どうぞよろしく

lager

お題「ゴール」

『どうぞよろしく』


 そんなセリフを最後に書いて、私はワードの上書き保存をクリックした。

 その僅か一秒の動作が、私が切ったゴールテープだった。

 深く深く、息を吐く。

 眼鏡を外して、天井を仰いだ。


 ようやく書き終わった。

 都合5万字ほどの小説にようやっと終止符をつけた私は、達成感と疲労感にしばし放心していた。まだ頭の中をぐるぐると登場人物たちが動き回っている感覚がする。

 これでよかっただろうか。話に矛盾はなかっただろうか。回収し忘れた伏線は?

 やっと終わったと思っても、小説というのは、残念ながら書いて終わりというわけにはいかない。見直しに校正に編集、投稿の予約。この後やらなければならないことを順番に思い浮かべながらも、私はやはり、全身を満たす疲労感にしばしぼんやりと浸かっていた。


 ずっと書こう書こうと思っていた小説だった。

 今でこそ専らWEBサイトへの投稿という形で小説を書いてはいるが、多くの人がそうであるように、私も最初は紙に小説を書いていた。

 学生時代、ぽつぽつと下手くそな小説を書いては公募に投げつけ、箸にも棒にも掛からずに一々へこんでいたことを思えば、今は気軽に投稿しては一定数の人たちに読んでもらえるうえ、感想までもらえる。まったく、いい時代になったものだ。


 今回書いたのは、そんな学生時代に、話を思いついて書き出してみたのはいいものの、出だしと最後だけはイメージできるのにその繋ぎがどうしても思いつかず、そのまま執筆を断念していた小説だった。


 真夏の夜の夢。

 罪を背負った少年と、たまたま行き会った死神の少女の物語。


 社会人になり、仕事の合間に小説の投稿を続けるうち、そろそろあの物語にもう一度チャレンジしてみようかという気になった。

 WEB媒体での執筆にも大分慣れてきたし、そこそこ数もこなしてきた。今の私ならば一通りのストーリーを繋げ、お話を完成させられるのではないかと、根拠のない自信を持って書き始めてみたはいいものの、やはりそう上手くはいかなかった。


 書き始めた段階から、なんとなく今後執筆に煮詰まりそうな嫌な予感がしていた私は、全話書き終わってから投稿し始めようと計画というほどでもない計画を立てたのだが、あの時の自分の判断を褒めてやりたい。

 夏に書き始め、今はもう12月。

 小説の舞台は夏休みなのに、現実時間はもう年末である。


 やれやれ。公開まで半年待つべきだろうか。

 いや、そんなことをしていたら手直しが止まらなくなって結局大半を書き直す羽目になってしまう。ここは潔く明日から投稿を始めよう。


 気持ちを切り替え、今日の執筆分をWEBサイトの執筆フォームにコピーし、細かい調整をしながら、私はちょうど一年前にもこうやって長編の執筆を終わらせたことを思い出していた。

 聖騎士の少女と吸血鬼の少年の物語。ウケを狙って後から異世界転生要素を付け加えたせいで設定が膨らみ、それに伴ってお話もどんどん膨れていった。

 結局、実に2年近くをかけて書き上げた大作となってしまったのだった。

 流石にその後しばらくは何も書く気がおきず、だらだらと投稿分を見直したり積読を消化したりしていたのだが、こうしてまた同じように小説を書き終えていることを思うと、つくづく小説を書くということに終わりはないのだということを実感する。



 ふと、脈絡のないことを思いだした。

 先日、職場の上司にこんなことを聞かれたのだ。

「ねえ、包丁ってあるじゃない。あれ、なんで包丁って言うか知ってる?」

 私は正直言って困惑した。

 おそらく彼はここ最近仕入れた雑学を若造に披露したいのだろう。

 だが、残念ながらその知識、私の学生時代の専門分野だったのだ。

 マナー通りに知らないふりをしてヨイショしてやってもいいが、それでは流石に高い学費を払ってくれた両親と、モラトリアムを満喫する私にきちんと授業をしてくれた教授に申し訳ない。


「ええっと、すいません。知ってます。『荘子』ですよね。『養生主篇』」


 話をざっくり説明するとこうだ。

 昔昔、宮廷に大層腕のいい料理人がいたのだという。

 庖丁さんという名前で出てくるのだが、ここでいう庖とは料理人を指す言葉だそうで、つまりは丁さんだ。

 彼はある日、王様の前で牛を料理した。


 パフォーマンスも兼ねてのことだったのだろう。きっとマグロの解体ショーのようなノリだったに違いない。

 彼が料理用の刀を振るうたびにスッパスッパと牛が解体されていくのを見て、王様はいたく感激された。

「やあやあ。職人の技っちゅうもんは見ていて気持ち良いもんだねえ」

 それを聞いた丁さんは刀を置いて、あろうことか王様に意見したのだ。

「いやいや。俺っちが使うのは『技』じゃあござんせん。これは『道』でござんす」


 なんでも、牛を解体するのにもきちんと筋道があって、きちんとそれに沿って刀を動かせば大した力も要らずに肉を断つことができるのだとか。

 この道を修めた自分の刀は何頭となく牛をバラしても刀身が痛まず、まるで今さっき研ぎあげたばかりみたいにピカピカなんです、なんてドヤ顔で丁さんは語ったが、まあこれは流石に眉唾だろう。いや、血脂がついたら刃は痛むだろ。


 それでも王様は度量の深いところを見せて、丁さんを褒めて遣わした。

善哉よきかな

 それが養生――まことの生き方なのだ、と。


 まあ、要は困難にぶつかるたびにあくせく立ち向かうんじゃなくて、自然の流れに従ってのびのび生きましょうよ、とその程度の理解で私はいたのだが、これ以上語ると道学の研究者に怒られそうなのでやめておこう。


 なぜこんな話を思い出したのかと言えば、では小説を書く道とはなんだろう、と、ふと気になったからだった。

 道というからには、きっとそれはどこかに繋がっているのだ。

 短編でも、長編でも、お話を一本書けば、そのお話はそこで終わる。

 けれど、私たちはまた別のお話を書き始める。

 とぎれとぎれで、うねうねと曲がりくねり、それでも、決して終わらない道。


 この道は、どこに繋がっているのだろう。

 書いて、悩んで、書いては消して、悩んで書き直して、また書いて。


 一体、世の物書きの何人が、会心の一作なんてものを書きあげられるのだろう。

 どれだけ言葉を尽くしても伝わらない思い。どんな言葉にも収まりきらない感情。

 もっと良い伝え方はなかっただろうか。もっと上手い見せ方はなかっただろうか。

 話全体のバランスは? 中弛みはしてないか?

 ああ、こんな話を思いついてしまった。

 あんな話を書いてみたいな。

 

 それは私の内に湧く泉のように、汲めども汲めども尽きない衝動。 

 分かってる。

 この道に、きっとゴールなんてものはない。

 あるとすれば、道の半ばで倒れる私の躯だけだ。


 私はこれからも、小説を書き続ける。

 

 それは例えば、自由を欲して巣箱を壊した蚕の物語。

 亡き友の影を追って空を走り抜ける男の物語。

 一人山に登り、ありし日を懐かしむ女の物語。

 冬ごもりの家の中で起こる奇妙な怪談話。

 機械に弱い退魔師の少女と、彼女に調伏された怪異の物語。

 小説に現実が侵食されるホラーストーリー。

 その昔に確かに存在した、一人の相撲取りの物語。

 薄汚い小悪党が最期に残した物語。

 初めてのソロライブに緊張するアイドルの自分語り。


 そんな、なんの意味もない、なんのためにも役にも立たない、下らなくて、ちっぽけで、それでも、確かに私が紡ぐ物語。

 

 私はきっと、書き続ける。


 だから、私の小説を読んでくれる皆様へ一言。


 今後とも、どうぞよろしく。

 

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