第七話 小さな幸せ
懸命に働く。会社を思って、お客さんを思って。
自分がかつて銀座のクラブで売れていた華やかな過去は捨てた。悪い噂を恐れ、過去を人に話す事はなかった。
今を、未来を、たいせつに生きよう。変な言い方だが、過去は「ああ楽しかった、良い思い出だ」で済ませよう。高校時代に水商売と知った途端に、お尻も軽いのか?と、男子生徒に嫌らしい目で見られた心の傷がそうさせた。それに人生で一度も輝いた事がないよりずっといい。
会社でみんなに毎日接していると、この人たち一応私を仕事仲間として認めてくれているんだなというのは何となく分かる。そこも嬉しかった。
四十歳目前ともなると、色々な人に
「山路さん、どうして結婚しないの?」
だの
「誰か紹介しようか?」
等、言われるようになってしまった。心配してくれるのは有り難いが、結婚するより仕事をして、まずはきちんと生活の基盤を築きたかった。人によって、オールドミス等からかってくる事もあったが、ホステスをしていて付くお客さん、付くお客さんに、
「まだいたのか、ババア。お前なんて早くいなくなれ」
と、いじめられるよりはましだった。ホステスだけは考えられなかった。
年齢を重ねるにつれ、誰も結婚は?と聞いて来なくなり、言われるうちが花とはこの事だと実感する事になる。
ある時、会社の若い女の子に
「山路さんって、趣味なんて、あるんですか?」
と聞かれ、嫌な気持ちになった。私がかつて銀座の高級クラブでナンバースリーと言われ(月によってナンバーワンになれた)、飛ぶ鳥を落とす勢いで指名を受け、輝いた事を知らないこの子から見れば、私は何が楽しくて生きているのか分からないおばさんなのだろう。それに私には趣味らしい趣味がない。強いて言えば貯金か?そう答える訳にもいかず、苦笑いで済ませた。
また新入社員の男の子に
「山路さん、クリスマスもひとりで過ごすんですって?」
と聞かれ、もっと嫌な気持ちになった。昔は毎年クラブで盛大にクリスマスパーティーが行なわれ、私目当てに大勢のお客さんが来てくれた。
「舞と過ごしたいから」
そう言って、仕事を早めに切り上げ、プレゼントを手に駆けつけてくれた、多くのサンタさん(お客さん)と過ごした夢のようなクリスマス。それは何年も何年も続いた。
今はアパートで、たったひとりぼっちで過ごす。ケーキだけは自分で買うが、サンタさんは来ない。そのケーキも、ひとりで過ごすとケーキ店の人に思われたくないが為に、わざわざ大きなホールケーキを「嬉しそうな顔」をして買う。それを何日もかけて食べ続ける。つまらない見栄だと分かっていても、そうせずにいられない。
通販で買ったものをわざとクリスマスの朝に届くように指定したりする。それがクリスマスプレゼントだと自分に言い聞かせる。
アパートの電話が鳴っても見栄を張って出ない。一度電話に出た時、
「山路さん、ひとりなの?イブなのに」
と、用事があって掛けてきた会社の上司に言われ、それ以来電話が鳴っても出なくなったのだ。
「山路さんって、クリスマスもひとりで過ごすんだよ。可哀想に」
と聞いた新入社員の男の子は、私を気の毒に思ってそう言ってくれたのかも知れないが、気の毒と思うなら尚の事、放っておいて欲しかった。
倒れそうになるほどさびしいクリスマス。クリスマスだけでない。正月もバレンタインデーもホワイトデーもひとりぼっちだ。
江里子組にいた頃は、何も怖いものはなかった。私からのチョコレート欲しさに、大勢のお客さんが詰め掛けてきたし、ホワイトデーだって、山のように高級スイーツや、ネックレスや、ハンドバッグをもらったものだ。そう、毎日がパーティだった。
ああ腹立たしい。正月も、クリスマスも、バレンタインもホワイトデーも、そんなものなければいい。行事ごとなんて、大嫌いだ。
私はどんどん年を取っていくが、会社には毎年若い子が新卒で入って来る。その子たちの若い肌や髪、引き締まったプロポーション、放つオーラには圧倒されるし、話す内容も付いていけないが、自分より二十歳も年下の子に嫉妬しても仕方ないし、向こうは私の事なんて何とも思っていないだろうから、嫉妬心さえ湧かなくなってしまった。
昔、江里子組で望ちゃんという五歳年下の子に嫉妬心や対抗心をいだいた事を思い出す。嫉妬心さえ持てないのは本当のおばさんだと惨めになるが、嫉妬はなかなかエネルギーを使うので、嫉妬しなくていいのは体力も気力も使わなくて済むので案外楽だ。
そう言えば咲さんが私に嫉妬し、激しく対抗してきたものだ。さぞかしエネルギーを使い、疲れていた事だろう。咲さん、お疲れ様でしたねえ。
ああもう若い子なんて、どうでもいい。ただ毎日きちんと仕事をこなせて、毎月きちんと給料をもらえ、生活が出来れば、何でもいいやと開き直りの精神が生まれてきてしまう。
私だって若い頃は、今のあんたらよりずっと綺麗でスタイル抜群で、稼ぎも良く、機転も効き、みんなに可愛がられ、えこひいきされ、誰より輝いていたんだ、とののしりたくなるが、ののしってもしょうがないので黙っている。
本当にもう、若い子なんて大嫌いだ。
誰も祝ってくれない四十三歳の誕生日に、久し振りに銀座に行ってみた。そういえば小さい頃からは勿論、東京に出てきて最初の誕生日も誰にも祝ってもらえない人生だった。共に暮らした彼が十七歳の誕生日を祝ってくれた甘い思い出が蘇る。幸せだった。だがその恋も長続きしなかった。彼が私を愛してくれたのは、ほんの数カ月だった。
その後クラブ勤めをしてからは毎年多くのお客さんに盛大に祝ってもらえ、誕生日が楽しみになった。さびしい幼少期と少女期を過ごした私に神様がご褒美をくれたのだろう。私の宴はとっくに終わったのだ。もうご褒美をもらえる年でもない。
新橋駅を降り、並木通りをゆっくり歩く。懐かしかった。私の青春と言っていい場所だから。二度とクラブ勤めは出来ないし、したいとも思わないが、若い頃にタイムスリップしたような不思議な感覚があった。
クラブ江里子が入っていたビルの前で立ち止まり、しげしげと見上げる。看板はなくなっていた。知らない名前のクラブの看板があり、ああ、クラブ江里子はなくなったのか、移転したのか、どっちかな。移転ならまだいいな。閉店より、と思いをはせる。クラブ摩耶も、クラブ深雪もなくなっていた。
江里子ママは今もこの銀座のどこかで働いているのかな。
京子ちゃんや奈々ちゃん、そして咲さんはどうしているのかな。
ボーイ長は元気かな。
麻耶ママ、深雪ママ、馴染みのお客さん、私の為に飛んで来てくれた常連さんはどうしているのかな。
誰か私を覚えていてくれる人はいるかな。
黙って突然辞めたりして悪かったな。
目黒のアパートも突然退去して、大家さんもさぞかし困っただろう。
あれからあっという間に十七年も経っちゃった。
昔は早く早くって思っていたけど、今はゆっくりゆっくりって思うようになったな。年を取るってこういう事なのかな。もうこれ以上年を取りたくないよ。時間さん、ゆっくり進んでおくれよ。
勤めていた画廊もそのままだった。思い切ってドアを開けて入ってみる。知らない若い女の子が受付に居た。かつてそこは私の席だった。
「社長はいらっしゃいますか?」
と、声をかけた所、誰だろうと言う顔をしながら奥へ行き
「社長、お客さんです」
と、言っている。十八年分太って、頭も剥げ、随分なおじいさんになった社長がひょっこり顔を出す。
「以前お世話になった山路です」
と挨拶をしたら
「あれえ、山路さん元気そうだねえ」
と、喜んでくれた。
「今日、近くまで来たので寄ってしまいました」
と言った所
「ああそういうの、本当に嬉しいよ。山路さん、今仕事は何しているの?」
と聞いてくれた。私の現状を心配してくれているのだろう。
「小田原にある、画材を扱う会社で働いています」
「そうだったんだ。うちで得た知識が役に立ってくれているかな?」
「はい勿論。ここで働かせていただいたお陰で、今の会社に採用してもらえたようなものです」
「そうか、なら良かった。そういう良い話ならいくらでも聞きたいよ」
「お陰様です」
「山路さん結婚は?」
「いえ、まだ独身です」
「そうだったんだ。だけど山路さん幸せなんだね。こうして辞めた会社に来るって事は」
「そこもお陰様です」
ここを変な辞め方しなくて良かった。江里子組はある日突然辞めてしまい、迷惑をかけ、もう二度と顔向け出来ないけれど、こうして辞めた所に来られるのはこっちも幸せだ。
「お仕事中に済みませんでした」
「いいんだよ。山路さん、元気でね」
「はい、社長もお元気で」
画廊の社長と笑顔で分かれ、温かい気持ちのまま有楽町駅へ向かう。
そして帰りの電車での事、反対側の電車内に母と男性の姿を見た。その男性とどこかへ行った帰りらしかった。還暦に近い割には綺麗だったし、新しい彼氏も悪い人ではなさそうだった。一メートルも離れていないのに、母は私に気付かず、彼氏と何か話している。やがて電車はそれぞれの方向へ走り出した。
私は去っていく電車を黙って見送り、小田原へ向かった。
ああ、今日は神様からふたつも誕生日プレゼントをもらえた。ひとつは画廊の社長に良くしてもらえた事、もうひとつは一瞬といえども、母に会えた事。ああ有り難い。大きな花束や総額五十万くらいかけて作ったレイよりずっと良い。モノではなく、チップ等のお金でもなく、人との接触に幸せを感じるようになれた。
鴨宮のアパートに帰り、日常に戻る。地味な毎日だが、この年齢になるとやはり安定を求めてしまう。そうだ、ぎりぎりの所で華やかに生きているより、明日も明後日も来年も、地に足のついた暮らしをしている方が良い。ひとりぼっちでも。
会社で若い子が
「この会社、地味だし、転職しようかな」
と言うのを聞くと羨ましく思う。そうだね、あなたは若いから、どこでも雇ってもらえるだろうし、未来も希望もたくさんある。花で言えばつぼみなんだろうしね。何だって出来るし、なりたい自分になれるよ。私は年だからもうここに居るしかないけど…。自分を枯れた花、とまで思いたくないけどね。
結婚ってしてみたかったな。会社で旦那さんの悪口を言う女性社員ってたくさんいるけど。子どもも生んでみたかったな。自分の子を馬鹿呼ばわりする人も多いけど。
今からでも誰か私を妻に選んでくれるかな。子どもを生ませてくれるかな。そんな日が来るといいな。今ならぎりぎり間に合うかも…。
会社の男性陣はもうみんな結婚しているし、仕事以外で誰かと知り合う事は少ないし、出会いがないんだよな。クラブでは毎日が出会いの連続だったし、みんなと恋愛しているような気がしていい気になっていたけど…。
そう言えば、私は何年も舞、と呼ばれる事に慣れており、何かそれが自分の本当の名前のような気がしていた。江里子ママが付けてくれた名前でもあるし、クラブ江里子では天使のように舞う私でいられたし。
小田原のクラブでも舞という源氏名にこだわった。だが水商売を辞め、本名で働くようになり、最初は山路さんと呼ばれる事に別の意味で不慣れだった。だが本名で働くようになってからの方が格段に運勢は良くなったような気がする。
不思議だったが、水商売の月収二十万ではやっていけなかったが、会社勤めで得られる月収十八万ではどうにかやっていけた。年に二度、三十万円ほど貰えるボーナスは、ないものとして貯金した。毎年一万円ずつ昇給してもらえるのも心から有り難かった。私の金銭感覚がまともになったという事か?
ケーキ店やレストラン、画廊で働いた感覚が戻って来た。
会社の忘年会に出席した時の事。ビンゴの景品で、電子レンジを当ててしまった。
何と、くじ運が良い事!
社長は電子レンジでご飯が炊けるプラスチック容器を当てた。
「山路さん、これ良かったら貰ってくれる?私、炊飯器あるから要らないし」
そう言われ、有り難く受け取った。それは二重構造になっており、といだお米と適量の水を入れれば、たった十二分でご飯が炊けるスグレモノだった。私は電子レンジや炊飯器どころか台所用品をほとんど持っておらず、こんな便利なものがあるなんてと驚いた。勿論二合炊きで、大量には炊けないが、それでもひとりならじゅうぶんだ。ちょうど市販の弁当に飽き、手料理を食べたいと思っていた所だったので、渡りに船だった。
「山路さん、どうせ料理なんてしないんでしょ。これで少しはしなよ」
そう言って、社長は笑っていた。その通りだったので返す言葉がなかったけれど…。
電子レンジがアパートに配達された日、いつも行く弁当屋ではなく、スーパーへ行った。お米を一キロと味噌、豆腐や魚、小松菜を買い、アパートへいそいそと帰る。
米をとぎ、水を吸わせる為に時間を置く。その間に部屋を片付ける。何だかワクワクしてしまう。電子レンジに容器を入れ、タイマーを十二分に合わせる。その間に豆腐の味噌汁を作り、小松菜を茹で、魚を焼く。
チン!さあご飯が炊きあがった。きちんと炊けているか、ドキドキしながらレンジから取り出し、蒸れるのを待つ…。
…感動した!
こんなにおいしいものを食べたのは久しぶりだと本気で感動した!
ニコニコと後片付けをする。さあこれからは毎日自炊をしよう。こんなに楽しくておいしいなら。勿論体にも良いし、経済的だし。
それからは料理が楽しみになった。料理は工作のようで楽しかった。今まで何故やらなかったのだろう。
料理は私のたいせつな趣味になった。
店舗に会社員風の三十歳前後の女性客が訪れた。画材を見ながらあれこれ悩んでいる。あまりにも長い時間そうしているので見かねて声を掛けた。
「良かったら相談に乗りましょうか?」
彼女は困ったような、嬉しそうな顔でこう答えてくれた。
「今度、絵画教室へ通う事にしたんですよ。でもどれがいいかよく分からなくて…」
「まあ、そうだったんですか」
「水彩画の優しいタッチが好きで、水彩画コースを選ぶつもりなんですけど」
「お任せください」
そう答え、初心者向きの絵の具や筆、スケッチブック等を何点か並べ
「お客様がお好みの物をお選び下さい」
と言った所、目を輝かせてこれとこれ、と即座に選んでくれた。
決断力はあるんだなと思っていると、私が話しやすかったのか、高校を卒業後、就職試験にことごとく落ち、仕方なくフリーターをしてきた。去年、二十九歳にして初めて正社員採用して貰え、続けられ、先日初めてのボーナスを貰えた。フリーターではボーナスもないので、本当にそのボーナスが嬉しく、何か為になる事に使いたいと思い、絵画教室へ通う事にした。ずっとお金がなく、趣味も持てず、親にも心配をかけたが、これからは地に足を付けて生きていける予感がする、この絵画教室をきっかけに新しい自分に出会えそうな気がすると、本当に嬉しそうに語ってくれた。
「本当にそうなると良いですね。応援しています」
と言った所
「有難うございます」
と、目を輝かせて即答してくれた。そのきらきらした眼差しを見て、ああ、この人は昔の私だ、と思った。会計を済ませ、商品を渡し
「有難うございました。またのご来店をお待ちしております」
と心から言った所、彼女は笑顔爛漫で、何度も振り返りながら帰って行った。この人が幸せでありますようにと願わずにいられない。
改めて、接客業は私の天職だと思った。
そしてその時は気づかなかったが、様子を見てくれていた社長が、翌月の人事で私を売り場責任者に抜擢してくれた。
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