第6話
第四章 「空と刃」 一
秋が過ぎて、冬が過ぎて、まだ寒い春が来て、私達は高校生になった。そして私は今でも、あの感傷が癒えないまま、夏のまぶしげな明暗の中を生きていた。海と一緒に。
全く勉強をしなかった私は、中間くらいの高校に何とか滑り込みで入学した。なのに、海はいつも通り不敵に笑って、私と同じ高校に主席で入学していた。本当に分からないやつ。入学式の日、主席のくせに茶色の髪を注意されている海を見て、私は笑った。
それから何ヶ月かが経って、高校にも随分慣れた夏の休日。なんとなく意味も無く吸った、たばこの煙だけが虚しく積堆した落莫の冷たい昧爽。海からメールが届いていた。
〈海に行こう〉
たったそれだけの文章だった。
〈海が海に行くの?(笑)〉
私は自分でもくすりと笑いながら返信を打った。
〈海、好きだろ?(海って言ってもあたしのことじゃないけど)お前が言いそうな台詞で言えば、海の青い幻想を見て、潮騒を聴きにでも行こうって感じ?〉
〈わかった〉
返事を打ちながら、自分でも本当に言いそうだなと、海はなんでもお見通しだなと思った。海には本当に敵わない。
休日が終わったら、また学校で彼女に会うだろう。その時には海へ行く計画を立ててはしゃぐのだ。そんなとろけるような日常を想像したら、私は今健康に生きているような気がした。でも、健康に生きるってことは、今までの自分を否定することになってしまうから、私はあわてて健康の誘惑をかき消した。健康になりたいとは思っているけれど、いざなれると分かったら、また狂躁の中へ引き返し、沈んで行くのだ。だって限りなく死に近い場所は居心地が良いから。
それでも、「夏」、「海」といった、ゆらめく幻想という詩のためなら、私は生きていられる。そんな気がした。だから海に行くまでは生きていようと思った。
学校へ行くと、中学ではあり得ない時間に海が登校して来て居た。
「早いね」
「海に行くの、楽しみでさ」
海は笑った。私達は、そんな普通の会話ができるようになっていた。新しく始まった高校生活で、私は平穏に何の考えも無しに生きている奴らに、一々干渉しないで居られるようになった。だからといって、手首を切るのは変わりなかったけれど。
今まで周囲に対して向けられていた、直接的な反発や疑問は全て自分に向けられるようになった。だから、先輩が言っていたように、私はいつしか自分を責めるようになっていた。おかげで手首の傷は今までよりも深く、多くなってしまったけれど、表面上普通の生活に溶け込めていたと思う。
「海に行くって言ったけど、お前は具体的にどの辺の海に行きたい?」
海はもう具体的な計画を立てるつもりらしかった。
「湘南辺りかな。それも人の少ない所」
「お前、湘南で人少ないなんてむりだろ。近いところで、三浦半島か」
確かにそうだ。海はどうして三浦半島なんて知っているのだろうか。もしかしたら行ったことがあるのかもしれない、と思った。
「そこ、海きれい?」
「けっこうきれいだぞ。湘南からもそう遠くない」
「じゃあ、そこでいいや。それから鎌倉も行きたい」
すると海は「鎌倉?」と聞き返した。
「そんなとこまで行ったら、一日じゃ巡りきれないだろ」
「いいの。泊まりで行こ?」
あまりにも乗り気な私を見て、海は少し考えてから苦笑した。
「何日くらい泊まる気でいる?」
「二泊くらい?一日目は鎌倉に行って、二日目は海に行く。二日間遊んだら、次の日のは朝砂浜を散歩して、何かご飯を食べて、それからゆっくり電車に揺られて帰るの」
「どう?」という私の問いに、海は「まあ、そんな旅行も悪くないかもな」と頷いてくれた。
「じゃあ、決まりね。行くのはいつにする?」
そう尋ねたら、海はあきれた顔をして、「夏休みに決まってるだろ」と言った。
「二日泊まって、帰りに一日使って、次の日は疲れて休みたいだろ?そんな連休、夏休みくらいだ」
「さぼったっていいよ。どうせ中学の時にはいっつもさぼってたんだし」
と言うと、どんだけ行きたいんだよという顔をして、それから海は突っ走る私を止めた。
「やめとけ」
ただそれだけ言った。海らしくなかったけれど、なんだか強い意志がこもっていたから、私はおとなしく夏休みに行くことを受け入れた。そうしたら、海は思いついたように言った。
「お前、バイクの免許持ってる?」
「は? 持ってるわけないでしょ」
「じゃあ取れ。海岸にはバイクって決まってんだろ」
なんだそれ。私は思わず笑ってしまった。でも、そんなのもいいかもしれないなんて思った。海風を受けて夏の風に溶けていく。心地よい風が海の詩を運んでくる。そんな景色が思い浮かんだ。
「分かった。免許、取るよ」
「ああ、決まりだな」
それから私達は他愛ない話をして笑った。
そんな会話をしていたら、青春とは一瞬のことのようで、永遠のことのようだと、ふと思った。私達の健康なようで不健康な毎日が、今後何も変わることの無いまま無限の中を漂って、どこにも流れ着かなければいいのにと思った。それでもいつか大人になったら、この大切な痛みを忘れてしまうかもしれない。それは「生きて行く」ってことなのかもしれないけれど、そんな喪失には耐えられない。耐えられるような無感覚な人間になんてなりたくない。だから、たとえ私のどこかが壊れていても、このままの日常が続いて欲しかった。
なのに
数日後
海は死んだ。
その前日の夜、海からメールが入っていた。
〈明日、誰よりも早く来て。誰よりも〉
そう書いてあった。なぜ? とか、どうして? とか尋ねたけれど、返事は一向に来なくて、私は仕方なく、そのメールに従って眠い神経を引きずって学校へ行った。
そうして教室へ入ると、唐突に大きな陰翳のかたまりが飛び込んできた。
異常なものが。
天井から紐が吊り下げられている。その先に、「何か」が、ぶら下がっている。
私はすぐにその「何か」から目を逸らした。見たくはなかった。それがなんであるか、認識したくなかった。眼を背けたけれど、一瞬見てしまっただけで、それが何かわかってしまったから。
短いスカート。茶色に染められたポニーテールの髪の毛。銀色に薄桃色の装飾のついたピアス。たらん、と伸びた細い手足は何度も見慣れたきれいな形をしていて、はだしの足先を、つめたい朝の光がつやつやと濡らしている。
そして……
その小さくて、薄い唇は、私の唇と触れ合ったことのあるもの、
未知の甘い酩酊のさざなみを私の体に覚えさせた唇。
目の前にゆらゆらと音も無くゆれているのは、海のからだそのものだった。
呆然。今の私にはそんな言葉がぴったり似合うのだろう。ふらつく足を無理やり動かして彼女の前へ歩いていくと、やっぱり見慣れた彼女の机の上に、三冊の文庫本と、私が以前貸したCDとルーズリーフの切れ端が、きれいに整って、ちょこんと置かれていた。二つ折りのルーズリーフを、感覚の無くなりかけた指先で、おそるおそる開いてみると、紛れもない海の字が並んでいた。夢だと自分に言い聞かせながら文字を拾っていくけれど、内容が全く頭に入って来なかった。
気が付くと、私は無意識のうちに声も上げずに逃げ出していた。机の上の物を隠すようにかかえて。逃げるように家へ帰ると、毛布を頭からかぶって、その中でゆっくりと文字をたどった。
だめだね。生きていられなくなった。
あんたには散々強がって見せてたけど、本当はあたしもあんたと同じなんだ。他の人にとっちゃどうでもいいことに一々つまづいて、そこから一歩も踏み出せなくなってたんだよ。たばこも、お酒も、クスリも、先輩と寝るのも、みんな不安をごまかすための強い睡眠薬か精神安定剤の代わりだった。
わざとわかったような顔をしてあんたに説教してたのは、自分に言い聞かせようとしてたから。だから悪く思わないで?
自分でも間違ってるのは分かってたけど、それを誰かに、正確に指摘されるのが怖かったから、「お前に言われないでも、あたしはあたしのことを知っている。知っている上でやってるんだ」って、線引きをしてたんだ。
でも、これ以上ここに淀んでるわけにはいかないし、このままだとあたしは将来ニートになりそう。でもニートにはなりたくないからさ、だから行くよ。
それに、あたしも美しくなりたかったんだよ。なら、今しかないと思ってさ。
遺書なんてかっこいいものじゃないけど、机の上に置いてある物はあんたにあげる。
以上!
佐伯 海
手が震えた。手紙を握る手の袖からはみ出た手首には、いつかの切り傷が浮かんでいるけれど、私の「死にたい」なんてまだまだ甘かった。ただの陶酔だったのだ。深刻ぶって、そのくせ本気で死ぬことなんてできてなかったのだから。だから今度こそ死ななくちゃ、と思った。
それからはかなしくて、かなしくて、やわらかなガラスに犯されているみたいだった。
綺麗なガラス。
壊れやすいガラス。
割れて光を放って私を傷つけて行く、澄んだきらめきの短刀。
すべての美しい物が私を傷つけていく。そんな観念の下では世界の見え方が変わる。街も、人も、電車も、車も、ガラスでできた美しい城へと変わっていく。その中で私だけが、生身のいやらしい肉を身に着けた人形だった。美しくないものは死ななければならない。死んで美しく転生しなければならない。今度こそ美しくならなければいけないと、世界に言われている気がした。
いつまでもずるずると生にしがみついている命が美しいはずがなかった。
激しく、美しく、鮮烈で、一回性の取り返しのつかないスピードで過ぎ去っていく命でなければ美しくない。
常に新鮮な美しさを放出して走り去り、色あせる前に速やかに終わらなくてはいけない。
夏の透明な夜空に、一発だけ打ちあがる幻想の花火。それもこの世のものではないような、想像上の中にしかないような花火でなくてはいけない。それができないなら、これ以上醜さを漂わせる前に死ななければならない。
義務感にも似た感情が流れ出す。それは私の望んでいたはずの感情だったはずなのに、なぜだか死ぬことはできなかった。それはたぶん、海が死んでも、私の生活に何ら変わりが訪れることは無いという予感がしてしまったからだと思う。死はただの自己満足で、無意味だった。海が自分の死と引き換えに最後に残したのは、「死んでも無駄だよ」という、いつも私を指摘していたような口調での幻聴だった。
三十分もすると、一階の電話がうるさい音を響かせる。どうせ内容はわかってる。学校が休みになるのだろう。教室に首を吊った死体があったら、どんな学校だって休みになるに決まってる。だから出る必要なんてないのだ。でも、母は仕事に行ってしまっているし、私が出るのを待っているかのように、電話は鳴り続けている。いったん止んで、また鳴って。無視しようと、毛布を被り直したけれど、いつになっても鳴り止まない電話は、「もしかしたら、私が持ち去ってしまった遺品のことじゃないのか」なんて不安を煽る。
ついに耐え切れなくなった私は、鞄の中に文庫本と海の遺書をつっこんで、制服のまま鍵もかけずに家を飛び出した。
ふらふらと朝日の中を歩いてみる。どこかへ行くあてはなくって、いつも私の前を歩いていた海は死んだから、私は海の後にくっついて歩いていくことはもう出来ない。一人じゃ何にもできない自分の無力さだけが私の全身から流れ落ちる。いつも前を歩く茶髪の頭はどこかへ行ってしまった。どこへ行くのか、どこへ向かって歩けばいいのかわからなくなってしまった。
今までは、私が何も知らなくても、わからなくても、とりあえず海の後ろをちょこちょこついていけば良かった。今までは。でも、もう彼女は私の前を歩いてくれない。何をするべきかわからないのは、海が生きていた時と変わらないけれど、今はさらにわからなくなってしまった。だから、家を出てふらふらさまよい出したけれど、世界が落ちてきたみたいな不安が私一人の上へと落ちて来た気がして、歩道の真ん中にしゃがみ込んだ。それでいて涙は出ない。ただ震えているだけ。会社や学校へ行く人達がうずくまる私へ視線を落として行くけれど、だれも立ち止まる人はいない。そんな風景を見ていたら、海の死がひどく無意味なものに思えてしまう。人の死なんて人ひとり立ち止まらせることも出来ない、ちっぽけで無力なものなんだと。
彼女の存在に関わっていない人からすれば、それは当然のことだろうけれど、彼女の死が世界にとって取るに足りない無意味なものでしかないことはとても悲しかった。そして私は今さらになって気がついた。
死は美しいものじゃない。もっと意味のわからない、ぐちゃぐちゃしたものだったのだ。死が美しいなんてとんだ幻想で、私が描いていたものは本当の死にぶちあたったことのない、他人事の夢でしかなかったのだと気がついた。
それでもなんとか立ち上がった私はまた歩き始める。橋が近づいてくると、たもとのガードレールにしなびた菊の花と千羽鶴の残骸が、車の跳ね上げた泥水を染みこませて揺れているのが視界に入った。
「ばかだね」
千羽鶴の一羽が私を見つめてそう言った気がした。
「そうだよ、ばかなんだよ」
だから何がしたいのかわからないんだよ。と頭の中で自分にも言い聞かせるように言って、地面の小石を蹴ってみた。小さな石ころは地面を不規則に転がって、水路の中へ落ちて行った。そして水の流れの中に情緒不安定な波を広がらせた。
そんな波紋を見て、何の因果関係も無く思い出したのは先輩のことだった。海の死んだこの街の空気を吸って、何を思って暮らしているんだろうか。そう思った私は携帯を取り出した。だけどアドレス帳のなかにはその名前は無くて、初めてキスをしてしまったあの日から、海と一緒に何度か先輩の部屋を訪れていたのに、私はあの人の名前すら教えてもらっていないことに今さら気がついた。だけど、どうしても気になった私は、海と初めてたばこを吸った場所へ行ってみようと決めた。
家へ引き返して自分の部屋へ戻ると、財布をつかんでポケットにねじ込む。あの場所へ行ってみれば必ず出会える気がした。運命のように。
電話はもう鳴っていなかった。家を出るとさっきと同じ道が私の視界を掠めすぎた。
海はもういない。海はもういない。そんな幻聴が私の頭の中を駆け巡る。現実が受け入れられなかった私は、やっぱり誰かに救いを求めるのだ。
電車から降りて駅の改札を出ると、人の大きな波に呑まれる。それはあまりにも私の日常に似ていた。人の流れは、生きていくことに何の疑問も持たないまま、ただ流れていくのだ。そして私はなんとかそれに抗ってみようとするのだけれど、世界という相手はあまりにも巨大な情緒を維持しようとするから、私なんかのちっぽけな感情や感傷は、誰にも届かないまま孤独なのだ。
しばらく歩いて、初めて海と一緒にたばこを吸った場所へとたどり着くと、朝のネオン街は静寂に近かった。海から教えて貰っていた、先輩が働いているコンビニを探して入ってみる。でも居るのはおっさんやおばさんばっかり。若い人はあんまり居ない。もしかしたら先輩は夕方にバイトをしているのかもしれない。というか、彼が健全な大学生であるなら、この時間にバイトをしている筈はない。私は先輩を探すことを一旦あきらめて、海との思い出をたどるように、映画館へ行って同じ映画を見た。
それは同じ映画の筈なのに、全然楽しくなかったし、その後アクセサリーを見たりしてできるだけ同じように過ごしてみたけれど、何の感情も湧いてこなかった。本当に何もなかった。ただ虚無だけが通り過ぎて行って、健康な夏の空の下に私だけが取り残された。或いは海から夏だけが取り残された。
海はもう歳を取らない。季節だけが歳をとってゆく。そんな実感が今になって足元を伝って脳へと登っていく。
めまいがした。
気が狂いそうだった。
そして私は感情にまかせてただ走る。これもまた、海や先輩と走ったあの日と同じように。
夕暮れが感傷を乗せてとばりを下ろし始めるから、私はまた今日のすべてが始まった場所へと戻って行った。その場所へ行くと、しゃがんでから海がくれたたばこを取り出して火をつける。煙がのぼってゆく。昨日の雨で、道の隅には水溜りができていた。昼の間はにごっていた水溜まりも、夜の間だけはその水面に、強く発行する三日月の光を鏡より美しく反射させていた。
近くの公園から聞こえてくる夜風をわたる虫の音が、夏の夜にほほえんだ。その声を聴いていたら、どうしようもない落莫と焦燥感に、私はたばこの火を手首に押しつけた。噛みつかれたような痛みと引き替えに、私はこの時間を生きていられた。生きているって実感を持てた。
燃え尽きたたばこの灰をはらうと、かすかに残った赤い火だねがほたるのようにゆらいで、飛び去っていって、そうして消えた。もう夜か。そんなことが頭をよぎる。
死は私の存在を何者かにしてくれると思っていたけど、それは私が勝手に死に抱いた淡い恋だったのかもしれない。
空を見上げる。銀河の果てに問いかける。「どうしたらいいの?」唯一の、換えの効かない私になるためにはどうしたらいいの。今、先輩は何をしているんだろう。そんな思考を巡らせていたら、私の頭の上から声が聞こえた。
「小野さん?」
びっくりして顔を上げた。もしかして先輩? これは何、運命? とも一瞬だけおもったけれどそんなに世界は上手く回っているわけではなかった。現に私がこうして死にかけているのだから。声のした方へ顔を向けると、そこにあったのは南くんの顔だった。
「小野さんだよね? 偶然だね、どうかしたの?」
南くんはおそるおそると言った感じで、自信なさそうに言った。私の目が赤く腫れ上がっていて、顔色も悪いであろうことは自分でも分かっていた。だから何も言わなくっても、そう聞かれるのは当然だと思った。
でも、先輩だったら良かったのに。せっかく心配してくれた南くんに悪いと思いつつ、私はそう考えてしまった。海が死んだとを言うのはためらわれて、
「ちょっとね、ふられたの」
と震える声で言った。嘘をついていることは、どんな馬鹿でも分かるくらいに、私の声は震えていた。それに私が黙っていても、同じ中学だった南くんにはそのうち海が死んだという連絡が行くだろう。でも今は本当のことを隠しておきたかった。安っぽい一言で海の死を穢して欲しくなかったから。
「そうなんだ」
私の心配とは裏腹に、南くんは本当に気づいていないような顔で私の横にしゃがみ込んだ。
「たばこ、吸ってるの?」
そんなところだけ適格で、鋭いのか鋭くないのか分からなかった。
「悪い?」
投げやり気味にそう言うと、意外にも「いや、べつに……」と言った。
「一本ちょうだい」
代わりに南くんは手を差し出した。
「吸ったことあるの?」
驚いて尋ねると、「あるよ」と答えた。意外だった。クラスでは目立たなかったけれど、南くんは中学では模範的な生徒だと思っていたから。
「一つ下の妹が自殺した時にね。夜だったよ」
「それって最近?」
「うん。中二の秋。葬式で酔っぱらった叔父さんが廊下で落としたたばこを盗んで、吸ったんだ。外の喫煙所には誰も居なかった。世界に自分一人きりみたいだった。どうして人の死を囲む空気は『かなしい』の一言だけなんだろうって思ったよ。本当はもっと色んな感情があるはずなのにね。それが悔しかった」
「うん……」
私はうなずいた。南くんはたばことライターを受け取ると、海みたいに「メンソール嫌いなんだよね」と言って、慣れた手つきで火をつけた。それから空気を吸いこんだ。吐き出された煙は、夏の星座の足下へと静かに登って行った。
「いじめだったんだ。何が理由かは知らない。死は安易な救いかもしれないけど、あいつにとっては唯一の救いだったんだと思う。それでも後に残されたのは虚脱感だけだったよ。唯一の救いのくせに、持ってきたものが虚脱感だけだったなんて救われないと思った」
初めて聞かされた南くんの過去に、そんなものが潜んでいたなんて思ってもいなかった。でもその過去は、海の死に似ていた。だから私は本当のことを言おうと決心した。
「ほんとはね、ふられたなんて嘘」
先輩に出会えなかったってことは、運命にふられたってことなのかもしれないけれど。南くんは黙って煙をふかした。
「海が死んだの」
「海って佐伯さんのこと?」
「うん。今日の朝。首を吊ったの」
南くんは小さく「そっか」とだけ言った。その短い言葉の中に、色々な感情が込められているような言い方で。それから、「話、ちょっと前に戻してもいい?」と聞いた。私が頷くと南くんはまた話を始めた。
「妹が死ぬまで、自殺なんて限られた誰かにしか訪れないことだと思ってた。でもあいつが死んで、生きることがかなしくなって、空しくなって、僕も自殺しようって思ったときに気づいたんだ。自殺の機会はいつでも、誰にでもあるんだって」
私が「そう?」と尋ねると、南くんは「そうだよ」と答えた。
「動機なんていくらでもある。僕みたいに大切な人が自殺する人もいる。大切な人が事故で死ぬこともある。それは妹をいじめてたやつの身内かもしれない。それでいじめをしていたようなやつが自殺するかもしれない。死は誰にでも平等で理不尽なんだ。そう考えたら、まあ生きていてもいいような気になったんだよ」
「でも完全に虚脱感を消すことはできなかったよ」と言って、南くんは力なく笑った。だからたばこを吸うんだろうな、と私は思った。「たばこで少しは紛れる?」と聞くと、彼は「全然、全く」
と言って苦笑した。
「けっこういろんな物語でさ、映画とか小説とか漫画とか。誰かが死んだ後には決まってたばこを吸う人が出てくるでしょ? それの真似だよ。あとはたばこの煙には空しさが含まれているのかもしれないからかな。自分の空しさに寄り添ってくれてるような気がする。だから吸うだけだよ」
都会の喧噪の中で、私達は沈黙した。音も無い私達だけの空白。その中で私は思いついたように言った。
「ねえ、付き合おっか」
南くんは面食らっていた。今までの落ち着いた雰囲気と沈黙が、声を上げて笑い出した。
「からかわないでよ。僕のどこがいいんだよ。気まぐれで言うんならやめてくれ、結構傷つくんだから」
確かに私の発言は気まぐれだったのかもしれない。雰囲気がそう言わせたのかもしれない。この運命みたいな再会の中で、愛でも恋でもない空虚な響きだけが、私が彼に抱いた好きというもどかしい感情だった。
「本気だよ?」
「ほとんど話したことも無い人に言う台詞じゃないよ」
「これでも?」と言って、私は南くんの頬にキスをした。赤くなる南くんはかわいかった。
「本気なのか?」
「うん」
私がそう言うと、南くんは黙ってしまった。
「少し考えさせてよ。こういうの初めてだから」
「いいよ。ゆっくり考えて」
「ありがとう。じゃあ今日はもう帰るよ。小野さんも気をつけてね」
南くんはアドレスを交換すると、表通りの方へ歩いて行って、そのうち見えなくなってしまった。送ってくれたっていいのに、なんて考えながら私はまたたばこを一本取り出して火をつけた。
ガラスの解剖 笹十三詩情 @satomi-shijo
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