第八話 新しい命

会社に三ヶ月ほど前に入った社員で、常に人を馬鹿にしたような態度を取る藤沼さんという女の子がいた。みんなに辛辣な事を言い、お客さんにまで横柄な事を言い、周りが注意すればするほど反発し、一層拗ね、尚の事みんなをコケにした態度を取る。

 私も苦手だったが、ある時、見るに見かねる事があった。

「藤沼さん、電話。稲葉さんって人」

 それを聞いた藤沼さんの顔がわずかに強張る。仕方なさそうに受話器を取る藤沼さん。

「はい」

 相手が、何か言っているようだ。

「え、嫌だ。嫌だ」

 と答える藤沼さん。相手が尚も、何か言っているようだ。

「え、嫌だ、嫌だ」

 と拒み続ける藤沼さん。私も、二十人ほどいる他の社員も聞くともなしに聞いていたら、やけになったようにこう言った。

「愛しているよ、愛しているよ」

 …私もみんなも聞こえなかった振りをするしかない。

「え…、みんな、いるよ」

 と、嫌そうに言う藤沼さん。

「だって、言えって言うんだもん」

 藤沼さんが電話を切る。みんな、聞こえなかった振りをし続けるしかない。気まずそうな藤沼さんが給湯室へ行ってしまう。

「ああ私、喉乾いちゃった」

 と、独り言のように言って私も給湯室へ。

 俯いて洗い物をしている藤沼さんに声を掛けた。

「藤沼さん、どうしたの?」

「…」

 彼女は口ごもり、なかなか言わない。稲葉という男に何かされているのだというのは嫌でも分かる。助けたかった。

「良かったら話してくれる?」

 藤沼さんはしぶしぶという感じでようやく話してくれたのだが、彼氏に酷いモラハラをされて苦しんできた。別れたいが、別れたらその事態から逃げる事になるので、乗り越えようと思い必死で我慢している。何を言っても否定されたり無視されたり、反論すると暴力で返してくる。これまで何度転職しても職場まで来たり、電話番号を勝手に調べて掛けてきて愛していると強制的に言わされたり、振り回され、罵られ、もう限界だと思っている。さっきの事で、この会社も恥ずかしくて辞めるしかないと言う。

「藤沼さん、よく話してくれたね。よくひとりで頑張ったね。よく我慢したね。つらかったね」

 そう言って精一杯共感し、心をなだめた。

「藤沼さんは何も悪くないよ。向こうが悪いよ。だから辞める事ない」

 そう言った私に藤沼さんが心を許したのか、救いを求める目で言った。

「山路さんが私だったらどうする?」

「私だったらきっぱり別れる。そんな事をしたらどうなるか、彼も学習すべきだよ」

 即答した。藤沼さんが納得したように頷く。

「私、あんな男、別れたい、別れる」

「頑張って、応援しているから」

 藤沼さんが顔を上げて真っ直ぐな目で私を見る。そして力強く頷いてくれた。


 翌日、出勤した所、藤沼さんがにこにこしながら駆け寄ってきた。

「山路さん、私、彼と別れました」

「あらまあ、すばやい事」

「夕べうちに電話掛かって来て、またなんかごちゃごちゃ言うから、もう別れてってはっきり言ったの。言い訳するから、今まで言われた事やされた事で嫌だった事を全部ぶちまけてやった。昨日の事も。向こう、絶句してやんの。二度と付き合わない、付きまとわないって約束させました」

 そう言って、吹っ切れた清々しい表情で笑う藤沼さん。

「良かったね、また何かあったら相談して」

「はい、本当に有難うございました。心が折れそうだったけど、山路さんの存在が支えになっていました。電話の最中も、山路さんが応援してくれているって思って踏ん張れた」

 …藤沼さんはそれから人を馬鹿にした態度を取らなくなった。極端だなと思ったが、彼氏のモラハラがどれだけ嫌だったのかと、気の毒にもなった。勿論、藤沼さんの評判も良くなり、嫌う人もいなくなった。みんなが、愛していると無理矢理言わされたのを「聞こえなかった振りをし続ける」のが最大の優しさだった。

 クラブ時代にお客さんに共感したり、なだめたり、聞き役に徹したり、そういう経験をしていて良かった。それがここに活きた。

 藤沼さんはその後も、山路さん、山路さん、と何かと声を掛けてくれるようになり、私も可愛くてたまらない存在になった。

 改めて、良い会社と良い人間関係に恵まれたと思える出来事になった。


 山梨県の甲府市に会社で取引きする画廊のひとつがあり、時々仕事で出向く事があった。

 ある時、駅で新幹線を待っていた時の事。別のホームに入って来た電車から、ひと組の家族連れが降り立ってきた。私にはああいう幸せはないんだよなと思いながら、何気なくその奥さんの顔を見て仰天した。

 何と、それは咲さんだったのだ。五十歳を過ぎており、年相応の風貌になっていたが、「旦那さんに守られている奥さん」という感じのする女性になっていた。

 旦那さんの顔を見たが、健さんではなかった。ごく普通の会社員という雰囲気の中年男性で、いかにも温厚そうな人だった。中学生くらいの坊や(旦那さんによく似ていた)と、小学校高学年くらいの女の子(咲さんそっくりだった!)も連れており、それぞれがお互いに馴染んでいるので、間違いなく咲さんの家族なのだろうと分かった。

 ああ良かったと、心から安堵する。咲さんはあの後、健さんと別れ、水商売も辞め、まともな男性と結婚して、まともな家庭を築いていたのだ。子どもも二人産み、おそらく専業主婦としてこの山梨県で静かに暮らしていたのだ。髪型も服装も化粧も地味で、昔ナンバーワンホステスとして銀座で女王様のように君臨していた人には決して見えなかった。だが確かに幸せそうではあった。平凡とはいえ…。

 ああ良かったね、咲さん。本当に良かったね、やっと幸せになれたんだね。

 って事は、健さんはどうしているのかな、とちらりと思ったが、健さんはどうでも良い気もした。そう、私にとって本当に大事な友達は、咲さんだったのだ。健さんではなく。

 私に気付かない咲さん一家が、お互いをいたわり合いながら階段を降りて行く。

 咲さん、あなたは私の青春の一頁だよ。あなたと過ごした時間は楽しかったよ。あの頃あなたが放っていた、普通の人が一生経験しない事を経験してしまった、というオーラは無くなっていたし、太っておばさんっぽくなっていたけど、大事なのはあなたが幸せになれた事なんだよ。

 良かったね、旦那さんが山梨の人なのかな?銀座を捨て、年収二千万を捨て、ホスト遊びもやめ、愛する人に付いてきたんだね。そして良い家庭を築いて一生懸命生きているんだね。

 本当に良かったね、心からおめでとう。今となっては奴隷のようにこき使われたり、殺されそうになったりした事より、笑いさざめいて竹下通りを歩いたり、料理をしてくれたり、成人式をやってくれたり、あなたとの楽しい思い出しか浮かばないよ。

 咲さん、生きていてくれて有難う。死ぬんじゃないかと思ったけど。手首は大丈夫?

 このままずっと幸せでいてね。名前も今は、旦那さんの苗字に、克子、と名乗っているんでしょうね。

 心から祝福します。おめでとう、なんとか克子さん。


 四十五歳の時、出会いがあった。店舗にお客さんとして出入りしていた男性で、会った瞬間インスピレーションのような特別な感覚を覚えた。

 もしかしてこの人が運命の人だったか?五歳年下で、カメラマンをしていた。収入は安定せず、大きな仕事が入った時は五十万円くらいぽんと稼いでくるが、仕事がない月もあった。海外や地方へ行く事も多く、友達のアパートに居候しているという。かつての私のように生活苦で肩身も狭いであろう事はすぐ分かったし、助けてあげたかった。

「一緒に暮らそう」

 そう言った。十六歳の時、五つ上の彼にそう言われ頼もしく思った事を思い出す。今は逆の立場だ。

「いいの?有難う」

 彼が嬉しそうに微笑んでくれた。

 鴨宮のアパートで一緒に暮らし始め、彼の写真に対する愛情を、一流の写真家になる夢を延々と聞いた。いくら話しても話し足りず、ずっとこの人といたい、この人の夢を応援してあげたいと思えた。

 久し振りの本気の恋にときめき、私も咲さんのように幸せになれるかも、と密かに期待していた。そう、彼こそ青い鳥を持っている人だ。


 そして迎えた初めてのクリスマスイブ。このたびの私には何も恐れるものはなかった。ご馳走を作り、大きなホールケーキを堂々と買った。

 アパートで二人だけのクリスマスパーティーを行なう。シャンパンを飲み、料理を食べる。楽しくて、楽しくて、笑ってばかりいる。彼も冗談を言って笑ってばかりいる。

 もうこれからは惨めなクリスマスは過ごさなくて済むんだ。ずっとこの人と一緒にいられるんだと歓喜する。何年もさびしいクリスマスを過ごしたからこそ感じる喜びだろう。

 その夜、枕元にプレゼントを置き、ひとつの布団で抱きしめ合い、愛し合い、とろけるような幸せ感に酔いながら眠り落ちた。

 …朝、起きてすぐに

「あ、サンタさん来てくれたよ」

 と、ギャルのようにはしゃいだ。

「あ、ほんとだ。サンタさん来た」

 と、彼も喜んでいる。これからも同じ時を過ごせますようにと願いを込めてペアウオッチをお互いに付ける。嬉しくて、嬉しくて、またお互いを抱きしめ合う。彼の笑顔が眩しくて、眩しくて、もうたまらない。

 お互い仕事へ行く。

「あれ?山路さん、腕時計、新しいね」

 目ざとい社長に言われた。

「あ、ほんとだ。彼氏からのクリスマスプレゼント?」

 と、他の同僚も言う。嬉しくてにやにやしてしまう。藤沼さんが

「山路さん、分かりやすい」

 だって、あはははは。とろけるように幸せだった。ご機嫌で仕事をこなす。


 アパートへ帰る。今日はクリスマス本番。料理を仕上げた所で彼が帰って来た。

「美知留、良いニュースがある」

 そう言って目を輝かせる彼。

「写真専門学校の同期が会社を興すんだ。俺にも手伝ってくれって言ってくれた。共同経営者としてやっていければ、定収入が得られるようになる」

 願ってもない話だ。というか、最高のクリスマスプレゼントだ。

「おめでとう」

 心から言った。

「有難う、美知留が応援してくれたからだよ。美知留が俺を支えてくれたからだよ」

 そう言って私を力強く抱きしめる彼。ちょっとお!身動きが出来ないよおお!

 本当に良かった。また追い風が吹き始めるかも知れない。ひとつずつ、望みが叶っていく良い予感がする。このまま彼が友達と共同経営者として仕事を始め、定収入を得られたら、結婚だって考えてくれるだろう。大きな夢を描く。


 彼は会社設立に向け、奔走し始めた。毎日朝から晩まで駆けずり回り、クタクタになって帰って来る。黙ってこの人を支えようと、私は家事をし、彼が家では休めるように精一杯気を使う。

 私には過去にクラブ経営をしたかったが、経営のノウハウが分からず諦めた経験がある。難しい事は分からない。だから余計な口出しや手出しはしない。出来るのは、彼を応援する事だけだ。


 生理が遅れている。もしかして…。

 妊娠なんて夢のまた夢だった。それが現実になるとは…。

 会社帰りに産婦人科へ行った所、二カ月に入った所だと言われる。ああ本当に望みがひとつずつ叶っていくんだ。天にも昇る気持ちになる。

 アパートへ帰って来た彼に笑顔で言った。

「良いニュースがあるよ。赤ちゃんを授かったよ」

 一瞬、彼の目に戸惑いの様子が見て取れ、不安になる。だが、次の瞬間

「おめでとう」

 と言ってくれた。ほっとする。年齢的にも最初で最後の妊娠になるだろう。

「産んでいいのね?」

 と聞くと、笑顔で頷いてくれた。何か作り笑顔のように見え、心から安堵は出来なかったが、そんな不安を払拭したくて彼を抱きしめた。彼がぎこちない手で私の背中を抱く。

 …それがその人の体温を感じた最後になってしまった。


 翌日、アパートへ帰ると彼の荷物が消えていた。愕然とする。

「済まない。本当に済まない」

 と、走り書きのメモがテーブルの上に置かれてある。

 ああ、逃げて行ったんだ。酷い、本当に酷い。おめでとうと言ってくれたくせに、自分の子を宿した私を置いて…。

 一瞬恨んだし、消失したが、愛してくれた時期もあったし、私に新しい命を授けてくれた、ある意味本当に運命の人と言えた。

 さて、現実を鑑みる。どうしよう…。ひとりで働きながら子どもを生み育てるのは並大抵の事ではない。私に出来るだろうか。母のように子どもを放置したくないし、虐待もしたくない。そうかと言って闇から闇へ葬り去るのはもっと嫌だった。

 この年齢にしてせっかく授かった命、何としても産みたかった。だがどうやって育てればいいか分からない。赤ちゃんポストへ入れたくもない。会社に何て説明すればいいのか?はて、どうするか。本当に困った。

 ああお揃いの腕時計なんて、もう見たくもない。捨ててしまおう。躊躇なくごみ箱へ投げ込んだその時、本当にその時…。

 電話が鳴ったのだ。「運命の電話」だった。

「山路美知留さんですか?こちらは坂戸のM病院です。お母さんが事故に遭い入院しています」

 驚いた。このタイミングで。何か、細い糸が結ばれていたのだろうか。この糸を手繰り寄せたらどうなるのか?

 

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