第十三話 卒業式

 翌日、お土産を持ってファミレスへ。みんなに配り、チケットをくれた同僚にもマグカップを渡した。

「本当に有難う。楽しかったし、娘も喜んでくれた。お陰様よ」

 そうお礼を言うと

「良かったね、そう言って貰えると私も嬉しいわ」

 と笑顔で答えてくれた。ああこんな親切な人を振るなんて、この人の元彼氏はどうかしている。心底そう思った。だがお陰で私と祝子はディズニーランドを堪能出来た。食事代とお土産代だけで楽しめて本当に助かった。

 十歳下で、二度の離婚歴があり、しょっちゅう彼氏を変えるその同僚とは、それを機に本当に仲良くなれた。その彼女は、ほんの少し、母に似ていた。


 四年生になったある日、娘が言った。

「自分の部屋が欲しい」

 一DKの我がアパートに、そんな余裕はない。

「うん、うちは狭いからね。ただ、狭いからこそ物を増やさないとか、置き場所の工夫もするし、三人が寄り添って生きられるんだよ」

 と答える。娘がふくれながら言う。

「友達はみんな自分の部屋を持っているよ。寝る時はベッドだし」

「ベッドで寝たら祝子は落ちて怪我するかも知れないよ。つまり今の状態がいちばん良いんだよ」

「みんなはクロゼットも箪笥も持っているよ」

 祝子が羨ましそうに言う。

「うちは押し入れの上の段に突っ張り棒をしてクロゼット代わりにしているでしょう。襖を開ければ上はクロゼット、下は布団をしまうスペースと、プラスチックケースの箪笥が現れるんだから良いんだよ」

「友達はみんな勉強机も買ってもらっているよ」

「うちは食卓が勉強机なんだよ。部屋が狭くならないから良いでしょう」

「自分だけの空間が欲しい」

「おばあちゃんとママが仕事に行っている間は、ここ全体が祝子ひとりの空間だから良いんだよ」

 祝子がふくれながら言った。

「ときこは、大きい家を建てる」

「あ、それ良いね。是非そうしよう」


 五年生になったある日、祝子が事故に遭った。青信号を自転車で渡っていて、右折してきたタクシーにぶつけられたのだ。

 幸いタクシーもスピードは出ておらず、祝子も軽症で、後遺症もなく、本当に運が良かった。事故に遭い、軽症で済むというのは、母も同じだ。良い所を似てくれたものだ。

 そしてその時の祝子の言葉に驚いた。

「あの人、大丈夫かなあ、お給料減らされたりしないかなあ」

 祝子は自分の事より、加害者の心配をしていたのだ。

 私は謝罪に来たその運転手と上司にこう言った。

「娘は大丈夫です。これは気を付けなさいと言う神様からの警告です。この警告を無視しなければ、これ以上大きな警告は絶対に与えられません。何かあれば私が病院へ連れて行きます。だからどうかこの人がこれからも気持ち良く働けるよう、色々やってあげて下さい」

 神がかりな事を言う母親だと思われたかも知れない。恐縮するその運転手と上司に私はこう言った。

「娘はこう申しておりました。あの人大丈夫かなあ、お給料減らされたりしないかなあ。原文通りです。私に似ず、優しくて思いやりの深い子に育ってくれました。早くブレーキを踏んでくれて有難うございました」

 そう、それが私の本心だ。すぐブレーキを踏んでくれて有難う。娘を軽症で済ませてくれて有難う。ひとり娘を生かしてくれて、心から有難う。


 六年生になったある日、祝子が好きなアーチストのコンサートに行きたいと言い出した。いつもそのアーチストをテレビで熱心に見ており、行きたい気持ちは分かる。だがチケットが七千円もするという。二人分で一万四千円だ。私の何時間分の労働の対価だろう。まさか同僚もそのチケットは持っていまい。

「行きたいよう。ママ連れて行ってよう」

 そうせがむ祝子。いつもぎりぎりの生活をしているのを分かっており、そんなにわがままは言わない方だろう。だが一万四千円は三人で一週間分の食費に匹敵する。悩んでいるとこう言った。

「会場が小田原なの。遠いし、ひとりで行けないよう」

 それを聞いた瞬間、私の中で何かが動いた。そうだ、忘れていた。私はかつて小田原で二十年も暮らしたのだ。久しぶりに行ってみたい、そう思った。

「分かった、行こう」

 そう答える。大喜びする娘。早速チケットを手配する。一万四千円と往復の交通費、この出費は痛いけれど、子どもからの誘いはなるべく断らない方が良いという信念を貫く。この子は私を信頼して誘ってくれているんだ。

 当日、早起きして小田原へ向かう。車窓から見える景色に心を奪われる。ああこの看板覚えている。ああこの駅、覚えている。

 コンサート会場は若い子ばかりで私の年代はいなかった。始まる前から熱気が凄く、私は熱くてたまらない。

 いよいよオープニング。イントロと共に総立ちする観客たち。娘もはしゃいでぴょんぴょん跳ねながら歌い踊っている。

 よく疲れないな。私は座ったままずっと観ていた。とてもじゃないが私は立っていられない。こういう時に、ひしひしと年齢を感じる。周りは若い子ばかりで引け目を感じる。なあに?このおばさんって思われているんじゃないか。

 さっきから何となく誰かの視線を感じるけど、気のせいかな。若い子におばさんが混ざっているから珍しくて見ているのかも。あははは。おばさんが観に来ていて悪かったね。ほっといてよ、ふんっ。

 二時間のステージが終わる。満足そうな顔で帰り始める観客たち。祝子も嬉しそうにしている。

「ママ、今日は有難う」

 そう言ってくれた。どういたしまして。今日があなたの素敵な思い出になるなら良いよ。

「ママ、何か食べたいよ」

 これ以上お金を使わせる気か?と思ったが、坂戸まで我慢させるのは気の毒な気もした。そこで近くのレストランに入る。好きなものを選ぶ祝子。勤め先で好きなものを嬉しそうに選ぶお客さんを思い出す。

「おいしい?」

 と聞いたら、

「うん!」

 と即答する。

「ママの料理とどっちがおいしい?」

 と聞くと

「ママの料理」

 と、それも即答してくれた。お世辞か?今日、はるばる小田原まで来た御礼か?どっちでもいいや。

「実はママ、昔この辺に住んでいたの」

「え?そうなの?」

「うん、勤めていた会社が近くにあるんだけど、寄ってみてもいい?」

「いいよ。わあ、ママが働いていた会社ってどんな所だろう」

 と、はしゃぐ娘。

 ちらりと鴨宮のアパートにも行ってみたい気もしたが、それより会社へ行きたかった。


 十三年振りに画材の会社へ行ってみた。ウキウキと付いて来る娘。

 会社は変わらずそこにあった。嬉しかった。江里子組の看板がなかったのを見た時はさびしかったから。

「あれ、山路さんじゃない?」

 と、声がする。見ると社長が立っている。どこかへ行った帰りらしい。

「社長、お久しぶりです」

 と挨拶すると

「ああやっぱり山路さん、まあ元気そうで良かった。あれ?こちらのお嬢さんは?」

「娘です」

 祝子がぺこりと挨拶する。

「こんにちは」

 社長がびっくりしている。

「えっ?山路さん結婚したの?」

「いえ、独身です」

「そうなの?あれ、いつの間に」

「実は辞める頃、この子を宿していました」

「そうだったの?まあびっくり。言ってくれれば良かったのに。もっといたわったのに」

 そう聞いて意外な気がする。私は憐れまれるのが嫌で、妊娠した事を言わなかったのだ。

「おいでよ、山路さんの顔を見たらみんな喜ぶから」

 社長が扉を押す。

「みんな、山路さんよ」

 その声に社員のみんなが集まって来てくれた。

「山路さん、山路さん」

 藤沼さんが真っ先に駆け寄ってくれた。左胸には売り場責任者という名札が光っている。

「まあ山路さん、懐かしい」

 昔、私に山路さんって趣味なんてあるんですか?と聞いた若かった子が、すっかりいいお母さんになっている。

「娘さん、山路さんにそっくりですね」

 あの頃、この会社地味だから転職しようかなと言っていた女の子が、主任という名札をつけて微笑んでいる。

「山路さん、あの頃はお世話になりました」

 山路さんってクリスマスもひとりで過ごすんですか?と聞いてきた、新入社員だった男性が係長という名札と、結婚指輪をしている。 

「山路さん、辞める頃この娘さん宿していたんだって、全然気が付かなかったよね?」

 と社長が言う。

「え?そうだったんですか?言ってくれれば良かったのに」

「そうですよ、言ってくれれば良かったのに、みんなでお祝いしたのに」

「そうですよ、私たちもっといたわって大事にしましたよ。そういう良い話ならいくらでも聞きたいですよ」

 口々に言うみんな。嘘やお世辞で言っている感じではない。

「もう山路さん、どうしてそんな素敵な話をしてくれなかったんですか?」

 と、藤沼さんが言う。

 ああそうだったの?こっちがびっくりだよ。軽蔑されるかと、気の毒がられるかと思っていたけど、それは大きな間違いだったんだ。

「いずれにしても良かった。山路さん無事に出産出来た上、娘さんをちゃんと育てられたんだから」

 安心したように頷くみんなの笑顔が本当に嬉しかった。

「名前、何ていうの?」

 昔、クリスマスの夜に仕事の用で家に電話をかけてきて、山路さんイブなのにひとりなの?と言った元上司が、娘にたずねる。

「山路祝子です」

 娘が答える。

「ときこちゃんね、お母さんにそっくり」

「本当だね、山路さんにそっくり」

「山路さん、結婚したの?」

「いいえ、独身です」

「そうだったんだ。それでも山路さんが幸せなら良いよ、ねえみんな?」

 みんなが笑顔で何度も頷く。有り難くてたまらない。

 そうだ、私はこの会社に救われたんだ。この会社のお陰で人生を立て直せたのだ。

「今日、近くに来たので寄ってしまいました」

 そう言うと、みんなが異口同音に

「そういうの、本当に嬉しいよ」

 と言ってくれた。

「山路さん、こうして辞めた会社に来るって事は幸せって事なんですね」

 とも言ってくれた。画廊の社長にもまったく同じ事を言われた。

「お陰様で今いちばん幸せです」

 そう即答出来た。それが私の本心だ。この会社で働けて良かったし、辞めて良かったし、今の人生で本当に良かった。

「山路さん、今仕事は何しているの?」

「ファミレスの厨房で働いています」

「あ、そうなんだ」

 まったく別の道を歩いている。それでもあなたが幸せなら良い、そう言いたげなみんなの顔が仏様のように見える。

「お仕事中に済みませんでした。皆さん、どうぞお元気で」

 心を込めて挨拶をする。みんなが名残惜しげに頷く。

「山路さんも元気で」

「祝子ちゃん、またね」

「祝子ちゃん、大人になったらうちの会社で働けば良いよ」

「コネ入社だね」

「山路さんの娘さんなら勿論採用だよ」

 みんなが笑顔で見送ってくれる。会社を出て駅へ向かう。何度振り返っても、みんなまだ会社の中へ入ろうとせずに私たちを見送ってくれている。

「ママ、まだ手を振っているよ」

 祝子が言う。角を曲がる前にもう一度振り返って手を振る。みんなが笑顔で手を振り続けてくれている。藤沼さんがひときわ大きく手を振ってくれた。

 ああこんな幸せがあったのか。

「ママ、みんなに好かれているんだね」

 嬉しそうに言う祝子。

 ふと昔、派遣先の上司に

「山路さん、うちの会社のみんなに、すっかり嫌われちゃったね」

 と言われた苦い思い出がよぎる。あの経験があるからこそ感じられる幸せだ。

「ママもみんなの事、好きでしょ?」

「勿論大好きだよ」

 そう即答出来る事を有難く思う。あなたが好きなアーチストのコンサートに行きたいと言ってくれたお陰で、昔のみんなに会えたよ。あなたのお陰で大きな幸せを実感出来たよ。今日使ったお金はその幸せ料として喜んで払うよ。

 今日は、私こそ有難う。


 そう言えば、私が小田原へ逃げた理由のひとつに、埼玉と反対方向へ行った方が良いと思ったというのがある。万一、健さんや咲さんが私を追いかけてきた時、母に危害が及ばないよう、無意識のうちに庇おうとしていたのだ。私を放置した母を…。

 後は、神奈川県という、都会ではないが、田舎過ぎない場所を望んだ事もある。坂戸という田舎が嫌で都心へ出てきたのに、また田舎へ行くのは嫌だった。

 だが咲さんは山梨に居たのだ。小田原のずっと先の山梨に。

 お互い都心の住まいや、銀座の高級クラブ、高い年収を捨て、地方に行く事で新しい人生を始め、幸せになれたのだから良かったが、お互いを敵対視しながら、同じ選択をするというのは、やはり友達としてぎりぎり気が合っていたのかという気もする。

 小田原という場所は、またしても私に大きな幸せをもたらしてくれ、第二の故郷になってくれた。


 家事を終え、椅子に座ってテレビを付ける。祝子が黙って私の膝に乗ってそのままテレビを見ている。

  …私より大きいもんねえ。とっても重いよ。だけど親の膝に乗るなんて、子どものうちしか出来ない事だもんね。良いよ、そのまま乗っかっていなさいな。


 私は祝子の前で母を

「おばあちゃん」

 と呼んでいた。どこの家庭でもいちばん小さい子に合わせて人を呼ぶが、そう言えば昔から

「お母さん」

 と呼んだ事がなかった気がする。

 三人で夕飯を食べている時に祝子の小学校の卒業式の話になり、思わず

「お母さんも卒業式、出る?」

 と聞いた所、母がしばらく茫然として、それから嬉しそうに

「行く」

 と答えた。

 そのやり取りを聞いていた娘も、何となく嬉しそうにしていた。

 そしてその日から私をママ、ではなく

「お母さん」

 と呼ぶようになった。本当に、子どもは親の真似をする。


 無意識だったが、私は歯磨きをする時に空いている手を壁につける癖があった。そう言えば、母が同じように歯磨きする際にいつも空いた手を壁につけていた。ふと気が付くと、祝子も歯磨きをする時に必ず空いた手を壁につけている。

 本当に、子どもは親の真似をする。三代続いて今日も壁に手をついて歯磨きだ。

 

 卒業式の為、祝子に新しい洋服を買う。私は自分の小学校の卒業式に普段着で出たものだ。娘にそんな惨めな思いをさせるものか。アイドルグループの女の子のような洋服を選ぶ祝子。

「これがいい」

「分かった」

 そう言って会計を済ませる。本当はもっと清楚な格好をして欲しいが、娘の選択を否定しない。丸ごと受け入れる。


 卒業式当日、母はごく普通のスーツで出席してくれた。私の小学校の入学式では、露出の多い派手な格好で出席して恥ずかしかった事を思い出す。卒業式には来てくれなかった。中学校の入学式にも、卒業式にも、高校の入学式にも。

 授与式が始まる。名前をひとりひとり呼ばれる卒業生たち。キラキラネームがやはり多い。中村プリンスだの、橋本ミラクルだの、小川アダムだの、木村キャンディだの…。

「山路祝子さん」

「はい」

 新しい洋服を纏った祝子が返事をして台に上がる階段の途中でこちらを向く。母と私は夢中になって写真を撮る。

 卒業証書を受け取った娘がにこやかに階段を降りている。

 ああこの子を産んで良かった、何度目かの確信を得る。

 誇らしげな娘が胸を張って歩いている。

 祝子が、そして自分の人生が、たまらなく愛おしくなる。


 

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