春風
俺が彼女と出会ったのは、高二の春だった。
彼女と俺は出席番号が一つ違いで、席が前後だったのだ。ちなみに俺が後ろで、彼女が前。
出席番号が近いからと言って、別に交流するつもりはさらさらなかった。焦茶色の髪を肩まで伸ばした、ただのクラスメイト。
状況が変わったのは、四月の中頃、古典の授業中のことだ。
「じゃあ……立石君。十月の別称、覚えてますか?」
春の陽気があまりにも心地良くて、ついつい微睡んでいた時、指名をされてしまったのだ。
寝ぼけた頭で思い出そうと躍起になるが、さっぱり覚えていない。しかも、頼みの綱の古語辞典も今日はあいにく家に忘れてきてしまっていると来た。
「すみません……分かりません」
「辞書は持ってきてないの?」
「……忘れました」
「じゃあ、近くの席の人、貸してあげて」
そう言われたので、周りを見てみるも、喋ったことのない女子ばかり。どうしたものかと思っていると、前の席の女子が振り返った。
「はい」
その女子はそれだけ言って俺の机に辞書を置くと、さっと前を向いてしまった。肩ほどの髪の毛がさらりと揺れていたのを覚えている。
唐突な出来事に多少戸惑いながらも、その辞書のおかげで俺はピンチを切り抜けた。
授業終了のチャイムがなった後、俺が声を掛けるより先に、彼女がこちらを振り返った。なぜか俺に向けて、ぱちんと手を合わせる。
「ごめん、差し出がましいことした」
「いや、助けてもらったのに謝られると罪悪感すごいんだけど。助かった、ありがとう高橋さん」
そう言うと、彼女——高橋さんは意外そうな顔をした。
「私の名前覚えてるんだ?」
「まあ、一応苗字は。下の名前は……ごめん。まだ覚えてないけど」
「いやいや、苗字覚えてるだけで充分すごいよ。私なんて、全然覚えてないし」
「じゃあ、俺も?」
「え? あー、うん! ちゃんと、覚えてるよ? えーっと……玉井君?」
「覚えてないんかい!」
俺は辞書を手渡しながら、言った。
「立石春太郎。春の太郎って書いて、春太郎」
「じゃあ、私も自己紹介しとこうかな。高橋かんなです。今後とも、どうぞよろしく」
そう言って、はにかんだ彼女の髪を春風が揺らした。その様がとても、とても綺麗で、俺はころっと恋に落ちた。
今思えば、随分と軽々しく恋に落ちたものだ。それでも、間違えたと思ったことはない。
こうして、俺と彼女の物語は始まりを告げ、今もなお進み続けている。
きみの物語になりたい 久米坂律 @iscream
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