終点の海
延暦寺
人生のゴール
あっと思った時にはもう遅かった。扉は無情にも閉じ、慌てて立ち上がった私はすごすごと席に戻った。転寝の余韻がまだぷかぷか浮かんでいた。
通勤電車から降り損ねてしまったのである。あんまり眠くてうとうとしているうちに、いつもの駅を通り過ぎてしまったらしい。
もう一度座り込んだ私は、どうしようかと焦っていたが、そのうちなにもかもどうでもいいような事のような気がしてきた。会社にかけようとしていた電話も切って、電源も落とした。電車は次の駅で止まったけれど、そこでも降りなかった。
終点まで行こうと思った。毎日毎日この電車に乗っているのに、一度として終点まで行ったことはなかった。大学を出て、就職のために上京してきて7年。まともに休んだことがなかった。社会人として失格だとしても、小さな冒険の予感に心が抗えない。所持金は2000円。少し心もとない額だけど、定期券はICカードと一緒になっているもので、交通費の方は心配ない。どんな所だろうか。本当に久々に、心が弾んでいた。
摩天楼の立ち並ぶ都心を抜けて、電車は下町をひた走った。くたびれたようでありながら、都心よりもずっと元気があるように見えた。よく日焼けのした50過ぎのおっちゃん。例えるならそんな感じ。
どんどん乗客は減っていった。始発電車だからもとより立っている人は少ないが、いつの間にか空席の方が目立つまでになっていた。下りだからだろう。すれ違う電車は人でごった返していた。あの喧騒に戻らなくていいことを考えると心が楽になった。
4時間ほど揺られて、たくさんの駅に止まって、電車はついに終点にたどり着いた。
海が見えた。
いつぶりだろう。故郷はどちらかというと山の方で、最後に家族と海水浴に行ったのも私がまだ中学生の時だ。すると、15年くらい前のことになる。
電車を降りると、どこか懐かしい潮の香りが鼻腔を満たした。港町だなあと思う。太陽はまだ視界の隅に残っている。
さびれた町だ。ボロボロの家がいくつもあって、人通りも少なかった。都会に吸収されてしまったのだ。昔の活気がしのばれた。都会が化け物のように思えてきた。
しばらく歩いて、砂浜まで来た。静かに右足を下すと、サクッという感触とともに靴が地面に沈んだ。左足、右足。左足、右足。楽しくなってきて、私は靴を脱いだ。靴下も脱いだ。温かい。朝の9時なのに、もう砂はぬるくなっていた。小石を踏まないように歩いていくと、いつの間にか波打ち際まで来ていた。構わず進む。
海の水はまだ冷たかった。足首まで漬かると体がきゅっと縮む。海藻が足の甲に巻き付いた。ひゃっと叫んで、慌てて戻った。ぬるっとした感触がまだ残っている。
幾分はしゃぎすぎたようだった。荒くなった息を整えて、再び海と対峙した。何かがこみあげてくるようで、じっと海面に映る朝日を見つめているうちに、その正体に気づいた。
この海を、描きたい。
小さいころから絵を描くのが好きだった。小学校の時からポスターを作る時なんかに抜擢されるのは私だった。絵を描くことにかけては、私はだれにも負けないと自信を持っていたし、実際その通りだった。
足を乾かして、砂に苦戦しつつもよく拭いた後、近くの商店でスケッチブックと小さな12色入りの色鉛筆を買った。持っていたお金はほとんど吹っ飛んだ。。
防波堤の下に座った。体育座りをして膝にスケッチブックを乗せた。構図はもう決まっていた。10年のブランクは大きくて、最初はぎこちなかった手も、だんだん滑らかに踊り始めた。空の青はこうやって出すのだ、海の群青はこうやって出すのだ。私は夢中で手を動かし続けた。時間はたっぷりあった。
日が頭上を越えて、背後で赤く染まったころ、私は一枚の絵を描き上げた。単純な、海と太陽だけの構図。出来映えはまあまあといった感じだったが、心は満たされていた。そのまま砂浜に寝転ぶ。全身が潮に溶けてしまいそうだ。それでも構わないような気分だ。
現実を見ろと言われた。大学3回生の時、父に。絵を描いて生きていけるわけがない、そんなことが出来るのは一握りの天才だけだ。
お前は違う。
もう、描いた絵を見せるたびに頭をなでてくれた父の面影は、そこにはなかった。私は素直に現実を見た。就活をまじめにして、中堅の広告代理店に入って、望んでいた部署に入れなくて、このざまだ。私の人生のゴールはどこにも見当たらくて、周りはもう暗い。あの時真っ向から対立する勇気があれば、何か変わったのだろうか。そんな問いはけだるげな潮風に流された。海は大きかった。
スーツはすっかり砂にまみれて、帰る時みっともないだろうなあ、なんて考えている自分がいて、おかしくなって笑った。
なんだ、それでも帰りたいんじゃん。
ぞんざいな言葉が口からこぼれた。さっきまでの自分が馬鹿らしくなって、起き上がった。久々に絵を描けたのは楽しかったけど、あんなに下手になっていたのは驚きだった。悔しかった。
やっと踏ん切りがついたのだ。あんな会社、辞めてやる。絵を描くのだ。描きたいのだ。30手前になって、ようやく気付いた。好きなことを封印したところで、隙を見つけて這い出てきてしまう。結局何もうまくいかないのだ。
貯金はなんとか半年暮らせる分はある。もう少し向こう見ずに生きてみてもいいだろう。
いまだ人生のゴールは見えない。でも、方向性は決まった。あとは歩き出すだけだ。
夕日の港町を、一歩一歩踏みしめながら歩いた。駅に向かってまっすぐ歩きながら私は、夜ご飯を何にしようかと真剣に悩んでいた。
終点の海 延暦寺 @ennryakuzi
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