マイベイビー

柴田彼女

マイベイビー

 私が日本にきて初めて知ったスラングは「うぜえ」だった。

 うぜえなあ。うぜえんだけど。うぜえから。

 うぜえ、とは、うざったい、つまり“鬱陶しい”を指す若者言葉であり、私に向けられた数多くの「うぜえ」は全て、「こちらにとってあなたは鬱陶しい存在なのです」と言い換えることができた。



「あークソ、マジでうぜえんだけど。しょーもな。お国に帰って死ねば?」

 あのころの私はまだ日本語のリスニングに慣れておらず、発せられた言葉の半分も聞き取れなかったが、自身が今ひどく非難されているという事実だけは相手から発せられる断片的な情報からでも問題なく理解することができた。

 またどうぞ、と言いながら、業務の一環として客の背を見送る。茶髪の男が出入り口をくぐり、獣のようにアスファルトへ唾を吐き捨てるところまでをきちんと見届け、ようやく私は腹の底から溜め息を吐いた。

 雑念を削り取るように後頭部を軽く掻いてから、エプロンのポケットに隠していた一冊のメモ帳を取り出し、

『うぜえ』

 と幾度となく練習してきた日本語で、一文字一文字を丁寧に書き留める。

 私はその紙をじっくりと見つめ、数秒間、平仮名三文字分の言葉の意味を考えてみた。う・ぜ・え。片仮名で書くと「ウゼエ」。漢字ではどう表記するのだろうか。これは一般的に用いられる言葉なのだろうか、それともどこか限定的な、一部地方の方言だろうか。当然スラングという可能性だってある。

 しかしあの雰囲気から察するに、おそらくは “前向きに捉えるべき単語ではない”のだろう。他国の人間に対する、日本人独特の差別用語かもしれない。あとで辞書を引いてみよう。たどり着くべき場所へ思考が着地したことを確認し、私はポケットにメモ帳をしまい直す。

 深夜のコンビニエンスストアー、この時間表に立つ店員は私しかいない。

 本当にどうしようもなくなったときだけは裏の店長へ声をかけてもいいと他の店員から教えられているが、それはつまり「何が何でも自力で解決しろ、絶対に声をかけるな」という圧力と同義だ。

 何度もマニュアルを確認しながら、時間をかけレジ横のおでんに大根を追加していると、

「あの、お会計いいですか?」

 入り口寄りのカウンターから、一人のサラリーマンらしきスーツ姿の男が私を呼んだ。

 大慌てで、ああすみません、と彼へ詫び、そそくさと移動すると彼からいくつかの商品とポイントカードを受け取り、丁寧にバーコードを読み込んでいく。

「×××円です」

「えーっと、じゃあ××ペイで」

「はい」

 私は記憶を頼りにぱたぱたとレジを操作し、男へスマートフォンをかざすよう促す。男も慣れた様子でそれをこなしながら、

「お姉さん、外国の方ですか?」

「はい、××人です。二か月前にきました」

「留学か何かで?」

「はい。×××大生です」

「へー、×××大!僕も一応大学は出たんですけど、他の国まで行ってみようだなんてこれっぽっちも考えませんでした。ううん、すごいなあ!」

 男は流暢に、けれど私に聞き取りやすいように配慮しているのだろう、口を大きく開け丁重に言葉を紡いだ。彼の些細な配慮がひどく嬉しい。

 今までも様々なシーンで外国人かと訊ねられたことはあったし、そのたび私も似たような言葉を返したが、その大半は私のたどたどしい日本語を嘲笑うようなニュアンスを含んでいたし、それ以外となれば、理由はよくわからないけれど同情や憐憫といった雰囲気を明確に纏っていた。

 もちろん日本人全員が必ずしもそういう人種であるとは決して思わない。

 けれど、あくまでも“ここ”だけはそういった人間――赤の他人を見、そこでようやく自身を推し量るような人間ばかりが住む街だったのだ。私のアルバイト先が深夜のコンビニエンスストアーという条件の悪さも加味されていただろう。

 そのときまだ私は日本にきて二か月、アルバイトを始めて半月しか経っていなかったが、あれほど憧れていたはずの日本という国、そしてそこに住む人々に対し、私はすでに充分すぎるほどうんざりしていた。だから、そのスーツ姿の男の、ほんの少しのやさしさがそのときの私には僥倖であるとすら思えた。神様から承った褒美だと、心から信じたくてたまらなかった。

 私は満面の笑みで、カップ麺へ湯を入れるか訊ねる。男は「はい、お願いします」と丁寧に言う。それは私をさらに喜ばせる。

 私は背面にあるポットから適量の湯を注ぎ、そっと客に差し出した。

「とても熱いので、お気をつけてください」

「ありがとう」

 そう言って、けれど客はカウンターにそのカップ麺をゆっくりと置いてしまった。何か粗相でもあっただろうか、私は男の顔を窺い見る。すると彼は、

「これが完成するまで、五分あります。店内には、僕とあなた以外だれもいません。さて、お話をしましょう」

 そうして彼は私に笑いかけてみせるのだった。


「お姉さんは、どうして日本にこようと思ったんですか?」

「子どものころから、日本のカルチャーが好きだったんです」

「ええと、アニメとか、漫画とか?」

「それもありますが、一番は音楽です」

「へえ。音楽! じゃあたとえば、だれが好きなんですか?」

「私は×××というロックバンドが好きです。あとは、××とか、××××とか、×××××とか、まあ、いろいろ、たくさん」

「ううん、××××くらいしか知らないや……かなりお詳しいんですね」

「ええ、大好きですから」


 あ、五分だ。自身のスマートフォンを点し、男が言う。私は少し残念に思いながら、男にまた、

「きっとまだまだ熱いですから、お気をつけて」

 といい、そっと笑いかけて男を見送ろうとする。男も「ええ、ありがとう」そう私に笑い返し、けれどやはりカップ麺を持ち上げることはせず、私に向かって、

「えーっと、それで、お姉さんは何時上がり?」

 そうして、「どうです?」と言った。私は男の言葉が上手く理解できず、

「何時上がり? どうです?」

 と、そっくりそのまま訊き返す。男は、あーそっかそっか、などわざとらしい含みを持って呟き、

「バイトは、あとどのくらいで終わるんですか? ラブホテル、くらいはわかりますもんね? ここから歩いて十分もないですよ」

 そう言って、やはり笑った。

 ようやく私は理解する。この男は私を深夜の外国人コンビニアルバイト、兼、異国の売春婦とでも思ったのだろう。ラブホテルという言葉を知らないわけなどなかった。それでも私は、

「それは、どういう意味ですか?」

 敢えて訊ねる。男はまた品もなく嗤い、

「いやだな、ビジネスですよ、ビジネス。いい大人同士なんですから、あとは察してくださいよ。ははは」

「……ありがとうございました、またどうぞ」

「は?」

「またどうぞ」

「は、急にノリ悪いじゃん。どうせお金ないんでしょ? マネー。イ・エ・ン。わかる? お金ほしいでしょう? だから日本にきたんだろ?」

「またどうぞ」

 男が黙る。私が再び「またどうぞ」と繰り返すと、彼は、

「ブスのくせに調子乗りやがって。うっぜえ」

 そう吐き捨て、カウンターにあるカップ麺とレジ袋を乱暴につかみ取ると舌打ちをしながら店を出て行った。

「……またどうぞ」

 私の声が聞こえていたかはわからない。



 茶髪の男が言った「うぜえ」も、サラリーマン風の男が言った「うぜえ」も、そのときの私には“う”と“ぜ”と“え”という音が一つに組み合わさっただけのものでしかなかった。

 明け方、自宅アパートへ帰ってからパソコンで辞書を引き、その意味が「鬱陶しい」であることを知っても、私はさして傷つかなかった。やはりか、とすら思った。

 結局、どの国にいても、どの人種の、どの人間を相手にしても、私は突き詰めて「うぜえ」人間だった、それが今改めて判明しただけのことだ。

 私の居場所は、この世のどこにあるんだろう。いや、そもそもどこかにあるんだろうか? 私は音楽アプリを起動し、密やかに轟音を響かせるヘッドホンをゆっくりと頭部に嵌める。

 世界と自分に明確な膜を張る。

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