第六話 真っ黒い鳥

六年振りに坂戸に帰った。アパートはそのままだった。相変わらず引っ越しせずにいてくれた母親。

「ああ、お帰り」

 いつかとまったく同じ言葉だ。六年ぶりに帰って来てお帰り、じゃないだろう。簡単に事情を説明し、逃げるよう説得した。

「あら、私は平気よ」

 だって。

「舐めない方が良いよ。相手は精神病院に入院歴もあるし、犯罪やって少年院も刑務所も入った事あるし、早く逃げてよ」

 母親は平然としている。

「住所まで言っていないんでしょう。なら大丈夫よ。トシくんに守ってもらうもん」

 だって。傍らで新しい彼氏も頷いている。

 ああもう、心配するまでもないのかな?四十歳過ぎて、また新しい彼氏かい?

 諦めてアパートを出る。坂戸駅で咲さんが待ち伏せしていないか、乗換駅や電車内で急に現れるんじゃないか、ヒヤヒヤしながら電車で目黒へ。目黒駅でも道すがらでも、やたらきょろきょろして挙動不審者のままアパートへ。

 留守番電話のメッセージランプが点滅している。ボタンを押すと、健さんの悲鳴のような伝言が再生された。

「舞、今すぐ逃げてくれ。克子が包丁を持って舞の所へ行った。タクシーに乗って、もう行っちまった!一刻も早く逃げてくれ。克子を人殺しにしたくない!」

 どうして力づくでも止めてくれないんだよ!それに咲さんの心配ばっかり、私はどうでもいいんだろう。

 庇ってくれないなんて、やらせてやったのに!

 この時、江里子組で枕営業をして、そのお客さんが自分にそっぽを向き、麻耶組の女の子を指名するようになったと悔しがっていた奈々ちゃんという女の子の気持ちがよく分かった。

「もう二度とやっちゃ駄目だよ」

 あの時の自分自身の声が蘇る。同じクラブで働く仲間どころか、私自身の事だ。もう二度と馬鹿な事はしない、好きでもない人と変な関係にならないし、誘惑も挑発もしないと心に誓う。だが今、たった今、どうすればいいのだ?

 健さんは庇ってくれない。気分次第で言う事なす事コロコロ変わるし、言い訳したり、人のせいにしたり、自分さえ良ければいい人だ。殺されたり、顔に怪我をさせられたり、足に重い障害を負わされたり、包丁で切りつけられたりするのはまっぴらだ。狂った咲さんなら本当にやりかねない。ってか、本当にやる気なんだろう。ああどうしよう。本当に命を奪われる。ホステス生命どころか、人生を絶たれる。

 吹き込まれた時間から二十分ほど経過している。今にも咲さんが乗り込んで来そうな気がして焦った。

 何てこった!もう一刻の猶予もない。この部屋も住めない。引っ越そう。幸い貯金がある。こんな事に使いたくなかったけど。

 江里子組ももう行けない。京子派に入るどころじゃない。給料も取りに行けない。贔屓にしてくれたお客さんや、江里子ママと別れるのはつらかったけど、命には代えられない。とにかく逃げるんだ。逃げる以外にもうどうする事も出来ない。


 誰にも何も言わず、通帳と最低限の荷物を持って小田原へ逃げた。あえて埼玉と反対方向へ。鴨宮にアパートを借りて暮らし始める。

 さすがにここまで咲さんも健さんも追いかけて来ないだろう。小田原にもクラブはある。銀座で何年も通用したキャリアがある。そしてまだ二十代。容貌も健在だ。客を惹き付ける自信はあった。

 だが、やはり銀座と小田原では客層が違った。本当に「全然」違った。

 その上、ちょうどその頃バブル経済が崩壊し、不景気の波が押し寄せ、客足は遠のき、あちこちでクラブはどんどん潰れていた。何度も店を変わり、何とか生き残ろうとしたが、銀座のやり方がこっちでは通用しない。恋人のような雰囲気で接客しても、何故か乗ってこない。

「逢いたいです。逢えますか?」

 という手口も、生活費をやりくりする手口も、癒してやる手口も、何故か通らなかった。何回店を変わっても、結果は同じだった。

 あの頃は分からなかったが、私が水商売に向いているのではなく、江里子組がたまたま私に合っていたのだ。物凄く相性が良かった。

 ああ私はつくづく幸運だったし、恵まれていた。そして本当に銀座という場所が好きだった。銀座に、江里子組に戻りたい。辞めた事が悔やまれてならない。

 銀座では咲さんが幅を利かせているだろうし、どこかで鉢合わせしたら本当に刺されそうだ。

 咲さんは実際人を刺したり、階段から突き落としたり、足に傷害を負わせたりした人だから、本当にやるだろう。舐めてはいけない。包丁で私の顔を切り裂くとも言っていたし。あんな人と友達だったなんて。ああ恐ろしい。

 …だが、私も悪かったかなって思うようになった。咲さんも酷かったけど、私ももう少し何かやりようがあったかも。黙って離れて京子派に入るとか、独立して自分の派閥を作るとか。

 何も咲さんがいちばん傷つく事をしなくても良かったな。全然好きじゃない健さんなんて、誘惑しなければ良かった。何であんな馬鹿な事をしたんだろう。それも悔やまれてならない。

 ってか、私は何年も恋なんてしていない気がする。お客さんと疑似恋愛し過ぎたせいで、麻痺しちゃったのかな。ああ、私は今まで何をしてきたのかなあ。私って何の為に生まれたのかな。

「若気の至りの子なんでしょう」

 って、おじいちゃんとおばあちゃんに言われた言葉が蘇る。本当に私の人生って何なのかな。私は若気の至りで生まれただけの、何の取り得もない、本来生まれてきてはいけなかった人間だったのかなあ。銀座ではたまたま運が良くて、まぐれで売れたのかなあ。現にこっちでは全然売れないし、ママにも先輩にも友達にもお客さんにも恵まれないし、あんなに追い風吹いていたのに、向かい風になっちゃった…。

 

 あーあ、私の青い鳥はどこへ逃げちゃったのかなあ。

 真っ黒い鳥に変わっちゃったよ。


 その夜、不思議な夢を見た。

 私は暗いトンネルの中をずっと、仰向けに寝た姿勢のまま飛んでいた。ゴーっという騒音が耳元を過ぎる。何故か不快ではなかった。

 さっと意識がはっきりした。病院にいる。患者専用の憩いの場のようだ。

 そこで咲さんがパジャマ姿のまま他の入院患者と卓球をしている。リハビリを兼ねているのだろう。左手には痛々しく包帯が巻かれている。私のせいで神経を二本も切る大怪我をした咲さん。きっと心にも深い傷を負っている筈だ。悪かったな…。

 すっと近づいて行った。

「咲さん」

 そう呼びかけたら、私に気付いた咲さんが卓球の手を止める。

「咲さん、ごめんね」

 心から謝った。しばらく私を見ていた咲さんが、やがてにっこりと微笑み、一切を許すようにゆっくりと頷いてくれた。そしてそのまま妹を見るような優しい眼差しで私を見ている。

 ああ、いつか私の成人式をしようと提案してくれた時と同じ笑顔だ。

 その聖母のような笑顔に心を、心から救われる。

「咲さん、有難う」

 …あまりにリアルな夢で、目が覚めてからもしばらく動けなかった。

 ああ、咲さん、私を許してくれて有難う。どうか早く元気になってね。

 心からそう願い起き上がった。


 ついに来た。年を誤魔化してクラブ勤めする日が。若ぶっても本当に若い子にはかなわない。昔は年を上に誤魔化していたが、年下にさばを読むようになってしまった。

 見てきたアニメや、好きなアイドル等、色々突っ込んで聞かれると、必ず年はばれる。首じわって何だろうと思っていたけど、気が付いたら私の首にもくっきりとしわが付いている。目ざといお客さんが私の首を指してこう言う。

「この首じわ、何とかしろよ!」

 そう、三十歳を過ぎ、水商売は限界だった。この世界でいっときは売れたものの、年には勝てない。十代の子には確実に負ける。お客さんにもババア呼ばわりされるようになり、かつて自分が可哀想と思っていた年配ホステスの気持ちが分かるようになってきた。

 そのお客さんは、若いホステスには

「君は可愛くて綺麗で良いね。花で言えばまだつぼみだね」

 と優しく言い、私には

「お前はドライフラワーだ!早くいなくなれ!」

 と激しくいじめた。そういうお客さんは多かった。もう私の手の中に包んであげられる人は居なかった。昔はあんなに役職の高い人たちをこの手で包んであげられたのに。

 ホステスを枕芸者と間違えている人も多い。機転を効かして毎度かわしたが、どの人にもこの人にも見下されるのはやりきれなかった。

 若い子の憐れむ眼差しにも耐えられない。ママになりたいけど、経営のノウハウなんてよく分からないし、自分の店を出す程の度胸もない。昔は怖いものなしだったけど、今は失敗して貯金が無くなったり、借金を背負ったりするのが怖い。

 かといって、このまま雇われの身で三十五歳、四十歳になってもホステスを続けるなんて、そっちの方が怖いし、考えられない。

 月収も二十万前後で、これではやっていけない。貯金もどんどん減っていくし、将来を見込めない。大好きな仕事だったし、天職と思っていたが、もう限界だ。今こそホステスを辞めよう。

 酒でいかれた脳で必死に考える。私に何が出来るか?何とかして昼間の仕事に戻りたい。あの画廊を辞めなければ良かったのかも知れない。だが今更そんな事を言ってもしょうがない。大事なのはこれからだ。未来だ。さあ、山路美知留、どうする?


 どこかへ就職しよう。三十三歳、これがラストチャンスだ。学歴を高卒と誤魔化し、就職活動を始めた。だがうまくいかない。人は転職する時に、まったくの異業種より自分が経験ある仕事や、出来そうな仕事を選ぶものだ。だが何社受けても色よい返事は来なかった。昔はあんなに色よい話ばかり来ていたのに。ああもう自分で探すのは疲れた。

 そこで派遣会社に登録して働き始めた。派遣元の人が仕事を探してくれるのは有り難かった。それに派遣でも真面目にやれば社員としてスカウトして貰える。それを期待しての事だった。現に画廊では契約社員として直接雇用して貰えたし。

 派遣でなければ働けない企業に次々に行く。相性の良い企業を懸命に探す。

 どうか私を雇って。三十過ぎの私を、どうか雇って。そう願わずにいられない。

 この仕事嫌だけど、もしかしてもう後がないかも知れないという考えがしょっちゅう頭をよぎる。次はもっと酷い仕事かもしれないと思うとスパッと辞める勇気もない。だが嫌なものは嫌だ。辞めざるを得ない仕事ばかり来る。

 ああなんて事だ。仕事を選ぶ立場から、もらえる仕事にしがみつくようになってしまったなんて。大手を振って威張っていた私が、若い子に頭を下げるようになってしまったなんて。


 鏡を見る。すっかり自信を失った、卑屈な顔をした三十過ぎの女が映っている。

 あんなに若かったのに、あんなに輝いていたのに、あんなに綺麗だったのに、あんなに可愛がられたのに、みんなに愛されたのに、目力もオーラも何もない、おばさんになる寸前の自分がそこにいる。

 肌のきめは荒れ、しわもしみも毛穴も目立つし白髪もちらほら見える。お酒の飲み過ぎで下腹もお尻もたるんでいる。手のしわ、首のしわも目立つ。

 たったの十年で、人はこんなに変わるのか。

 自信のかけらもない、稼ぎは少ない、仕事は定まらない、楽しみもない、恋人もいない、友達もいない、夢もない、やりたい事もよく分からない、なんにも、なんにも、本当に、なあんにもない。

 自分が何の為に生きているのか、それすら分からない。若く綺麗なうちに何かで死ねば良かったのか?老いて醜くなってまで生きていたくない。もう死んでしまいたい。

 けれど死ぬ理由さえ、よく分からない。

 どうしてこうなったんだろう。

 それもこれもどれも何も分からなくなってしまった。


 ああどうか、誰も私を見ないで。

 こんなに落ちぶれた私を、誰も見ずに、目を背けて下さい。


 仕事は甘くない。人間関係で揉めたり、仕事自体が合わなかったり、何かしらで契約更新は出来ず、三ヶ月ごとに職場を変わる羽目になる。

 新しい所に行くたびに一から仕事を覚えるのはつらく、年下の上司や先輩に仕えるのもしんどかった。特に十歳も年下の子に教わったり、きつく当たられたりするのには、本当に耐えられなかった。一緒に働く若い子たちには、何このおばさんって目で見られてたまらない。おまけにみんな大卒。見下すような態度に毎日傷つく。

 何故こうなったのか、自分が若いうちに基盤を築いておかなかったのが悪いんだと、ひしひしと分かるが、それでも現状が悔しくてたまらない。

「派遣のくせに」

 何かにつけこう言われた。返事のしようがない。確かにそうだから。

「あなたは派遣だから」

 何度も言われた。返事が出来ない。悔しくてたまらない。派遣だって人間だ。派遣は初日の朝から何でも精通していて完璧に出来る訳ではない。

「派遣でしょ」

 はいはい、確かに派遣です。だから不満ひとつ言わずに働けってか?冗談じゃない。銀座の画廊も最初は派遣だったが、誰もそんな事を言わなかった。直接雇用契約を結んでくれたし、今考えれば物凄く恵まれていた。

 こんな所もう嫌だ、やっていられない。辞めてやるよ。ふざけんな!


 気持ちを切り替え、新しい派遣先に面接に行くたびにこう言われた。

「前の派遣先を何故辞めたのですか?何故更新しなかったのですか?」

 どうしてもそうせざるを得なかったからなのに…本当に困った。前の所も嫌だったけど、ここも嫌、そう言えばその前の所も嫌だった。

 ああひとところに落ち着きたい、そう思っていた頃、派遣先の上司にこんな事を言われてしまう。

「山路さん、うちの会社のみんなに、すっかり嫌われちゃったね」

 そんな事を言われても返事のしようがない。みんながあなたのこういう所が困るから直して欲しいと言っているよ、等言ってくれるならまだしも、それでは改めようも何もないし、ただ突き放されても否定されても困る。

 それに、この人たち私の事を嫌いなんだなっていうのは、接していれば何となく分かる。目つきや態度、言葉の端々にそれは表れるのだから。元々好かれているなんて思っていなかったのに、はっきりそう言われたのはつらかった。その人はとどめを刺すようにこう言った。

「みんな山路さんと仕事するのは嫌だって言っている。だから派遣契約、更新はないからそのつもりでいてね」

 黙って頷く。本当に居たたまれない。朝からそんな事を言われても、今日一日物凄く嫌な気持ちのまま働かなくてはいけない。夕方言われても嫌なものは嫌だが。ああもう一分もこんな所にいたくない。

 …と思っていたら、ちょうど会社に来ていた派遣元の担当者に、もっととどめをさすようにこんな事を言われた。

「山路さん聞いたよ、ここのみんなに嫌われているんだって?」

 …絶句する。

「はっきり言っとくけど、山路さんみたいな人を青い鳥症候群って言うんだよ」

 確かにその通りだと愕然とする。

「あそこに行けば青い鳥がいるだろう。こっちに行けば青い鳥を捕まえられるだろうって、三ヶ月ごとにあちこち訪ね歩いて…。契約更新した事なんて一度もないよね、あなた本当に、いい加減にしたら?」

 心底傷ついたが、その人たちの言う事は正しかった。本当にそうだ。私はいい年をして、あっちへ行き、こっちへ行き、青い鳥ばかり探して自分を顧みていなかったのだ。

 担当者は追い打ちをかけるようにこう言い放った。

「私が異動になって新しい担当者になったら、山路さんなんて、すぐにうちの派遣会社ごと首になるよ。まあその時は私が地方に逃がしてあげるよ」

 …全然嬉しくない。だったら尚の事、そうなる前に自分から派遣元ごと辞めたい。本当に返事のしようがない。

 だがその人の言う事は正しいと思えた。

 私は派遣元の事も、派遣先の事も、全然考えていなかった。昔は店やお客さんの事を常に考えて仕事をしていたのに。頭空っぽのまま働いていれば、そんな事を言われても仕方あるまい。

 それに自分では気が付かなかったが、何か変なプライドを振りかざしていたのかも知れない。思い当たる節があるとすれば、クラブホステスをしていると、どうしても浮世離れしてくる。私たちホステスは店の商品であり、大事な売り物だ。スタッフは丁重に扱ってくれるし多少のわがままも許してくれる。店はどこもかしこも綺麗で明るく華やかで非日常的空間だ。まして私のように何年も売れに売れた時代を経験してしまうと、周りも何も言わなくなる。そんな特別扱いに慣れた浮世離れぶりが目に付いて嫌われたのだろう。

 

 更に傷つく事は重なった。

 その月いっぱいで契約が切れるもうひとりの派遣の女の子はたいそう好かれており

「社員になれば良いのに」

 だの

「契約更新してあげるよ。あなたみたいな良い人材」

 などと言われ、みんなに引き留められていた。みんなその人の為にお金を出し合ってプレゼントを用意したり、寄せ書きをしたり、別れを惜しんでいる。私には何もしてくれないと言うのに。二人同時に辞める人がいて、片や特別扱い、片や何もしてもらえない、こんな惨めな話はない。

 勤務最終日、挨拶をするその彼女を囲んでみんなが大きな花束や寄せ書き、プレゼントを渡す中、私はあまりにも居たたまれず

「私、今日までです。お世話になりました」

 とだけ言い、逃げるように走り去った。そうするしかなかった。

「何、あれ」

「ああいう辞め方をする人なんじゃない?」

 という声を背中に聞いた。ってか、嫌でも聞こえた。振り向かずに会社を走り出る。

 ビルを出て心底ほっとする。もう二度とここに来なくていい。ああ良かった。


 深く傷ついた心のまま、次に派遣されたのは、小田原駅前にある画材を扱う会社だった。クラブ勤めをしていた頃に、その会社の前を何度も通っていたし、一階フロアに画廊と店舗があるにも関わらず、何故か私のレーダーに引っ掛からなかった場所だ。

 だが、派遣元の担当者(その人は、いい加減にしたら?と言った人とは別の人だった)と、その画廊前で待ち合わせをした時に、ふっと気持ちが和むような感覚を覚えた。ここなら直接雇用してもらえるかも知れない、そんな良い予感がした。

 そして、応対してくれた女性社長にも強く惹かれた。

「前の職場を何故辞めたのですか?」

 とは、一言も聞かず

「何故弊社を選んだのですか?そして弊社で何をしたいですか?」

 と、「これからの事」を聞いてくれたのだ。

「接客が好きで、絵が好きだから選びました。そして仕事を通してお客様の喜ぶ顔を見たいです。その為に働きます」

 と、間髪いれずに返答できた。

 そうだ、私は接客が好きなのだ。ケーキ店でも、レストランでも、画廊でも、クラブでも、私の接客でお客さんが喜んでくれる顔を見るのが好きだった。本当に大好きだった。

 社長が頷く。

「即決で採用します」

 そう言ってくれた。私もこういう人がトップならこの会社は大丈夫と確信を得る。

 何か、江里子ママに再び会えた様な気がした。

 そして自分が本来何をやりたいのかもようやく分かった。

 そう、それは接客なのだ。


 そして働き始めてから三カ月後には正社員(契約社員ではなく)として雇ってもらえた。画廊で得た知識が見事に活きた。新聞を毎日読む習慣は続いており、社会常識は一応整っていたし、外人のお客さんが多く、簡単な英会話が出来た事も強みになった。そして何より、浮世離れした所を封印しようと最大限の努力をした。

 心からほっとする。もう二度と新しい所に行くのはごめんだ。

 会社に保証人を立てる為、久し振りに坂戸へ帰った。

「私は就職するの。保証人になってくれる?」

 そう言って書類を差し出す。じっと見ている母親。

「ここに名前書けばいいの?」

 そう言いながらサインしてくれた。五十歳を過ぎ、雇われママをやっているらしい。

 何か、少しだけ、いたわる気持ちが生まれる。

「有難う」

 そう言って、アパートを出る。何も言わず黙って見送る母親。そこは変わっていなかった。

 

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