第十二話 先生
食事中、祝子が茶碗を落として割った。怒られると思ったのか
「ごめんなさい」
と俯いて済まなそうに言う娘。
「怪我しなかった?」
と、私は祝子の手足を見て一切叱らなかった。祝子は私を見てこう言った。
「ママ、怒らないの?」
「お茶碗なんてどうだっていいよ。祝子が怪我しなければ。今度から気をつけてね」
そう言った私に祝子がぱあっと顔を輝かせてくれた。
「ときこ、ママ大好き」
「ママも祝子が大好きだよ」
「ギュウってして」
小さな娘をギュッと抱きしめながら、ある事を思い出していた。
カメラマンの彼と同棲していた頃、食事中に彼が誤って茶碗を落として割ってしまった事がある。私は取るに足らない事と思い
「怪我しなかった?」
と尋ねた所、彼が急に涙をぼろぼろこぼして泣き出したのだ。
「ごめんね、ごめんね」
そう言い続け、泣き崩れる彼。びっくりして
「お茶碗なんてどうだっていいよ、あなたが怪我しなければ。今度から気をつけてくれれば本当に良いんだよ」
と言ったが、彼はなかなか泣き止まなかった。
…しばらくして話してくれたのだが、彼が幼い頃、食事中に誤って茶碗を落として割った事が何度かあったそうだ。その都度、彼のお母さんが取り付くしまもないほど怒り、彼を家から追い出してしばらく入れてくれなかったり、激しい体罰をしたり、罵詈雑言を浴びせたりした上、三回目からは許してくれず、使い捨ての紙コップや紙皿、割り箸を使わされるようになったと、本当に怖くてつらい惨めな経験をしたと、涙ながらに話してくれた。彼のお父さんも庇ってくれず、
「お前が悪い。お前が悪い」
と言い続け、お兄さんやお姉さんにも知らん顔をされた。家族みんなが陶器のお皿で食事をする中、彼だけは中学生になっても高校生になっても使い捨ての皿や割り箸を使わされ続けた。彼は写真の専門学校を卒業してからひとり暮らしを始めたが、それからでさえどうしても陶器の皿を使う気になれず、台所用品は一切買わず、出来合いの弁当を食べ続け、使い捨てで済む生活をし続けた。
そう言えば一緒に食事をする時、テーブルに並んだ料理を見て、彼が嬉しそうに目を見張ったのを覚えている。私に何かしてもらえるのが嬉しいのかと思っていたが、きっと手料理以上に、陶器の食器が嬉しかったのだろう。
私はかつて咲さんが、過去を打ち明けた時に共感してくれた事を思い出しながら
「よく話してくれたね。よく我慢したね、つらかったね」
と共感し、茶碗を割るなど何でもない事だと一生懸命話し落ち着かせたが、それ以来彼はふっと空虚な眼差しをするようになった。私に脆い部分があるように、彼にも脆い部分があって当然だ。きっと彼のお母さんは神経質な人で、その時だけでなく、色々な場面で彼を叱責したのだろう。私との食事中に茶碗を割った事で、お母さんから味合わされた様々なつらい出来事が蘇り、たまらなくなったのだろう。
会社設立の為に多忙になり、いったんそんな事は忘れた様子だったが、私の妊娠が分かり、彼は自分が親になり、されて嫌だった事を子どもにするのが恐ろしく、仕方なく逃げて行ったのではないかと推測する。
逃げられるより、逃げて行く方がつらいだろう。彼が今どこでどうしているか知らないが、どこかで元気ならば良い。カメラマンとして働いていられれば尚良い。
祝子という世界一可愛い子を授けてくれ、感謝するばかりだ。恨む気持ちなど一切ない。
気持ちを切り替え、現実に邁進した。
懸命に働き、祝子と遊び、家事をする。
カメラマンの彼の事を考えそうになったら思考をストップする。
それでいいと自分に言い聞かせる。
夢中で過ごすうちに、保育園の卒園式を迎えた。ママ友達は自分の子に何を着せるかで盛り上がっている。そうだ。写真も撮るし、可愛らしい格好をさせてやりたい。何年も自分の洋服など買っていないが、娘の為に新しい洋服を買おう。
そういえばクラブで働いている頃は、洋服やアクセサリーが欲しくて仕方なかったし、化粧品も山のように持っていた。毎日美容院へ通い、しょっちゅうエステに通い、常に万全の自分でいるのが誇らしかった。
今は制服があるし、洋服など欲しいとも思わない。髪は帽子に全部押し込むから、髪型など気にならず、滅多に美容院も行かない。スキンケアは安物のオールインワンジェルひとつで済ませる。エステなど考えられない。仕事中はマスクをするので化粧もしない。口紅さえ塗らない。昔は風邪を引いてもマスクなどしなかったが、今やマスクは顔を隠すための必須アイテムになってしまったし、帽子は髪を隠すアイテムになってしまった(髪から老けていくのはたまらない)。
こうして加速するようにおばさんになっていくと思うと切なくもあるが、あの頃より今の方が格段に幸せだからいい。人が本当に幸せを感じるのは、たいせつな人の喜ぶ顔を見た時だ。そしてお金はなければないで平気だ。自分の物を何も欲しがらなければいい。今は今の収入の範囲内で生活する事を考えればいい。どうしても足りなければ貯金を切り崩せばいい。
さあ、喜んで娘の為に新しい洋服を買おう。
その卒園式での事。
子どもがひとりずつ、親に感謝の気持ちを述べた後、将来の夢を発表する場面があった。
「僕は大きくなったら、学校の先生になります」
「私は大きくなったら、お医者さんになります」
「僕は大きくなったら、お寿司屋さんになります」
それぞれ可愛らしい夢を語る子どもたち。さて、私の娘は何を発表するのか?
いよいよ祝子の番だ。新しい洋服をまとった娘が、一緒に手をつないで花道を通った後、しゃがんで目線を合わせた私に小声でこう言ってくれた。
「ママ、いつもおいしいご飯を作ってくれて有難う」
そしてみんなの方を向いて大きな声で言ってくれた。
「私は大きくなったら、お母さんを助ける人になります」
…思わず涙が出た。私が仕事と家事でこてんぱんに疲れている事を分かっていて、〇〇になる、と職業を言うのではなく、私を助ける人になるなんて…。あまりにも有り難くてたまらない。ああこんなに良い子に育ってくれた。こんなに大きな幸せをもたらしてくれた。
嬉し泣きしながら娘を抱きしめる。
小学校の入学式。私の母校に通う娘。なんと、私に六年間お弁当を作ったり、家を汗だくになって片付けてくれたりした先生が教頭先生に出世していた。
「山路美知留です。覚えていますか?」
と声を掛けた所
「ああ、山路さん」
と向こうもびっくりしていた。
「あの頃、お弁当を作っていただいたり、うちの片づけをしていただいたり、本当にお世話になりました」
と言った所
「ああよく覚えていてくれたねえ」
と懐かしがってくれた。
「娘の祝子です。よろしくお願いします」
「山路さん良い大人になったんだね。良かったよ。この仕事していると、親子二代で受け持つ事があって、本当に嬉しいよ」
そう言ってくれた。
私はこの先生に会う為に坂戸で育ったのかも知れない。そして卒業式で言えなかったお礼の言葉を大人になった今、改めて言う為に祝子はこの小学校に入学してくれたのだろう。
式の後、校門の前で記念写真を撮る。他の子どもはみんな両親と写真を撮るのに、娘には私しかいない。つい不憫になる。この子にはきょうだいどころか、いとこも、はとこもいない。
「どうして、ときこにはパパがいないの?」
「ママはね、マリア様みたいに、ひとりでときこを生んだのよ」
笑顔で答える。娘には自分が捨てられたなどと思って欲しくない。
塾に通わせる余裕はない。だから私が懸命に勉強を教える。私とて高学歴でも賢明でもないが、それでも必死に教える。小学生といえどもなかなか難しく、投げたくなる事もある。ファミレスではしょっちゅう新メニューが登場する為、調理工程を覚えなくてはならない。勿論家事もある。
それでも優先順位は祝子だと腹を決めて勉強を教える。どうしても分からない時は答えと解説を見てしまう。そして何とか教える。寝不足になるが、仕方ない。
夢中で教えている最中に、ふと後ろを見ると、いつの間にか帰って来ていた母が家事をしてくれていた。びっくりする。この人でも家事をする事があるのか、と。後で聞いた所、パート先で料理の盛り付けや調理、掃除をするようになり、お陰で出来るようになったとの事。ああ、パートに出てくれて本当に良かった。
時々、祝子のランドセルまで磨いてくれるようになった。
台所に汚れた皿が山積みになっていたり、洗濯物が溜まっていたり、部屋が汚れていたりすると、それがストレスになる。そしてそれを片付けるとストレスがすっと消える。家事はなかなかのストレス解消になると気付いた。
また、子どもと遊んでいると童心に返れる。最近の子どものおもちゃは頭を使って遊ぶものも多く、なかなかよく出来ていると感心する。家事も育児も夢中になっていると案外楽しくてストレスも消える。
昔、画材の会社にいた時に
「山路さんって趣味なんて、あるんですか?」
と若い子に聞かれて嫌な思いをした事があるが、今なら堂々とこう言うだろう。
「私の趣味とストレス解消は家事全般と子育てです」
娘の友達が遊びに来た時、笑顔で
「いらっしゃい」
と、声を掛け、おやつを出した。私もそうして欲しかったから。勿論娘の友達に、親の職業を聞く事など一切しなかった。
学校から息せき切るように帰って来た娘が聞いてきた。
「どうして、祝子って名前にしたの?」
私は自信をもって即答した。
「これから一生、この子の存在を祝福するって、ママの決意の表れだよ」
娘が嬉しそうに笑ってくれた。好きな童話の登場人物の名前を適当に付けるのではなく、きちんと考えて付けたのだ。よく名前は親が子どもに贈る最初にして、最高のプレゼントという。曲がりなりにも私は真剣に娘と向き合ってきた。もうひとつ、名前がその子どもに与える影響は全体の一パーセントだそうだ。
一パーセントもあるなら、是非とも良い名前を付けたいというのが親心だ。
確かに育児は逃げ場もないし、思うようにならず苛立つ事も多く、家事もあるし仕事もあって忙しい。忙しい時に横から何かごちゃごちゃ言われると苛立つし、放置したい瞬間がなくはなかったが、それでも私は今のこの子には今しか会えないという思いで踏ん張った。
小学校の授業参観や面談には必ず行った。娘が恥をかかないよう、薄化粧を施し、地味な格好をして参加した。
「あれ、うちのお母さんだよ」
と、友達に教える我が子。はしゃぐ娘を見て、うちの子がいちばん可愛いと確信した。
また、どんなに忙しくても食事は必ず手作りにして、一緒に食卓を囲んだ。
「何が食べたい?」
と聞き(祝子はたいていオムライス、と答えた)、なるべくリクエストに応えた。私はいつも出来合いの弁当やパンをひとりで食べる子ども時代を過ごしたから。祝子にそんな思いなどさせたくない。
「これ、おいしい」
と、祝子に言われるのがいちばん嬉しかった。
「お腹いっぱいになった?」
と食後に必ず聞いた。私は幼少期の頃は勿論、ひとり暮らしを始めた時も、少ない量でお腹いっぱいにする為にちびちび食べるのが習慣だった。娘にそんな思いをさせるものか。
さあ祝子、毎回満腹しておくれ。
家の電話が鳴る。
「山路です」
と出ると子どもの声で
「山路さんのお宅ですか、祝子ちゃんいますか?」
と言う。
「お名前教えてください」
と言うと
「松江です」
と可愛い声で答える。
「待っていてくださいね」
と答え、受話器を置き
「祝子、お友達から電話だよ」
と声を掛けたが、本人は布団の上で爆睡している。
「祝子、松江さんから電話掛かっているよ」
ともう一度声を掛けたら、寝たまま
「はあい」
と言う。…だが起きない。
「祝子、お友達、電話で待っているよ」
と言った所、何と寝たまま
「もしもし、もしもし」
と言う可愛い我が子。駄目だ、こりゃ。
「待たせてごめんなさい。祝子、眠っていて起きないからまた後で良いかな?」
と言うと
「分かりました」
と電話は切れた。
寝たまま、もしもしと言うとは、何と可愛い我が子よ。
たいせつな思い出のひとつになった。
母が着なくなったセーターを着て洗濯物をたたんでいた。祝子がちょこんと横に座り、私の腕に自分の顔をこすりつけて来る。何度もそうするので、まだまだ子どもだなと微笑ましく思っていたらこう言った。
「このセーター気持ち良い」
…何だよ、甘えているのかと思っていたら、セーターが気持ち良くて顔をこすりつけていたのか。まったくもう。
またひとつ、可愛い思い出が出来たけど。
冬の朝、窓を開けた祝子が嬉しそうに言った。
「ママ、雪が咲いているよ」
子どもの感性というのは凄いなと思うが、違うものは違うと教えなくてはいけない。
「雪は降っているとか、積もっているって言うんだよ」
またひとつ、微笑ましい思い出が出来た。
祝子はトイレに行く際に
「シコリンしてくる」
だの
「ウンリンしてくる」
と言う。まったく、可愛く言えばいいってもんじゃないよ。可愛い思い出になるけれど。
学校から帰って来た祝子が目を輝かせて言う。
「ママ、すっごい綺麗な街があるんだよ。明日、連れて行ってあげるね」
「へえ、どこにあるの?」
「学校の近く」
…翌日、学校から帰って来た祝子がまた言う。
「おやつ食べたら行こう、綺麗な街、見せてあげる」
ドキドキしながら二人でおやつを食べ、支度をして出かけた。
「ほら、ここだよ」
祝子が連れて行ってくれたのは、新築の家が並んだ一画だった。
「ねえ、綺麗な街でしょう?」
感心して頷く。
「本当だね、綺麗な街だね。こんな所あったんだねえ」
確かに綺麗な街だった。見渡す限り、綺麗な家が並んでいる。
ああ、この子の美的センスは的確だ。ますます親ばかになってしまう。
祝子は一昨年の事を「きょきょねん」、一昨々年の事を「きょきょきょねん」と言う。
「おととし、さきおととしって言うんだよ」
と教えると、ニコニコ頷く。分かってくれたのかなと思うと、今度は再来年を「ららいねん」その次の年を「らららいねん」と言う。
「さらいねん、とか、三年後、とか言うと良いよ」
と教えると、もっとニコニコ頷く。
ああなんて可愛い子を産んだのだろう。ますます目尻が下がってしまう。
祝子は嬉しい事があると両手を同じ方向へ振りながらこう歌う。
「わーい、わーい、ワイパー」
車のワイパーのように手を振る我が子。
小学二年生というのはまだまだ子どもだ。
妙に祝子の羽振りが良い。チョコレートやマシュマロをテレビ台の後ろに置き、本人はうまく隠したという顔をして、ちょこちょこと食べているようだ。
そして私の財布から小銭がちょいちょいと消える。もしや…。
「祝子、このお菓子どうしたの?」
答えられない祝子。
「怒らないから言ってごらん」
「…ママのお財布からお金がコロコロと出てきて、ときこのポケットにコロコロと入った」
…怒らないと言った以上、怒る訳にいかない。いけない事はいけないと教えなかった私も悪いのだろう。
「やっぱりそういう事をされるとママは悲しいから、もうしないでね」
と、静かに諭した。
「うん」
済まなそうな顔で頷く娘を抱きしめる。万引きよりずっと良い。これから二人で世の中にお金がどう回っているのかを勉強しよう。今回、この子に勉強するチャンスをもらったのだ。やっぱりこの子は私の先生だ。
娘と母の勤めるスーパーへ行く。
母は裏方で働いている為、姿は見えない。
「ここでお買い物してお金を払うと、このスーパーの人たちのお給料になるんだよ。うちのおばあちゃんとかね。おばあちゃんや、ここの人たちがそのお給料を使って、例えばお洋服を買ったり、旅行へ行ったりすると、そこのお洋服屋さんや旅行会社の人たちのお給料になるんだよ。その人たちが、もらったお給料を使ってママが働いているレストランでご飯を食べてお金を払ってくれると、それがママたちのお給料になるんだよ。お金はそうやって世の中の色々な所を回っているんだよ」
と、真剣に説明する。
「へえ」
そう言って娘が目を丸くしている。
「例えば、この人参を買うと、このスーパーだけでなく、人参を作っている農家の人たちのお給料にもなるの。このお菓子を買うと、このスーパーとお菓子工場の人たちのお給料にもなる。袋や箱を作っている人たちのお給料にもなる。そう考えていくと、お金も、世の中も全部つながっていて回っているって事が分かるでしょう?世の中って凄いでしょう?」
「凄いねえ、じゃあこのバナナは?」
「このバナナを買うと、このスーパーは勿論、果樹園の人たちのお給料にもなるの。たったひとつのバナナ、お菓子、野菜、お肉やお魚、その品物の向こうには色々な人がいるんだよ。たくさんの人が手をかけて、バナナなり、野菜なりを作ってママたちの食卓を彩ってくれているんだよ。だから食事の前には必ずその人たちに向かって手を合わせていただきます、食べ終わったらその人たちを思ってご馳走様でしたって言うんだよ」
お店の人が私たち親子を見ながら微笑んで通り過ぎる。
「もうひとつ大事なのが、お金は必ず働いて得るものなんだよ」
ここから先は祝子の耳元で囁いた。
「だから、絶対に人のお財布から勝手に持っていってはいけないの。例えコロコロと出てきて、祝子のポケットにコロコロと入っても、それでもいけない。そういう時は返すんだよ」
祝子がよく納得した眼差しでウンと頷いてくれた。良かった。この子はまだ盗癖など付いていない。大丈夫だと確信を得、娘の頭を優しく撫でる。
家事を終え、やっと椅子に座ってテレビを付けたら、祝子が私の膝に乗ってきた。
そのまま前を向き、黙ったままテレビを見ている。
…だいぶん重くなったねえ、だいぶん大きいもんねえ。
三年生になった娘が言った。
「ディズニーランドに行きたい」
そう言えば、娘と公園で遊ぶ事はあっても、遊園地へ連れて行った事はなかった。時間がない事と、生活費がぎりぎりだったので。
だが娘の願いを叶えてやりたい。
「分かった、行こう」
「いつ?」
「来月の祝子の誕生日に行こう」
「やったー!」
大喜びする娘。チケット代の心配が頭をよぎるが、がっかりさせたくない。
翌日、ファミレスの仕事の休憩時に同僚にその話をした所、こう言われた。
「私、ディズニーランドのペアチケット持っているよ。あげようか?」
びっくりした。こんな事ってあるのか?
「いいの?」
「勿論いいよ。私も人から貰ったんだけど、先週、彼氏と別れちゃって、ひとりで行く訳にいかないからどうしようかと思っていた所なの」
「…」
「待っていて」
そう言って、ロッカーからペアチケットを本当に持って来てくれた。
「いくらか払おうか?」
「いいよ、祝子ちゃんの為に」
神様がこの同僚をつかわしてくれたのかとさえ思った。
当日、娘を連れて初めて行ったディズニーランド。エントランスを潜り抜け、ここは夢の世界だと思った。子どもも大人も夢中になるのが分かる。
「ディズニーランドだああああ」
と、叫びながら走って行く娘。おいおい、ママを置いて行くなよ。
人が多い。はぐれないようにしなくては。どのアトラクションも長蛇の列だ。
「どれがいい?」
そう娘に聞き、なるべくリクエスト通りに並ぶ。娘のはしゃぐ顔が眩しい。夢中で写真を撮る。
「ママ、お腹が空いたよ」
そう言われ、レストランへ。何でも言う事を聞いていたら我がままになるのではないかとちらりと思うが、せっかくの夢の国、何でも叶えてやりたくなる。
その日は暗くなるまで遊んだ。滅多に来ないのだから、時間いっぱいに遊ばせてやりたい。帰る前にお土産を選ぶ。このチケットをくれた同僚にも買わなくては。
「おばあちゃんにこれ、友達にこれ」
そう言って、次々にかごへ入れる娘。おいおい、会計の心配もしてくれよ。
「ママ、有難う。友達に自慢できる」
そう言われ、物凄く報われた。ああ祝子よ、ずっと友達に自慢されて嫌だったんだね。だから自分もディズニーランドを体験したかったんだね。気持ちは分かるよ。だからこう言った。
「これからは毎年来よう!」
その言葉に笑顔爛漫で頷く娘。
さあ約束を守らなくては。今日から貯金の他に、ディズニーランド積み立てをするぞ。
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