第九話 誕生

病院のベッドで横たわる化粧気のない母。

「大丈夫?」

 普通に話しかけてみる。

「ああ、来てくれたんだ」

 母が私を見て頷いた。

「良いニュースと悪いニュースがあるよ」

 これが久し振りに会った親子の会話か、と思いながら言う。母が何?という顔をする。

「良いニュース、私は新しい命を授かったよ」

 母の目が大きく見開かれる。

「悪いニュース、この子の父親は逃げて行ったよ」

 母が平然と言った。

「どっちも良いニュースだよ。そんな男なら居ない方が良い」


 母は半月で退院した。後遺症もなく、つくづく強運な人だ。入院中に段差を平気でポンと飛び降りたりするので、こっちが焦ったが。

 古びた坂戸のアパートへ帰る。ああ懐かしい。築四十年以上するんだよねえ、このアパート。あちこち傷んだ部屋を見回しながら懐かしさに頬が緩む。

「三人で暮らそう。ここで」

 母が言う。

「良いの?」

 と聞いた。何か、初めて親らしい言葉を言ってくれたような気がする。

「うん。こっちも良いニュースがある」

 と、平然と言う母。

「なあに?」

「私はパートデビューする」

「そんな事、出来るの?」

「出来る」

 この人はいったいどういう人なんだろう。今更ながら思う。


 母は有言実行し、近所のスーパーマーケットでパートを始めてくれた。

 母にとって初めての水商売以外の仕事。立ち仕事で足が痛いだの腰が痛いだの言うが、一応続いているし、売れ残ったお総菜やパンをもらえるのも有り難いし、従業員価格で食材や日用品を色々と買ってきてくれるのも助かる。

 そしてこの頃から、母は酒をまったく飲まなくなったし、男も作らなくなった。酔った母を見るのは、彼氏を見るのと同じくらい嫌だったのでほっとしていた。仕事で飲み過ぎて嫌気が差していたのかも知れないが。

 そして元々煙草も吸わないし、ギャンブルも借金癖もない事に遅まきながら気づいた。勿論薬物にも手を出さないし、盗み等の犯罪もしない。

 放置しても、干渉や暴力はしないし、恩着せがましい事も、人の悪口や、嫌味、皮肉もまったく言わないし、自慢もしないし、何かあっても決して人のせいにしない。情緒も安定しており、気分次第で言う事やする事がコロコロ変わる訳でもない。つまり当てになる事はなる(健さんがコロコロ気の変わる人で当てにならず、本当に困った)。

 風俗店で働いた経験もない。何度も同棲や、結婚、離婚を繰り返した訳でもなく、私も苗字が山路のままで済んだ。

 そう、そんなに悪い母親でも、恥ずかしい母親でも、迷惑な母親でもなかった訳だ。

 六十歳を過ぎた母は、もう雇われて水商売をする事は出来ない。高校一年生にして私を宿し、相手の男には逃げられ、実の親にまで見放されて家を追い出され、学校を辞めてまで私を産み、本当に水商売しか知らない母にとって、夜の世界はある意味安らげる場だったのだろう。不安なあまり、次から次へと男性を替えざるを得なかったのも致し方なかったのかも知れないし、幼い私を見るたびに現実を突きつけられてつらかったのかも知れず、だからこそ見ないように放置したのかも知れない。

 会った事がないので分からないが、もしかして私は父親に似ているのかも知れず、だから尚の事、私の顔も面倒も見たくなかった、甘えられるのが嫌だったという気持ちも分からなくもない。そして奔放な生き方をしていた割に、性病にもかからず、私以降は妊娠もせず、大病もしていない。なかなか強運な人とも言える。

 考えようによっては、そんな母親を見て育ったからこそ、私はぎりぎりそうならなくて済んだようにも思う。妊娠した途端に相手に逃げられたという点では同じだが。

 私は決して男をとっかえひっかえした事も、男遊びをした事も、同時に複数と付き合った事もない。お尻は軽くない、むしろ重い。身持ちは堅いと言える。


 画材を扱う会社には、坂戸で母と暮らすので、と言って辞めた。命に関わる切羽詰った事情があったにせよ、クラブ江里子のように黙って逃げるのは嫌だったので、きちんと退職した。いつか近くまで来たので寄りました、と言って訪れる事も出来ると思うと嬉しかった。お世話になった会社に後足で砂をかけるような辞め方はするものではない。銀座の画廊で学んだ事だ。

 藤沼さんが物凄く別れを惜しんでくれた。

「お母さんにこっちに来てもらったらどうですか?そうすれば山路さんが会社を辞めなくて済むし」

 とも言ってくれた。社長もみんなも同感というように頷いてくれた。気持ちは嬉しいが、この腹が大きく膨れる前に会社を辞めたかったし、小田原から居なくなりたかったので退職の意志は引っ込めなかった。

 藤沼さんが幹事になり、送別会を盛大に開いてくれた。みんなでお金を出し合いプレゼントや寄せ書きも用意してくれ、勤務最終日には大きな花束と拍手で私を送ってくれ、何かあればまたおいで、みんな山路さんを待っているよとまで言ってもらえ、本当に有り難かった。以前派遣先で、同時に辞める人との待遇の差にいたたまれなかった経験があるからこそ感じられる幸せだった。

 勿論鴨宮のアパートの大家さんにも引っ越しますと挨拶した。目黒のアパートの大家さんは黙って雲隠れした私にさぞかし困っただろう。中途半端に置いて行った荷物の処分にも手間取っただろう。悪かった。

 妊娠した事は会社の誰にも言わなかったし、気付かれないよう振る舞った。カメラマンの彼と同棲している事を誰にも言っていなくて良かった。可哀想という目で見られるのはまっぴらだ。幸いまったくつわりがなく、胎児の時から親孝行な子だと思えた。

 私がこの会社に縁を持ったのは、人生を立て直してまともな生活をするというのも勿論あっただろうが、藤沼さんを彼氏のモラハラから救う事と、もうひとつ、山梨で咲さんの姿を目撃する為だったのだろう。

 そして登録した派遣会社にも感謝せずにいられない。この会社へ派遣してくれて有難う。ここでなければ社員として雇用してもらえなかっただろう。

 今となっては、あなたのような人を青い鳥症候群というのだと言った担当の人にさえ感謝している。お陰で今がある。本当に有難う。色々な細い縁がつながり、今に至っている。

 もしかして、私は物凄く運が良いのかも知れない。


 坂戸へ引っ越した日、ひらめくようにこう思った。

 そうだ、これからは私の人生は私が決めよう、どう生きるか私が選択しよう、そんな揺るぎない信念だ。

 どこで暮らす、誰と生きる、どんな仕事をする、子どもも産みたければ産む。誰が何と言おうと自分がしたいようにする。自分で一切を決め、自分の人生を取り仕切る。

 私の人生の最高責任者、代表取締役を私がやろう。

 だから悔やまない。

 

 小田原での水商売が合わず、銀座が恋しくてたまらなかった頃、馬鹿な事をしてしまった事が悔やまれてならなかった。だが、小田原で暮らしたお陰で画材の会社で働けたし、カメラマンの彼にも会えた。そして何より、新しい命と新しい人生に出会えた。

 だからやはり小田原へ行って良かったのだ。お陰で今がある。

 昔、有名なアイドルが妊娠した時に、お腹に幸せが詰まっている感じです、と言っていた事を思い出す。私もそうだ。ひとりであって、ひとりではない。この子がいてくれるのだから。その上精一杯、養ってくれる母もいる。経済的には貧しいが、精神的には満ち足りている。

 もう青い鳥の存在など、どうでも良くなっていた。


 坂戸市役所で母子手帳をもらった時、係員が

「おめでとうございます」

 と笑顔で言ってくれ、その通りだ、私はおめでたい状態なのだと思った。そうだ、彼も一度はおめでとうと言ってくれたのだし。

 日に日に大きくなるお腹を見て、もはや案ずるより産むがやすし、とそれこそ腹を決めた。

 よし産もう。安心して産もう。

 私は今いちばん良い状態なのだ。

 この家と環境、何より坂戸という田舎が嫌で、早く大人になりたい、働きたい、東京へ出たい、と願った頃より、学校を中退した頃より、若く美しかった頃より、むやみに銀座にこだわった頃より、クラブ江里子で売れて輝いていた頃より、画廊で直接雇用してもらえた頃より、慕った相手にいじめられ復讐しようとした頃より、小田原へ逃げた頃より、年齢を重ねて水商売は限界と悩んだ頃より、就職活動をして嘆いた頃より、派遣で生計を立て今度こそ自立をと誓った頃より、正社員として雇って貰えほっとした頃より、カメラマンの彼と出会い一緒に暮らすようになった頃より、逃げて行った彼を恨んだ頃より、今いちばん幸せなのだ。

 坂戸のアパートにいると、かつてのご近所さんや同級生に会う事もある。だがそれももういいと思った。本当にもういい。誰にどう思われても、幸せなのだからいいんだ。


 何か、私は銀座とか、一流クラブとか、画廊とか、人にどう思われるかに焦点を置き過ぎていたような気もする。坂戸が田舎とか、目黒は都会とか、原宿のマンションを買えば箔が付くとか、コンプレックスの裏返しだったのだろう。あまりに銀座や華やかな職業にこだわり過ぎ、一目置かれる事や、昔憐れむ目で見られた悔しさを晴らしたい、見返してやりたいという気持ちが強すぎた。未婚の母は格好が悪いとも思って会社の人たちに妊娠を気付かれないよう振る舞ったし。

 誰にどう思われるかなんて、そんな事どうだって良かったのだ。自分が自分をどう思うか、そこに焦点を当てれば良いのだ。現に私は今の自分を可哀想だなんてこれっぽっちも思わないし、むしろいい顔をしているように思える。

 もう青い鳥を追い求める事もしない。


 定期健診で産婦人科を訪れるたびに子どもの成長をエコーで見て安心を得た。最近は胎内の写真まで見られる。凄い技術の進歩だ。

「性別はどうします?」

 医師に聞かれた。この医師は、私が独身のまま子どもを産もうとしている事について一切とやかく言わない。それも時代の進み具合を感じる。

「教えてください」

「女の子ですね」

 元気に産まれてくれればどっちでも良いと思っていたが、またしても運命的なものを感じて顔がほころぶ。ああ女の子だ。女三人で暮らすんだ。

 そうだ、名前を考えなくては。この子にとって幸せになれる名前を。だが何故か思いつかない。そこで子どもというより、自分の気持ちを考えた時、湧き上がるようにひとつの決意が生まれた。

 そうだ、私はこの子の誕生を心から祝福しよう。きちんと子育てをして、毎年この子の誕生日を祝い、学校へ入学する時にもおめでとうと祝福し、何があってもなくてもいつでも祝福する母親になろう。絶対に放置も虐待もしない。そんな決意だった。


「お腹の子、女の子だったよ」

 母に告げた。

「良かったね。三人分、雛祭りだ」

 と、よく分からない事を言っている。

「名前はときこにする。祝う子って書いて」

「山路祝子ね、いいんじゃない?」

 やっと普通の会話が出来るようになった。あんなに望んだ普通の会話が。

 キラキラネームが主流の時代に○○子、と言う名前を付ける方が珍しいのだろうが、私は信念を持って祝子という名前を選んだ。きっとこれ以上の名前はないだろう。


 いよいよ臨月。

 いつ産まれてもおかしくない状態の大きなお腹をユサユサさせながら家事をする。

 胎動も凄い。ああ元気な子だ。安心する。

 産まれるまでに部屋を片付け、不要な物は処分して、必要な物を揃えよう。ベビー服やおむつ、哺乳瓶や離乳食の食器。予算が足りずに貯金を切り崩す事になるが、子どもの為なら少しも惜しくない。ベビーベッドを置くスペースはないから、古い布団を何度も干して、シーツ交換をし、除菌スプレーをかけ、部屋の床も壁も天井も電球も、窓ガラスも網戸もサッシもベランダも、丹念に掃除する。

 祝子、大丈夫だよ。私があなたを守り育てる。安心して産まれておいで。お腹に語り掛ける。


 予定日を幾日か過ぎたある明け方、痛みで目を醒ます。陣痛が始まっていると分かった。

 産院へ電話を掛けると入院の支度をして来てくれと言う。自分であらかじめ用意しておいた荷物を持ち(母はひとつとして何も用意してくれない人なので)、母に声を掛けた。

「多分今日産まれる。行ってくるね」

 母が布団の中から寝たまま手を振る。

 初産の娘を見送ろうとも付き添おうともしない母。


 初産の上、四十六歳という超高齢出産。

 母が私を産んだ年齢とちょうど三十年の差がある。

 だがそんな事はどうでもいい。

 陣痛に七転八倒しながら、分娩台の上で人は平等だと思った。

 そう、どんな経歴だろうが、学歴がどうだろうが、年が幾つだろうが、夫がいようが、独身だろうが、何度目の出産だろうが、職業が何だろうが、自立していようが、いい年をして親に扶養して貰っていようが、分娩台の上でそんな事は関係ないのだ。

 気の遠くなるような痛みが波のように行ったり来たりする。早く、何とかして早く、このお腹に入っている人ひとり、何でも良いから出してくれという心境になる。そしておぼろげに、母もこんなふうに激痛と闘いながら命がけで私を産んだ事に思いをはせる。

 そこは感謝しよう。その後放置し続けたのは有り難くないが。

 いずれにしてもこんなに痛いなんて、こんなに身動き取れないなんて、体がバラバラになりそうだ。いつまでこの逃れようのない痛みに付き合わされるのだ。早く、何とかしてくれ。

 初産だから時間がかかるのか、高齢だから産道がなかなか開かないのか。

「痛いです」

 と、どのスタッフに訴えても

「痛くないと産まれない」

 としか言われない。そこを何とかしてくれ。

「陣痛促進剤を使いましょう」

 と薬を飲まされる。だがまったく効かない。

「効きません」

 と訴えたら

「点滴に切り替えましょう」

 と言われた。その点滴の陣痛促進剤が効き過ぎ、もっと七転八倒する事になった。この分娩室に誰がいるのか、いないのか、もうそんな事にさえ気が回らない。

「あなたが産むのよ、あなたが」

 と、助産婦が厳しい声で言う。そんな事、分かっている。

 お母さん、あなたも誰も付き添ってくれない中、たったひとりでこうして産んだのね。さびしかった?それとも漲っていた?

「はい、いきんで」

 言われるままにいきむ。子どもは出て来ない。陣痛の波がやんだ。

「今、やんでいます」

 助産婦が頷く。…と思ったらまた波が来た。

「来ました」

「はい、いきんで」

 それを何度も繰り返す。いい加減出て来てくれ。何か、終わらないような気がしてくる。我が子よ、いつになれば出て来てくれるのだ?お母さんを楽にさせておくれ。

「はい、もう頭、見えていますよ」

 いつの間にか現れていた男性医師が言う。助産婦が分娩台によじ登り、私のお腹を足に向けてぐいぐい押している。若い女性看護師が

「頑張って、頑張って」

 と励ましてくれている。この看護師もいつの間にか来ていたと、うっすらと思う。

 もう何でもいい、早く出してしまいたい。この痛みから解放されたい。滅茶苦茶にいきむ。顔が筋肉痛になりそうだ。この瞬間はどんな美人も、偏差値の高い人も、冷静な人も、若い人も、年取った人も、ぐちゃぐちゃだ。そこも平等だ。

「おぎゃあ、おぎゃあ」

 力強い泣き声。ああやっと生まれた。ほっとする。痛みが嘘のように消えている。

「おめでとうございます。女の子ですよ」

 腕に抱かせてくれた我が子を見て、とにもかくにも産まれてくれた事に感動する。

 ああ私は子どもを産んだのだ。

 ひとりで産んだのだ。

 この人たちが手伝ってくれたにせよ、私は子どもを産んだのだ。

 もう何も怖いものはない気がした。

 子どもと一緒に、これからも何でも出来るという確信も生んだ。


 その夜、興奮して眠れなかった。

 やっと産めた安堵感と物凄い達成感、凄まじい幸福感に満たされていた。

 これからどうする?等の不安感は不思議となかった。

 大丈夫。必ず育てよう。仕事は何とかしよう。

 大丈夫。独身で子どもを産んだ私だ。これからどんな事でも出来る。


 翌日の夕方、やっと母が来た。

「おめでとう。初孫、初孫」

 と言いながら娘を抱っこしている。嬉しそうな顔をしているのを見て、こんなに喜んでいる顔を見るのは初めてかも知れないと思う。

「祝子ちゃんね、よろしくね」

 などと、案外まともな事も言っている。この人も普通のおばあちゃんかな。

「祝子ちゃん、祝子ちゃん」

 と言って、写真を撮ったり、頭を撫でたりしている。

「この年でこんな大きな幸せを経験出来るなんてねえ」

 とも言った。それは私も同じだよ、お母さん。 

 ただ、それ以外に見舞いに来る事はなかった。そこはいつもの母だった。


 退院の日、案の定、母は迎えにも来なかったが、幸せな気持ちに変わりはなかった。

 笑顔で娘を抱き、御礼を言って産院を出る。

 他の産婦は夫や家族が迎えに来ているが、私はひとりだ。昔、小田原のクラブで若い子と比べられ、いなくなれと言われひとりぼっちで傷ついた事をうっすら思い出す。

 だが今はいい。少しも惨めではない。むしろ誇らしい。

 笑顔で娘を抱き、御礼を言って産院を出る。


 アパートへ帰る。

「今日からここで暮らすんだよ」

 と娘に話しかける。娘の為に、懸命に家事をする。幸い母乳がよく出て助かる。母乳を飲ませている間、何も出来なくなるが仕方ない。


 母乳を飲ませている間、家事は一切出来なかったが、考え事をする時間はたっぷりとれた。母もこうして私に母乳を飲ませてくれていただろう。

 もうひとつ、おそらく母は、宿した私をおろせと周囲に迫られたのだろう。しかし周りが何と言おうが自分が産みたいから産んだのだ。親に家を追い出すぞと脅されても、彼氏(私の父親)に自分は責任を取れないと突っぱねられても、友達や学校の先生に産まない方が良いと言われても、産んでどうするのと詰問されても、それでも自分が産みたいからその意思を貫いたのだ。

 その「あまりの意思の強さ」のお陰で、私は闇から闇へ葬り去られる事なくこの世に誕生できた。そして私や周囲がどう思うかは関係なく、自分が恋愛したいから次々に男を作ったのだ。周囲に軽蔑の眼差しで見られたり、母のせいで友達に遊ばないと言われたり、深く傷ついた事もあったが、それでも母は自分が生きたいように生きた。

 改めて母を強い人だと思った。

 だがもしかして、自分と私を見捨てた彼氏に対する復讐の気持ちもあったのかも知れない。本当に好きだったのは私の父だっただろう。二人で私を育てながら生きていきたかっただろう。

 そう言えば母は、どの彼氏の事もあまり好きではない様子だった。それは何となく分かった。一度だけ結婚したが、その人の事でさえあまり好きではなかったのだろう。だから裏切れたのだろう。おそらく水商売をしながら私を育てるのがあまりにも大変で、それで自分と私を養ってくれるのなら、という気持ちで結婚したのではないかと推測する。

 好きでもない人と暮らしたり、付き合ったりする、そんなしんどい事はなかっただろう(私も健さんを相手にするのはしんどかった)。しかもどの人ともうまくいかず、長続きもしない。さびしかっただろう。

 母の孤独を感じる。

 そしておそらく年齢を重ねるごとにお客さんからババア呼ばわりされたり、若いホステスに憐れむ目を向けられたり、惨めな思いをした事だろう。

 悔しかっただろう。傷ついただろう。いたたまれない事も多々あっただろう。私は耐えられず辞めたが、母は耐えた。

 どんなにつらくても、どんなに悔しくても、どんなにいたたまれなくても、どんなにプライドが傷ついても、それでも母は決してホステスを辞めなかった。雇われとはいえ、ママにまでなった。愚痴ひとつ、泣き言ひとつ言わず、懸命に仕事を続ける。そこに、それこそプライドを懸けたのだろう。

 母の意地と精神力の強さを感じる。

 親らしい事をしてくれないと思っていたが、何年放置しても引越しせずに待っていてくれたし、帰るたびにお帰りと迎えてくれたし、私の妊娠を歓迎してくれ、文句ひとつ言わずに受け止めてくれた。本当に困窮していた私を救済してくれた。自分は親に救って貰えなかったにも関わらず、私の事は救ってくれた。もしかして、自分が親にして欲しかった事を今更ながら私にしてくれているのかも知れない。

 なかなか有り難い母親だ。

 散々嫌って、散々放って悪かった。


 

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