悟を決め立ち上がった。あいつは前を向いていくと言ったんだ。負けていられない。


 「篠原 彼方の母です。息子を、引き取りに来ました」

ナナは、あいつは彼方(かなた)というらしい。ちゃんとした名前があって、心配してくれる人もいて、お前、愛されてたよ。俺は内ポケットの鶴に触れる。母親は、安置所でひとしきり泣いた後、外に出て来て俺と話したいと言った。


 「あの子は、どんな風でしたか? 」

涙で目を腫らし、それでも、自分が見ることのできなかった大きくなった息子について少しでも知ろうとする彼女は、俺の知る母親という存在だった。俺は、あの家であったことを全て話した。話が終わると、彼女は立って俺に頭を下げた。自分の息子が犯した罪を思い、何度も何度も頭を下げた。俺は、そんなことする必要はないと何度も伝えどうにか座ってもらい、頭を下げた。


 「謝らなくてはならないのは俺の方です。俺が、もっと早く救急車を呼んでいれば、生きている彼とあなたを会わせることができたはずです。本当に申し訳ありませんでした」


 俺は彼女の息子に、大切な人たちを殺された。けれど、彼女は俺に大事な息子を殺された。この違いは大きい。しかし、彼の母親はそんな俺を抱きしめてくれた。彼方を大切に思ってくれてありがとうと、あなたに対してあんなにも酷いことをしたあの子を大切にしてくれてありがとうと。


 帰り際、彼女とは連絡先を交換した。本当はダメなのだが、その時は俺が処分を食うだけなので、今更どうということはなかった。あいつの葬式に来て欲しいと、気が向いた時には墓参りをしてあげて欲しいと言ってくれた。詳細な日程は後日連絡するということだ。真奈とともに、会いに行ってやるつもりだ。




 「おはよー! 」

「おう! おはよう! 気をつけろよ〜! 」


 あれから1ヶ月がたった。俺はまぁ色々あって交番勤務に戻った。降格処分というやつだ。学校の近くにあるから、子供たちが朝や帰りの時間にたくさん通る。俺は、交番勤務に戻れてよかったと思った。あいつのように、何かつらいことがあるような子が、気軽に来られるようなそんな交番にしたくて、子供たちには登下校で声をかける。


 他の近況といえば、俺は真奈と結婚して一緒に住むことになった。あんなことがあったのに、彼女の両親は俺を心配して、さっさと籍を入れろと言ってくれた。幸せだと思う。家に、あの日ナナが描いた絵を飾りたいと言った時、彼女は快く承諾してくれた。曰く、ナナは一度も彼女に危害を加えたことはないし、脅されたこともなかったらしい。


 彼女は、俺があの生活が終わってから、少しだけ不安定になり休んでいる時も、そばにいて支えてくれた。彼女の両親もゆっくり休みなさいと、なんなら仕事も辞めていいと言ってくれた。そんな支えもあり、交番勤務ではあるが復帰することができた俺は、母の葬式をして遺骨は墓に入れることにした。


 あいつは、向こうで恋人と仲良くやっているだろうか。天国なんてないと思っていたが、今は、あって欲しいと思ってしまう。母や恩師、先輩、ナナ、ナナの恋人。みんなが、幸せに過ごせるような、そんな場所があればいいなと思った。












投稿令和3年3月31日

修正 令和3年3月31日

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

彼方 神夜 @kaguyamaru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ