幸福の象徴
黒月水羽
終幕
そのドールは分厚い本の一ページを華麗に彩っていた。
僕が生まれる前。世界が上手く回っていた頃。人に余裕があった頃。世界の汚染が今ほど進んでいなかった頃。
人間のように精密に作られたドールを着飾り、見せあうことが人々の娯楽だったのだと聞いたことがある。
それを証明するのが、偶然見つけたこの本。
多くの本は破れたり、水にぬれてインクがにじんだり、汚れていたり。原型すらとどめていないものも多いのに、この本だけは何故か綺麗に、まるで読んでください。というようにそこにあった。
多少煤けているし、色あせているけど、今の時代だったら読めるだけ上出来だ。
ページを開くと、色あせた写真とたくさんの文字が書いてある。僕は文字が読めないから、何が書いてあるのかは分からない。それでも着飾られたドールが持ち主に大切にされている。それだけは分かった。
同時に、この本が作られた時代には、役にも立たないドールを着飾り、写真をとり、本を作るなんて余裕があったんだと僕は驚いた。
今であったらありえない。なんて贅沢な話だろうと、色あせて煤けた本のページをめくりながら思う。世界が崩壊する前の時代というのは、本当に平和で、物にあふれていた。そう話を聞いたことはあるけれど、僕が生まれた頃には世界はゴミの山しか残されていなかった。
何が切っ掛けだったのか僕は知らない。知る必要もないと思っている。
ただ昔は青かったという空が赤く染まって、雨が猛毒になって、大地は干からびた。
ごくわずかに残った人が住める場所を奪い合って、沢山の血が流れた。そして何とか生き延びた人間たちは、徐々に広がる砂漠と、消えていく食べ物に怯えて生きている。
僕らの世代が最後の子供。そう言われている。
僕より小さい子供はみたことがないから、本当にそうなのだろう。子供を育てる余裕もないけれど、そもそも子供が生まれないのだ。
この世界は全て毒で出来ていて、息を吸うだけで体が少しずつ汚染される。人間に残された時間はほんのわずかしかないのだと大人たちはいった。
僕はパラパラとページをめくる。
まだ平和だったという、世界が輝いていた時代の遺産を眺める。それからふと思い立って、本を抱えて外に出た。
空は相変わらず赤いけど、猛毒の雨は降っていない。それでも一応フードをかぶって、本を見つけた場所へと走っていく。これだけ綺麗に本が残っているのなら、ドールも残っているのかもしれない。そう思ったら、無性に見てみたくなった。
積み重なった瓦礫。子供しか入れないような小さな隙間。雨を逃れるために逃げ込んだ空間の奥に、部屋がある。偶然潰れずに済んだであろう秘密の場所。
土砂がなだれ込んで半分は埋まっている。一筋の光が隙間から入ってくるけれど、他は昼間でも薄暗い。
この間、瓦礫の中から発掘した、何とかつかえる懐中電灯をつける。電池が切れかけなのか、光も弱いし点滅を繰り返すけど、真っ暗よりはマシだった。
本があった場所を中心に、土砂や瓦礫を押しのける。泥だらけになり、爪に泥がくいこむ。掘るものがないから手が痛いけど、探しに行く時間がおしかった。
どれだけ探していたかは分からない。何もない。そうあきらめかけた頃、固いものに手が触れた。周辺を掘り出すと黒い大きなケースが現れた。今の時代だったら貴重品といえる立派な造りのケースは、ちょうど人間の子供くらい。
期待に胸をふくらませながら、僕は慎重にケースを引っ張り出す。留め金を外してケースをあけると、中には人間の少女。のように精巧なドールが裸のまま眠っていた。
何も知らずに見たら死体だと勘違いしてしまうほど、そのドールは人そっくりだ。写真で見たときも驚いたけど、本物を見るとさらに驚きだ。
人と違うのは関節の部分に球体のものが入っていること。胸や胴体に部品のつなぎ目があること。これを綺麗に服で隠してしまったら、眠っている人間にしか見えないだろう。
汚さないようにケースの蓋をしめて、服はないかともう一度土砂の中を探し始める。どうせなら写真と同じ、綺麗な姿にしてあげたい。僕はさっきより必死に土を掘り返した。
ドールが入っていたものよりも小さいケースは、思ったよりも早く見つかった。中にはドール用らしい綺麗な服が入っている。
ドールの時も思ったけど、あまりにも保存状態がよくて驚いた。まるで、僕に見つかるのを待っていたみたいだ。そんな馬鹿なことを思って笑ってしまう。
一筋だけ外の光が入る場所にケースを移動する。
探すのにずいぶん時間がかかって、気付けば太陽光から月明りに変わっていた。
汚れた手を自分の服でぬぐったけれど、水もないから限界がある。外に手を洗いに行くには時間が惜しくて、僕はごめんね。と目を閉じたままのドールに謝りながら、服を丁寧に着せていく。綺麗な布地が自分の手で汚れてしまうのは忍びない。服が黒くて汚れが目立ちにくいのだけが幸いだった。
ドールが作られたときよりさらに昔。貴族といわれる人がいた時代。その時に好まれたという布地をふんだんに使った凝った洋服。今だったら動きにくい。と一蹴されるもの。だからこそ、昔の平和な時代の象徴のような気がして、僕はふふっと笑ってしまう。
綺麗な模様がはいった白い靴下を、極力汚さないように気を付けながら丁寧にはかせる。
ドール相手だと分かっていても、何だかドキドキした。
僕は自分と同じくらいの子供に会ったことはほとんどなくて、女の子なら尚更。足に触ったこともなければ、靴下なんてはかせる機会もない。
何だかいけないことをしている気分。と奇妙な気持ちになりながら靴下を履かせ終え、ぴかぴかの革靴を履かせる。
全身に綺麗な服をまとった少女をケースの上に座らせて、僕はその姿をじっと見つめた。
人形だからこその端正な顔立ちは、月明りに照らされて言葉にしがたい美しさを魅せていた。薄暗い瓦礫の下ではなく、写真の中と同じ綺麗な部屋の中。そう錯覚するほどの光景に息をのむ。
僕が生まれる前の平和な時代。人々に愛されて、作られたドールは輝きを失ってなんていなかった。人形らしい関節が隠されて、服を着たその姿は美しい少女のよう。
安らかに眠る姿を見て、僕はただ息を吐き出した。
ケースのすぐ横に寝転がる。体が汚れるなんてことはどうでもよかった。
だってもう、気にしても意味のないことだ。
最後に綺麗なものを。平和だった時代の象徴を見て、僕の心は穏やかだった。
大人たちは残された時間が少ししかないことに絶望した。そして耐えられなかった。このまま弱りゆく自分を受け入れられなかった。だから決めたのだ。最後に残ったものを全て使って、自分たちの手で終わらせようと。
一瞬だけ部屋が明るくなった。遅れて大地が振動する。
ケースに優雅に座ったドールが僕の方へと倒れてくる。何となく僕は受け止めた。
人間の姿形をしているけれど、人にしてはずいぶん軽い。そしてあまりにも冷たくて、固い。それでも確かに、幸せだった世界の象徴だった。
だから、象徴を手に入れた僕は幸せなのだ。そう自分に言い聞かせ、僕は、いや人類は、世界から消え去った。
幸福の象徴 黒月水羽 @kurotuki012
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