第5話
第三章 「詩と死」
「これ、リタリン。結構効くから上手に使ってね」
一昨日、先輩の部屋で夜を明かした私達は、部屋を出る前にクスリをもらった。先輩は私に「かなしい」じゃなくて、本当はどんなことを伝えようとしていたのだろうか。
海は、唇を重ねるなんて錯乱した行為で、私に何を伝えたかったのだろうか。
私はポケットの中で、先輩にもらったクスリを握りしめた。「精神安定剤」。帰りの道すがら、海に「これ何?」と尋ねると、彼女はさらりと答えた。「クスリ」。その響きは私を不幸にした。私の不幸は止まらない。止められない。でもそれが救いでもあった。不幸は私を唯一にする。孤高にする。そうして替えの効かない何者かにしてくれる。私は何者かになれることを望んでいる。だから私は今日も不幸で重たくなった制服を引きずって、何者かになろうと忌々しい朝のさわやかな大気の中を切り裂くように進むのだ。
学校に着くと時間は一時間目と二時間目の休み時間だった。私は今日も遅刻だった。今日は齋藤の受け持ちの授業は無い。警戒することも無く、安心して教室に入ることができた。でも、いつもの目まいは止まらなかった。普通の日常。何者かになろうとしているやつは一人も居ない日常。そんな中では、私の存在は異端でしかない。「お前、そんなんでいいの?」って問いが、私と彼らの間に流れる沈黙の中で交わされている日常。私は「これでいいんだ」と思っているし、多分彼らもそう思っているのだろう。私は水道の前まで行くと、水を口に含んでから、クスリを取り出して飲み込もうとした。
「よっ」
私は振り返った。そこには今登校して来たらしい海が立っていた。
「それ、あんまり頼りすぎると死ぬぜ?」
海はあまりに自然で、春の風が過ぎ去ったのかと思うほど軽やかに言った。
「そんなに強いの? これ」
「まあね。入院しないともらえないくらいに」
私はそう聞いてクスリを飲むのを止めて、蛇口の水を止めた。
「先輩って入院してるの?」
「まあ、出たり入ったりだよ。最近は入ってないみたいだけど」
「へえ」と、抑揚の無い声で答える。今日の私は全てに対して厭世的で無気力だったから。
「じゃあ、また」
「え、どっか行くの?」
これから授業だというのに、またどこかへエスケープだろうか。死かけていた感情の欠片が、少しだけ反応して、私に質問をさせる。
「一旦帰るだけ。鞄忘れたから」
学校に来るのに鞄を忘れて来る。それはあまりに画期的なボケだった。いつも通り、いや、それ以上にいつも通りな、海のやる気の無さに私は安心して、目まいはやわらいだ。
三時間目、国語の授業は教師の今井が文学という観点から、薄ら寒い「生きる」ということを熱弁していた。今井はいつも自信に満ちている喋り方をする。知識だけを詰め込んで、自分は国語のことを分かっている気になっている。知識を持っているだけで、作家がどんな苦悩をしたのかを知らないんだと思う。今井にとっての苦悩は、仕事の苦悩とか、勉強が上手くできた、できないとかの苦悩。そういう類いのもの。健康に生きている上での悩みでしかなかった。「暗い文学は嫌いだよ」と言っていたのが何よりの証拠。失敗の無い、後悔の無い、都合の良い文学なんて価値は無いのに。そんなものしか受け入れられない人が文学を教えているのが、私には腹立たしかった。
それに、生きる不安を抱えたことのない、熱し過ぎたやる気に満ちたあの目。私はどうしても受け入れられない。だけど世間や教師の間では、そんなやる気ばかりが評価される。今井も齋藤と同じように、教師や一般的な生徒からの評判はいい。でも、私はそんやつがどんなに偉そうに「生きる」って言葉を語っても、空虚にしか響かない。響きもしない。だから私は、勝手に便覧の関係無いページをぱらぱらとめくって、中原中也の詩を何度も口の中で繰り返していた。
それを繰り返していると思う。私は汚れてしまった。いや、一昨日の夜よりもっと、ずっと前からすでに汚れていた。醜い私には居場所なんて無い。そう思った。
「先生」
「何だ」
手を挙げた私に、今井は熱弁を邪魔されて不機嫌そうに言った。私じゃない生徒が手を挙げたのなら、もう少しましな返事が返ってきたのだろうけど。
「気分が悪いので、保健室に行ってきます」
授業開始十五分で私は国語の授業に飽き飽きしてしまって、保健室に行く気も無いのにそう
告げて席を立った。「またか」というため息と共に、
「気をつけて行けよ」
という声が右から左に通り過ぎて行った。
保健室には行かずに、屋上へつながる扉まで階段を登ると、私はドアノブに手をかけて何度か力強く捻った。重たく、引きずるような音と共に私は屋上へと踏み出した。
屋上へ出られるこの扉は、以前は鍵が掛かっていた。少し前、海と一緒に授業を抜け出した時、映画で見たのを真似してクリップの先を曲げた物で、無理矢理開けておいたのだ。
屋上に広がる青い空間には、風が寂しく吹いていた。上空を見上げると、白い月が真昼の宵を運んで来ていた。のんきで自由な昼の太陽が平和を告げていた。ゆったりとした時間の流れに身を任せると、「世界は平和なんだなあ」と思わされる。もちろん平和なんて存在しない場所が、この世界にはあることも分かってる。それでも、私を取り巻く世界は平和でしかなかった。
平和な世界には平和な未来が良く似合う。そして世界は、平和な未来こそが全てという顔をする。それなら私みたいに未来がまぶしすぎる人間は、どんな未来を求めればいいのだろう。私は、まぶしすぎる未来の重さに耐えられなかった。
ふらふらとした足取りでトイレの個室へ向かう。自分の教室がある二階まで正気が保てなくて、三階のトイレに逃げ込んだ。個室の鍵を閉めると、体の底から汚泥のような嫌悪が込み上げて来た。うめき声と一緒に。
胃の中の物が逆流する。
吐き気が収まらない。
世界を呪いたくなる。
それが何の解決にもならないことを知っていながら、とにかく吐いた。吐かずには居られない衝動が私をそうさせるのだ。吐く物が無くなると、胃液と唾液だけが絞り出すように口から流れ出た。ようやく吐き気の落ち着いた私は、それでも世界を呪う気持ちに変わりは無くて、世界を壊したかった。創り直したかった。
「ストレスの溜まった時には、そのストレスを何かにぶつけたくなることがあります。辺りの物を滅茶苦茶に壊したくなることもあるでしょう。そんな時には代替として、紙なんかを破いてストレスを発散すると良いですよ」なんて、いつだったか読んだ雑誌に書いてあった。それはあながち間違いじゃないと思う。だけど私の場合、そんな、紙なんてどうでもいい物なんか壊したってなんにも得るものがない。そう感じてしまう。
掛け替えの無い、取り返しのつかないものをずたずたに壊してやらなくては、この感情の昂ぶりは抑えられないのだ。溜め込んで行き場の無くなった世界への憎悪が自分を破滅させるように、私の憎悪はカミソリの刃となって自分へと向けられた。ポケットから取り出したカミソリを握ると、キャップを外す。皮膚に刃を押しつけると、私はそのまま手首を切り裂いた。肉と皮膚が裂ける音が聞こえる。でも、感情の死んだ私には何の感覚も起きない。皮膚の弾力で刃が押し返されて、体が切り裂かれることを拒絶している。指先から伝わる感覚で、そう分かるけれど、自分の肉体が発する悲鳴を冷酷に無視してカミソリを引く。痛みがやって来るのはいつだって全てが終わってしばらくしてから。だから痛みなんて無かった。そこにあるのは、赤黒い不幸の詩が流れているだけ。一息つくと、ちり紙をぐるぐる巻きにして止血をする。それからなんとなく天井を見上げた。そこには何も無く、静寂だけが染みついていた。
「ああ、今日も私は不幸だ」という無言の独り言と、「不幸な私は少しでも美しくなれただろうか」という自問だけが残った。それから思い出したようにクスリを取り出すと、トイレを出て水飲み場へ向かった。三階は二年の教室がある。見知らぬ教室の空気をかすめ過ぎて行くと、何人かの生徒と目が合った。授業中に廊下をうろつく私を、不思議そうな目で無邪気に見つめているのだ。その視線を無視して、海と出会う前のことを思い出しつつ蛇口にたどり着いた私は「頼りすぎると死ぬぜ?」という言葉を思い出しながら、投げやりにクスリを飲み込んだ。クスリを飲み終えると、私はもう疲れ果ててしまった。これ以上、この希薄な情緒に今まで何とかつなぎ止めてきた、綿毛のような危うい意識を浮かべていることはできなくて、ただ精神の眠りの底に落ちていくことしかできなかった。「戻ろう」そう思って廊下を歩いていると、冴え冴えとした白い涙が頬をつたっていた。
教室へ戻ると、いつの間にか海が私の前の自分の席についていた。彼女はクラスの全員がそうするのに紛れて、後ろのドアから入ってきた私をちらりと見た。「もう終わりだぞ」という今井の耳障りな声と共に、すり減ったようなチャイムの音が響いた。
「おかえり」
三時間目が終わると、私はいつの間にか戻ってきていた海にそう告げた。「ただいま」という返事を机に突っ伏しながら聞く。体も精神も、憔悴し切っていたから。そんな私を見た海は、今の私の状況を一瞬で察したみたいだった。
「クスリ、飲んだ?」
「うん」
ただの肉の塊と化したような体の底から、絞り出した声で返事をする。
「そのうち効いてくるから、そしたら今よりはましになるだろ」
「うん」
うなずきながら、この痛みが取り払われることは魅力的だったけれど、クスリによって強制的に得た解決なんて意味ないよ、と思った。私はこの感傷を背負ったまま、全てを解決したかった。クスリによって、このドン底から這い上がれたとしても、代償としてこの感傷が失われてしまうことが恐ろしかった。だってこの痛みが失われるってことは、私が信じて生きてきた過去が全て否定されてしまうから。だからクスリの力を借りた解決はしたくなかった。けれど、あまりの絶望の重さに、今はクスリの力を借りるしかなかった。
海はそんな私を見て、何を思ったのか、今はそっとしておいてくれた。チャイムと共に、あまりにも早く感じられた数分の休息が終わる。数学の小林が教室に入って来て、授業が始まった。起立と礼を、重たい体で何とかこなすと、私は崩れるように椅子に座った。
数学の時間は他の教科よりまだましだ。小林はいつもしょぼくれていて、何を考えてそうしているのか分からないけれど、私や海にとやかく言ったりしないから。世界の重さを背負ってしまったような私は、さっきの戦いの続きをしていた。
数学の公式を解説する小林の声が、私の存在と関係無い所で流れている教室で、この小さな体に収まりきらない程の、破裂しそうな感情が、小さな体に詰め込まれた。私は溢れ出る衝動を何とか押し込めようとすることだけで精一杯だった。そうして意識と衝動の背反が私を消耗させた。
「小野、ここやってみるか?」
小林の声で唐突に我に返った私は戸惑った。話なんてそもそも聞いていなかったし、公式の話なんて、私の背後を満たす背景のようなものでしかなかったから、気にも留めていなかった。だから、少し考えるふりをしてから、
「分かりません」
と小さな声ですまなさそうに答えて、「もういいぞ」と言われるのを待った。でも小林は、私と同じように疲れた声で、
「どうした、疲れてるのか?」
と聞いた。
「そうかもしれません・・・・・・」
「それなら休め、保健室へ行った方が良い。誰か連れて行ってやれ」
誰も手を挙げなかった。私とあいつらは相容れない。それは分かっていたけれど、誰も私のこと考えていないという事実は、何も書かれていない真っ白な文庫本のように、何かが欠落していて、意味があるようにも無いようにも感じられる、満たされない気持ちを運んできた。
私は人の生には精神とか思想が必要だと思っているし、必ずしも両立しない精神と生活が、どうすれば両方とも手に入るのかを探していた。それによって周りに不快な思いをさせたこともあることは分かっているけれど、それはきらびやかな現実に埋もれて行きそうな毎日の中で、私がここに居ることの証明。それから、私がここにいるためにはどうしたらいいのかを問う絶叫だった。様々な重力に満ちた、生きづらく、けれど美しい地球という星で生きる中で生まれた叫びだった。
だから、ほんとはあいつらが嫌いだから嫌悪している訳じゃ無い。なのに、自分が周囲から必要とされていない事実がかなしかった。
そうしたら、海は教室全体を見渡した後、ぬいぐるみのように可愛らしく私に笑いかけて、手を挙げた。
「あたしいきます」
「わかった。ちゃんと帰ってこいよ」
「はーい」
海は間の抜けた返事をした。たぶん帰る気は無いな。私の直感がそう告げていた。そして私達は教室を出た。小林は私達のことを、この気持ちを分かっているのだろうか。疲れた顔をして、うるさく言ったりはしないあの背中。でもそのことに対して深い会話は無いから、何も分からない。私は柄にも無く「分かり合いたいな」と、ほんの少しだけそう思った。だから、
「小林ってさ、私達のこと何か分かってるのかな」
少しだけ興味が沸いて聞いてみた。
「私達じゃなくて、主にお前のことだろ」
「そうかな」
海は少し考えた後、「そうだろ」と言った。
「でもさ、人は他人のことを完全に理解するってことは無理だけど、完全に分からないってこともないだろ?」
「本当にそう思うの?」
「理解されないことも理解してくれた気がするのも、結局はそういうことだろ」
海の言葉を聞いて、私はやっと思い出した。私と海ですら本当にはわかり合えていないことを。それでも私は全てが理解されることを望んでいたから、そのまま納得するわけにはいかなかった。でもそれを否定するにはあまりにも根拠が足りなかった。
保健室に着いた私達は真っ白い、消毒薬の匂いの染みついたベッドの上に座った。
「戻らなくっていいの?」
「冗談だろ。もともとあそこに居る気は無かったから出てきただけ」
「またそんなこと言って」
そう言いながら、私は迷っていた。海がそうやっていつも、全てを投げ出したように笑っている理由を尋ねようかどうか。視線をさまよわせると、人の居ない空間には病の気配が滲んでいた。そこには自分の居場所があるように思われた。その時私は、美しい死と共に狂気も望んでいたのだと初めて知った。
ただ生きていること。それだけ、それだけが私の焦燥。私はその恐怖に怯えていることしかできない。恐怖の痛みこそ、私が生きていることの証しなのかもしれないけれど、その痛みの全てを受け止めきれるほど強くないから、自暴自棄に死の狂気で痛みを薄めることしかできないのだろう。それが狂気を求める理由。
海は立ち上がると、机の脇の棚から消毒薬のビンや、絆創膏や包帯を持ってきた。
「出して」
私は言われるままに袖をまくって、さっき切った傷口を出した。
「保健室なのに、保険医が居ないってのも問題だよな」
「そうだね。でも先生がいたら、私の手首大問題になるでしょ。それはやだな」
私は薄く笑った。海は消毒薬のビンの中に、ピンセットでつまんだ綿を浸した。それを傷口に軽く当てて消毒をした。
「絆創膏、小さいな」
海は絆創膏を貼るのを止めて、ガーゼを優しくテープで貼った。絆創膏は、普通のものより遙かに大きい医療用だったけれど、私の血と傷が余りに大き過ぎた。包帯をきつめに巻き終えると、私は袖を元に戻した。
ベッドの上に横たわると、海が布団をかけてくれた。いつになく優しい海の行為に戸惑いつつも、そのやわらかな優しさに包まれて、私は眠りに着いた。
気が付くと、四時間目は終わっていた。海は私が眠るまで隣に椅子を出して来て、見守っていてくれたけれど、いつの間にか居なくなっていた。どこへ行ったのかは分からないけれど、教室には戻っていないことは簡単に予想できた。
立ち上がって、布団を整えて教室へ戻ると、既に昼食の時間になっていた。グループの形になった机が並ぶ中、私の机も気まずそうにグループの一角を占めていた。その上には、私の代わりに海がよそったのであろう給食が配膳されていた。海の隣になった自分の席に着くと、私は居心地の悪さを感じながら、控えめに昼食をとった。
昼食の後、片付けが終わると、久しぶりに手首を切るため以外の理由でトイレに行った。教室に戻ろうとすると、廊下の開け放たれた窓から入り込んだ風が、向こうからやって来て肌を撫でて行った。その風と、私の歩く振動で揺れた袖が、手首に擦れてじわりと痛む。死にかけの私は、あの歌のようにかなしい美しさを持った気分に浸っていた。それでも手首を切った時ほどの激しい自傷衝動は無かったから、クスリが効いているのだろう。
「ねえ」
教室に戻ると、私が戻ってきたのを見つけて、海はへらへらと笑いながら、昼休みの喧噪に紛れて言った。
「あれ、かわいそうだと思う?」
海の視線の先には南くんがいた。彼は教室のすみで小さくなって、一人周囲の輪に入れないで文庫本に意識を向けていた。周囲に意識が行くことを恐れるように、周囲の意識が自分に向くことを恐れるように。
その姿は完全に、騒がしく馬鹿らしい平穏から孤立していた。と、言うよりも平穏からはじき出されていた
「仕方ないよ。きれいじゃないもん」
私は隠すことをしなかった。きれい事で隠すことをしなかった。だってそんなの偽善だもの。だから私は率直に言った。彼の髪はいつもぼさぼさだし、目は斜視が入っていて眼鏡を外すと時々どこを見ているのか分からないことがある。身長は高くは無いし、筋肉は異常とも言えるほど無くて痩せていてみすぼらしかった。
あれが美しいはずは無い。「そんな人でも精一杯生きている」「お前は恵まれてるのに、そんなことを言うな」って言われそうだけど、美しくなければ生きられないのは、この世界の真実。精神的にも外面的にも、美を求めるのはお前らの創った世界じゃないか。だから私だって生きられないんじゃないか。私は勝手な言い分だと分かっていながら、そう思わずには居られなかった。
「美しくなければ生きていられないってやつ?」
「うん」
「じゃあ、あれは?」
そう言うと、海は教室から出て行った。それについて行くと、二つ隣の四組の教室の前で歩みは止まった。教室の前の廊下では男子たちが取っ組み合ってふざけ合っている。
「これのこと?」
「違う。あっち」
海の指さす方を見ると、四組の女子がグループが楽しそうにはしゃいでいた。その中にはサキがいた。私が海と出会う前まで私と仲の良かったサキが。
彼女は私なんかと違って、頭が良くて、身長も高くて、学年で一番綺麗だった。
そして、いじめられていた。
一見して仲の良さそうなあのグループだけど、物が無くなったり、家に帰って携帯を手に取れば、誹謗中傷のメールが嵐のように送られてくることを、私は聞かされていた。そして、私が海と仲良くなると、次第に彼女は私を避けるようになって行った。
「ごめんね。もうみっちゃんと一緒にいられないの」それが、彼女との最後のメールだった。
「サキがどうかしたの?」
「あれはどう思うかなって」
私はサキを美しいと思う。誰にも負けない顔立ちを持って、はかなげな笑みを浮かべて、不幸を背負っている。不幸は彼女を一層輝かせる。サキには悪いと思うけれど、今の彼女が私にとっては最高に美しいと思う。
「きれいだと思うよ」
私がそう答えると、海は「そうか?」と言ってにやりと笑った。
「あたしにはそうは思えないんだけど」
「なんで?」
「南がきれいじゃないなら、あいつもきれいじゃないからさ」
「どうして?」
「お前は質問ばっかりだな。そんなんだから、自分の見方だけで物を言う。だから悪い方にばかり考える」海はそう言いつつも、答えてくれた。
「いじめられてるのは、あたしも知ってる。でも、いじめられてるのは見方によっちゃあ美しく無い。本当に美しいものは、そんなもの受け付けないくらい美しいと思わないか? そんな汚れもないくらい美しいはずじゃないのかよ」
「それは・・・・・・」
私はどう答えていいか分からなかった。海の言っていることは、たぶん間違っていない。
「不幸が美しいって言うんなら、南が美しさを持てなかったことも不幸じゃないのかよ」
「でもそれは・・・・・・」という反論が私の口から出かかったけれど、どこかに海の言うことを認めている自分がいて、そのみじめな反論は霧のように消え去って行ってしまった。私は何も言えなくなって、立ち尽くした。自分が今まで抱いてきた思想が、失われたことに、悔しいような虚しいような感情が私という器を満たして、体中が火照るように熱くなって来た。涙の波が涙腺の奥で波打っていた。
「少し歩こう」
立ち尽くす私を見ていた海は私の手をとって歩き出した。
下駄箱の近くの置き傘置き場に来ると、海はティッシュとビニール袋を取り出した。それから、あのクスリを取り出して袋に入れると、誰の物か分からない傘の柄でクスリを粉々に砕いた。その白い粉をティッシュの上に盛ると、
「吸い込んで」
と言った。それは映画で見るような、麻薬の摂取の仕方のように思えて、拒絶したけれど、海は「大丈夫」と言って、少し白い粉を鼻から吸い込んで見せた。私も恐る恐る彼女の真似をして吸い込むと、鼻の粘膜に激しい痛みが走って、プールで鼻に水が入った時のような感覚に襲われた。
「これ、何の意味があるの?」
と尋ねると、海は、
「普通に飲むより吸収されやすいらしいよ」
と答えて、さっきの手順を慣れた手つきで繰り返した。その後、自分も粉になったクスリを吸い込んだ。そして海はポケットから干からびた草のような物を取り出すと、その切れ端を私に差し出した。私は海がそうするように、それを口の中へ入れて噛み砕いた。そしてそれを飲み込む。
飲み込んだ後で、
「これ何?」
と聞くと
「マジックマッシュルーム。魔法のきのこ」
と直訳した。
しばらくすると、クスリときのこの効果が目に見えて現れて来た。楽しくって仕方が無い。地面が揺らぐ。立って居られない。体中がとろけて、自分が何に触れているのかも分からなくなった。箸が転がっただけで笑う子供のように、何もかもが可笑しくなった。「ぎゃはははは」と二人して笑う。
「泳ごう!」
と言って、海はその場でうつぶせになると、手足をじたばたとさせた。でも頭に体がついて行っていなくって、陸に打ち上げられた魚が飛び跳ねるように、無様にもがいているだけだった。
「泳ごう!」
それを見ていた私は「ぎゃひひ」と笑って、海と同じようにもがいた。その内に完全に体が液体になってきて、動けなくなった。それでも笑いは収まらなかった。お腹が痛いのに、一向に笑いは収まらなかった。
「私さ、分かったよ」
私は笑い転げながら言った。
「なにが?」
「美しいものとそうじゃないもの」
海も笑いながら「それで?」と聞いた。
「私の求める美しさっていうのは、精神の美しさと外面的美しさの両立だと思う。サキは両立しているけど、南くんはそれができない。そして私の外面は南くん程じゃないけど、美しくないから両立できない。だから自分の不幸に満足するんだ」
海はまた何か言うのだろうかと、思ったけれど「そっか」と、一言つぶやいて、狂った笑いの収まってきた顔に、本来の笑みを映した。彼女がそれ以上何も言わないでいてくれたことにほっとしたけれど、狂気の渦の中で、本当はそれがいいわけだと自覚していた。私の世界に対する嫌悪は、結局ひとりよがりで自分勝手なものでしかなく、周囲と同調できないことへの慰めといいわけが欲しかっただけなのだろう。それでも今の私は、その自覚を受け入れるだけの、覚悟が無かった。私や先輩の思想は矛盾している。どうせ主観でしかない。私は「美しく無ければ生きていられない」と言いつつ美しいものを主観で選んでいる。先輩は「無意識の内に人を傷つけることが恐ろしい」って言いながらたばこを店からちょろまかして、海が居るのに私と寝たりする。傷つきながら生きているのが自分だけじゃないことも分かってる。それでも私には、この不幸が耐えられなかった。
だから、「美しいもの」を否定された私に残されたのは、狂い咲く花のように身勝手な理想だけ。その理想は、私の存在が詩であること、夢であること、子供であること、純粋であることをまだ望んでいた。
「あたしはさ、もう諦めたよ。世界と自分が違うことに」
「そうなんだ」
突然の海の告白に、私は曖昧な返事をした。
「だから、全てどうでもいいんだよ。学校とか、どう生きるかとか。ただそうなるように生きるだけ。やりたいようにやる。あんたの言いたいことも分かった上でそう考えるとさ、全てが愛おしく思えるんだよ」
この日々を乗り越えた先に、全てが愛おしく思えるなんて日が私にも来るんだろうか。海の話を聞きながら、そんなことを思った。数秒ほどの時間が無意味に消費された後、海が再び口を開いた。
「また、どっか遊びに行こうぜ?」
「うん」
「あたしが一緒に居るんだから、大丈夫だよ」
今日の海はなんだか優しいな。なぜだろう。そんなことを思いながら、私は頷いて見せた。
「戻ろう」
私がそう言うと、海は「ああ」と言って立ち上がった。それから私達は、よろめきながら教室への廊下を、笑いながら歩き出した。
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