月とコーヒー

 三月も末に近づいたある日の夜。私は近くの公園のベンチに座っていた。


 十一時を目前に迎え、少し寒くなってきた。もう四月も目の前だったが、防寒対策をしてきたのは正解だったようだ。臙脂色のマフラーを少しだけ引き上げる。


 色褪せた木のベンチは座っただけで壊れそうなほど古びていたが、案外強く、あまり軋みもしない。それを確認できた私は、ぐっと体重を預けて、足を前に投げ出した。


 そうすると、自然と視線が上を向いた。

 紺青の濃い空の真ん中、ぽっかりと浮かぶ満月が見える。


 ——今日は満月だったのか。


 そんなことを思っていると、後ろから声を掛けられた。低すぎない、真っ直ぐすぎるほどに真っ直ぐな声。

「おい」

「あ、」


 振り返って、立石、と名前を呼ぼうとすると、何かが飛んできた。慌ててそれをキャッチする。途端に、掌にじわりと溶けるように熱が広がっていった。


「……コーヒー?」

「俺の奢り」


 立石は私の手にある缶コーヒーと同じものを掲げてみせる。


「あー、ありがと。なんかごめん、気遣わせたみたいで」

「いや、別に。……あ、これ、別に賄賂とかじゃないから。缶コーヒーこれで絆して、その、告白にOK貰おうとかそんなこと考えてるわけじゃない。純粋な善意」

「分かってるって」

 私は手をひらひら振りながら、笑って見せた。


 立石がさっき言ったように、今日、私は立石に答えを告げるため、ここに呼び出した。


 不思議と緊張はしていなかった。ただ私の答えを立石がどのように受け止めるのか、それだけが気に掛かっていた。


 立石が私の横に腰を下ろす。缶コーヒーのプルタブを起こす音が聴こえたので、私もそれに倣ってプルタブと缶の隙間に親指を捻じ込んで、缶コーヒーを開けた。


 少し痛む親指を撫でてから、口をつける。夜にコーヒーを飲んで大丈夫だろうか、と思ったけれど、どうせ今日の夜は眠れないだろうし、どうもないか。


 お互いコーヒーをいくらか飲んだ後、私は前を向いたまま口を開いた。

「こないだのことの答えなんだけど」

「……おう」

「恋人になるとかはなんか違うなって考えてる」

「…………そう、か」


 横で、爪が缶にぶつかる音がした。微かな衣擦れの音は、夜の風にすぐさらわれていく。


「何で好きになってもらえたのかが分からないんだ。記憶の中を探っても、それらしきものが見つからない。それに、私自身が立石をどう思ってるかも分からない」


 私が考え抜いて出した答えは、「分からない」ということを正直に伝えることだった。

 立石は自分の気持ちに向き合って、それを私に伝えてくれた。ならば、私が急いて間に合わせで作った「付き合おう」も「ごめんなさい」も意味がない気がしたのだ。


 立石はただ黙って、俯いていた。

 私にはろくな恋愛経験がないけれど、断られて気分沈むのはさすがに分かる。


「じゃあ、帰るか」

 立石がこちらを見ないまま、立ち上がった。私はすぐさまその腕を掴む。

「待って。まだ話は終わってない」

「え?」


 私はコーヒーの缶を両手でぎゅっと掴んで、口を開く。

「立石のことを好きかどうかはまだ分かんない。分かんないけど、今回ちゃんと考えてみて、立石の歩む人生の中に私がいればいいなって思う気持ちがあるってことは分かった」

「……人生」

「私は、立石の物語になりたい。だから、これから先も私のことを見ていてもらえませんか」


 随分と厚かましいお願いをしていることは分かっていた。

 私の答えは、あなたの想いに答えられる想いがあるか分からないけど、私のことは見ていてほしいということ。言い換えれば、立石を好きか分からないけど、私には意識を向けてくれ、と言っているようなものだ。

 それでも、これが私の出した答えだった。


 立石を恐る恐る見上げる。

 満月が煌々と輝く横で、立石は笑っていた。

「分かった!」

「え⁉︎ いいの?」

 あまりのことにびっくりして、思わず声が大きくなる。


 立石は嬉しそうに笑いながら言う。

「いいに決まってるじゃん。だって、これなら俺振られたわけじゃないし。今後の頑張りようによっては、好きになってくれるかもってことだろ?」

 ポジティブな返答に、ぽかんと口が開いてしまう。本当にいいのだろうか。


 と、立石がベンチに再度を腰を下ろす。

「正直、答えがどうであれ、関係性は変わると思ってたんだよ。最悪、縁自体が切れることも想像した。でも、この答えなら先に続いていく」

 そこまで言って、立石は幸せそうに笑った。


「是非とも、俺の物語になってください!」

「……あ、はあ」

 そうして、私たちは綺麗な月の下、なぜか握手をした。



 *****



 この“物語になりたい”という私の気持ちがいずれ“恋”に変わっていくことは、まだ誰も知らない。

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