第五話 修羅場
そうそう、ひとり暮らしをしていると、自然に時間管理や金銭管理が出来るようになる。家事も自分がやらなければ誰もやる人はいないから、段々出来るようになる。まったく家事をしない母親に育てられたから、最初は何をどうしていいか分からず立ち往生したけどね。失敗して覚えていったって感じかな。
天気予報を見て、洗濯をする。ごみも仕分けして曜日ごとに捨てる。毎日掃除機をかける。ユニットバス、特にトイレをこまめに掃除し、換気を良くしてカビが生えないようにする。
子どもの頃から汚い部屋で育ったせいか、喘息になり、止まらない咳に悩まされたものだけど、ひとりで暮らしながら掃除洗濯をこまめにするようになってから、だいぶん良くなり、咳もあまり出なくなった。やっぱり部屋が汚い事が原因だったんだって改めて思った。
喘息は本当につらかったし、二度とならないよう常に掃除していた。やっぱり清潔にしている方が気分良かったしね。小学校の先生がうちを一日がかりで片づけてくれた事を思い出す。家事のやり方は、あの時あの先生に習ったって感じかな。
掃除も洗濯も嫌いじゃなかったよ。整理整頓も雑誌を見て実践していた。すっきりしたし、とにかく喘息が怖かったからさ。料理だけはしなかったけど。
備え付けのワンドア冷蔵庫にはヨーグルトや飲み物が入っていた。テーブルの上にはパンが。これは幼い頃から見慣れた景色って感じだったかな。
電気コンロではあまり料理しようって気にもならず、お弁当で済ませていた。手作り料理食べた方が健康的だし、経済的にもいいんだろうけど、なんとなくやる気になれなかった。食器やフライパン等は勿論、冷蔵庫もワンドアではなく、冷凍庫付きのツードアが良いだろうけど、色々買い揃えるのは大変だしね。手料理は咲さんに食べさせて貰えばいいや、なんてね。
お弁当屋やスーパーで買い物する時に、この人たちは時給いくらで働いているのかなって考える事があった。多分七百円とか、それくらいだろう。私はその二十倍以上もの時給を貰っている。これがいつまで続くのかな、いや、ずっと続いて欲しい。続かないと困る。果たして私はそんな時給でいつか働く日が来るのだろうか?
稼ぎは良くとも、調子には乗っていなかった。なるべく無駄な出費は抑えていたよ。
タクシー通勤なんてとんでもない(奈々ちゃんはタクシー通勤していた!)。電車で必ず行き帰りしていた。それも定期券使って!
ホストクラブなんて、もっととんでもない(咲さんはホスト通いしていて、私にも行こうって誘ってきたけど断ったよ)。そんな事にせっかく稼いだお金を使うなんて勿体ない!
男に貢ぐなんて、ますますとんでもない(清美ちゃんって子は、一緒に住んでいる役者志望の彼氏に生活費は勿論、オーディションを受けるお金やレッスン料まで出してあげていた。なんて勿体ない!)。
良いマンションに引っ越すのも気が進まないな(香織ちゃんは日当が上がるごとに広いマンションに引っ越していた)。
整形手術にお金を使うのもどうかと思うよ(美香ちゃんは、整形マニアであちこちいじっていて、顔がどんどん変わっていくの!最初、店に入って来た時はいかにも田舎の子って感じだったけど、素朴で可愛かった。今はマネキン人形みたいな顔になって怖いよ!)。
京子ちゃんは独身で恋人もいないし実家暮らしって言っていたけど、親が二人とも働かない上にお兄さんと弟まで十年以上引きこもっているとかで、いくら働いても稼いでも自由になるお金なんて微々たるものだ、独身でひとり暮らししながら会社勤めしている人の方がまだお金持っている筈だって嘆いていた。そう言えばしょっちゅう同じ洋服着ているし。私より三つ年上だけど、二十六歳で一家の大黒柱なんてきついよね。これからどうなるんだろうってこっちが心配になるよ。
江里子ママは、旦那さんの暴力が原因で離婚し、クラブ勤めをしながら懸命に育てたひとり娘が非行に走ってしまい、本当に大変だったらしい。その上、今から十年前、まだ中学二年生なのに家出をして以来、まったく消息不明で生きているのかさえ分からないんだって。それは旦那さんの暴力以上にしんどいよね。だからかねえ、非行に走った若者の支援活動をしたいような事を時々言っている。水商売らしからぬ発想だよね。娘さんへの贖罪なのかなあ。今も同じマンションに住み続けて、娘さんがいつ帰ってきても良いようにしているんだって。そこはちょっとうちの母親を彷彿させるわ。
麻耶ママは、結婚、離婚を繰り返し、それぞれ父親の違う四人の子を育てているんだってさ。今年三十五歳だけど、麻耶組のボーイと同棲を始めたらしい。タフだねえ。また妊娠したら産むのかねえ。懲りないんだねえ。生活費は麻耶ママが出しているのかねえ。
深雪ママは、恋人の借金の保証人になり、その人に逃げられ、自分で二千万円もの返済をしているらしいよ。恋人とはいえ、よく人の借金の保証人なんかになったねえ。私には考えられないよ!
江里子組のボーイ長は、高校生の時にお父さんが事故死し、お父さんが経営していた会社をお父さんのお兄さんに乗っ取られたんだって。そのお兄さん、ボーイ長のお母さんまで奪って結婚し、ボーイ長と妹を家から追い出したらしいよ。そんなの人間のする事じゃないよね。伯父さんも酷いけど、お母さんも酷いよ。お母さん、伯父さんの言いなりになって、黙って結婚して、黙って会社で働いて、売り上げを黙って新社長の伯父さんに渡して、全然逆らおうとしないんだって。ボーイ長は、まだ中学生だった妹を守る為に高校を中退して夜の世界に入り、死に物狂いで働いて妹だけは高校に行かせたんだってよ。なのにその妹、お金にだらしなくて、高校を卒業後、就職もせずにフリーターしながら洋服やアクセサリー等、ローンを組んでまで買い漁り、ちっともボーイ長の思いに報おうとしないんだって。酷いよね。そのローンはボーイ長が払っているみたいだし。
ああみんな、何でもないような顔をしてはいるけど、大変な人生。
私も陰で何て言われているか分からないけど。
私はお金の使い方にしても、生活の仕方にしても、色々な雑誌や新聞で得た知識をフル活用していたよ。生活費も予算を決め、一週間ごとに袋分けして、その範囲内で使っていた。袋分けを四週間でする人も多いけど、私は五週間で分けていた。四週だと月によって足りなくなるけど、五週なら必ず余りが出るからね。この余りを必ず貯金していた。
急な出費に備えて予備金も用意していたけど、なるべく手を付けないように気を付けていたし、使わなかったら一円たりとも馬鹿にせず(一円を嗤う者は一円に泣くのだ)、貯金箱へ入れ、月末に口座へ入れる。これを繰り返していた。貯金は千五百万円を超えていた。
口座のお金がどんどん増えていくのは楽しかったし心強かった。この貯金が何かの時に私を助けてくれるから大丈夫ってね。
予定外収入があれば、尚の事貯金をした。稼いでいるんだから少しくらい使ってもいいやなんて思わない、稼いでいるんだから、尚の事、貯金!これに千円使うなら、他の事に使えるかな?等考える。衝動買いはしない。似たようなものは買わない。とにかく貯金。貯金がない為にアパートひとつ借りられなかった経験がここに活きている。
ふっとさびしくなる事がしょっちゅうあったけれど、今はこのままいくしかないって思っていた。何かを変えるのは怖かった。このまま何も変わらず、年も取らず、クラブ江里子でずっと働いていられたらいいな。
年を取るのは怖い。年を取るなんて考えられない。自分が三十歳になるとか、そんな事信じられない。年を取り、容姿が衰えたり、ホステスが出来なくなったりするのは考えられなかった。
私はずっと若く綺麗でいよう。一流ホステスでいよう。銀座にいよう。スーパースターでいよう。舞台の中央でスポットを浴びていよう。
その為にはどうすればいいんだろう?
ん、分からない。
そうそう、先月江里子組に入って来た望ちゃんって女の子、十八歳だって。私より五歳も若いなんて、おお妬ましい事。だけど私も負けていない。
今、鏡に映る二十三歳の私は我ながらつくづく美しい容姿に恵まれている。
目鼻立ちは整っているし、肌のきめも細かい。しみひとつ、しわひとつ、毛穴ひとつない、絶世の美肌だ。
自信に満ちた表情も良い。目力だって凄い。銀座の一流ホステス特有のオーラもある。
首じわ?何それ、私の首には一本のしわもないわよ。
髪も艶があり、白髪一本ないし、髪の毛があまりに多くて地肌が見えない程だ。一本一本にこしがありたっぷりとしている。
スタイルだって抜群だ。華奢な割に胸は豊かだしウエストは完璧にくびれている。手足は細く、長く、引き締まっている上に均整も取れている。ヒップもキュートで上を向いている。典型的なモデル体型だし、美人顔だ。どのお客さんも夢中になる筈だ。
望ちゃんなんかに負けるもんか。私は風邪を引いたってマスクなんてしない。せっかくの美貌を隠すなんて勿体ない!
ああずっとこのままでいたい。絶対に年なんて取りたくない。
神様、どうか私をこのままにしていて下さい。
…私は十年後、二十年後、どうしているのかな…?
二十五歳の時、画廊を辞めたよ。私も江里子組でナンバースリーと呼ばれるようになり、この道でやっていけるって自負があったし、掛け持ちはそろそろきつかったし、夜だけで月収百万円を超え、じゅうぶん稼いでいるし、貯金も三千万円を越えたし、時間も欲しいし、だから良いんだ、くらいに思ってね。
また漠然とだけど、料理好きの咲さんが将来小料理屋でも開いてくれて、そこで働かせてもらえれば、なんて思っていたっていうのもあるけど。青い鳥は絶対に私から離れていかないだろうって自信もあった。
時代は平成に移っていた。ちょうどバブル真っ盛りで、どこのお席でも札束が飛び交っていた。これがずっと続くとは思っていなかったけど、毎日毎日指名もチップもたくさん貰えて、お財布はいつもパンパンで、時々私って何でこんなにお金あるんだろう、こんなに稼いでいるんだから、このアパートは卒業しようかな、今の稼ぎなら、マンション買うくらい何でもないし、咲さんたちと同じマンションを買えば原宿に住めるし、箔が付くかも、なんて思ったよ。
座った途端、ボーイに向かい
「おいっ、舞、呼べ、舞だ、舞!」
と威丈高に言うお客さんもいたし(この人は後に江里子ママから出入り禁止を喰らった)
「舞、俺の女になればマンションくらいプレゼントしてやるよ」
だの
「舞、舞、お前さえその気になればどんな贅沢もさせたる」
だの、鼻息荒く言うお客さんもいっぱいいた。
だけど誰かの愛人になってマンションを買ってもらったり、贅沢をさせてもらったりするのは嫌だった。あくまで自分だけの力で生活を維持するのが私のプライドであり、ステータスだったから。昔、女友達の家に居候して惨めな思いをした経験が、何が何でも自立する、という考え方にしてくれていた。
もうひとつ、洋服やアクセサリー等欲しいものもいっぱいあったし(ボーイ長の妹じゃないけど)、美容院は毎日、エステもしょっちゅう行っていたけど、毎月最低でも六十万円貯金をしていた。もらったチップもないものとして貯金した。チップだけで四十七万円貯金できた月もあったし、いちばん奮っていた年は九百七十四万円貯金出来た。
お金がない為にアパートひとつ借りられず、仕方なく坂戸に帰るとか、誰かの家に居候する肩身の狭い思いをしたお陰だ。あの経験に感謝しよう。
私の年齢で三千万円以上貯金を持っている人は少ない筈。
この貯金の額も、私のプライドだった。
そうそう
「やっぱり銀座の女の子は違うね」
だの
「君くらい美人でスタイル抜群ならモデルになれるよ」
だの
「勿体ない、女優になればいいのに」
って、言葉もよく聞いたよ。
けれど私は芸能人なんてなる気はない。あくまで銀座の一流クラブの売れっ子ホステス、それが私の夢であり、自分の意思を貫くのが私だったからね。
私はそういう言葉を聞くたびに、堂々とこう言い切った。
「私、クラブ江里子で働く為に生まれたんです」
月により京子ちゃんや咲さんを抜いて、ナンバーワンになった事だって何度もあった。
「今月も舞ちゃんがうちの稼ぎ頭よ」
というママの言葉を誇らしく聞いたものだ。少しくらい嫌な事があったって、店に出れば忘れられる。お客さんたちと会話しているうちに吹き飛ぶ。だから私は今日も店に出る。
そう、クラブ江里子は、私の運命のクラブだった。
ある週末、咲さんのマンションに泊まりに行った時の事。
風呂から上がった咲さんに
「舞、今のうちにお風呂入っちゃってよ」
と言われ、風呂場に向かった。脱衣所で服を脱いでいると、玄関のドアを開閉する音が聞こえ、
「ただいまー」
って、健さんの声がする。ああ健さん帰ってきたんだ、と思っていたら、脱衣所のドアがぱっと開かれた。
「あっ」
と、お互いびっくりする。手を洗おうとした健さんと、素っ裸の私。
「ごめん」
そう言って慌てて閉める健さん。だが一瞬かすめるように、私の裸体に視線を走らせた。恥ずかしいやら、なんやら。でも健さんもわざと開けた訳じゃない。
…風呂から上がり、咲さんに借りたパジャマを着てリビングへ行くと、普段着に着替えた健さんがぺこぺこ頭を下げながら笑っている。
「舞ちゃん、悪かった。知らなくて開けたんだ」
「いいよ、健さん」
笑って許した。咲さんが笑って言う。
「健ちゃん、若い子の裸、見たかったんでしょ」
健さんがふざけて答える。
「うん、実は」
三人で笑い転げる。おかしかったよ。
…これが、三人で心から笑って過ごした最後のひと時だった。
それ以来、健さんの私を見る目が変わった。ずっと妹を見るお兄ちゃんの眼差しだったのに「好きな女を見る目」に変わっちまった。そりゃ戸惑ったよ。私は健さんなんて全然好きじゃないからね。
勿論咲さんがそれに気付かない筈がない。警戒したのか何か知らないけど、咲さんが私を変に避けたり、奴隷みたいに扱うようになったり、それも戸惑った。月によって私が咲さんを抜いてナンバーワンになるのも気に入らなかったようだ。応援するし可愛がってもやるが、私にはあくまで自分の下でいて欲しい、それが咲さんの考えだった。
江里子ママは決してそんな扱いしなかった。江里子ママは、いかにも銀座で生きてきましたって感じもするし、トップに立っているだけに厳しい面(お行儀の悪すぎるお客さんを出入り禁止にするとか、やる気のないホステスやいい加減な仕事をするボーイを首にする)もあったけど、生活苦に喘ぐ若い女の子を雇い、アパートを借りてあげたり、面倒を見てあげたり、相談に乗ってあげたり、水商売の人と思えないほど優しく堅実な面もあった。いつまでもこの仕事ではなく、いずれ非行に走った若者の支援活動したいって考えも持っていたしね。
けれど咲さんはいつまでもこの仕事を続けて、良い思いをし続けたいって言っていたし、自分が怒らせたお客さんのフォローを私にさせたり、自分が付けないとか、付きたくない嫌なお客さんの相手を私にさせたりした。それも平気で。
マンションに遊びに行っても、私の接客についてしつこく説教してきたり、掃除させられたり、肩や足もみさせられたり、滅茶苦茶に散らかった台所の後片付けをさせられた事もあったし。ずっと我慢していたけど、不満は募っていった。
「私は時給二万円もらっているんだもん!」
とか、平気で言うし。
こん畜生!って、思ったよ。私は時給一万七千円なのに!
しかもその後、咲さんがトイレに立った時に、健さんがこんな事を聞いてきたし。
「舞ちゃん、夕べ俺が眠っている時に、俺にキスしたんだって?克子が言っていたけど」
克子というのは咲さんの本名だ。びっくりして言う。
「そんな事、していないよ」
健さんが不思議そうに言う。
「へえ、克子が言っていたんだけどなあ」
本当に不愉快だった。咲さん、いい加減にしてくれ!そうなってもいいのか?
でね、よせばいいのに、こっちも咲さんをギャフン!と言わせてやろうって思っちゃったの。咲さんがいちばん傷つくのは、健さんを誘惑する事だって分かっていた。
だからあえて言ってやった。
「もう帰るから、送って行ってよ」
「いいけど、克子の支度待たなきゃ」
「そうじゃなくて、健さんだけで送って行ってよ」
健さんが不思議そうに私を見ている。…たっぷり間を取ってから囁いた。
「送り狼、してくれて、いいよ」
健さんが慌てふためく。見ていて面白かった。
咲さん、最初は好きだったけど、今はもう嫌いだよ!だから離れる前に健さんを弄んでやる!その後は京子派に入ればいい話だ。
現に京子ちゃんも、私が咲さんにいじめられているのを知っていて
「舞ちゃん、私の派閥に入りな」
って、言ってくれたし。私には他に当てがあるんだ!
「朝まで一緒に居ようよ」
健さんが唖然としている。熱でもあるのか?って、顔に書いてある。本当に面白かった。
「健さん、私を選びなよ」
健さんは面白いくらいあっさり落ちた。咲さんに飽きていたのか、私の前で咲さんの悪口ばかり言うようになった。
「あいつ全然約束守らない」
だの
「毎月二百万近く稼いでも、しょっちゅうホストクラブで遊んで大金使ってりゃ、しょうがねえだろ!」
だの
「この前も、一緒に焼き肉食いに行った店で、店員がたれをこぼして自分の洋服を汚した時、気を付けてよ、あんたの給料じゃ払えないんだからねって大声で怒鳴るし、もう恥ずかしくて嫌だよ」
だのと。
おーおー、その調子でこっちに来なよ。咲さんごと、あんたも捨ててやるからさ。
私は咲さんの留守を狙ってしょっちゅう原宿のマンションへ行った。行くたびに健さんは魂を抜かれたような顔で出迎える。何食わぬ顔でするりと玄関に入る私。澄ました顔で健さんの心にもするりと入る。
「俺、克子がいるのに…」
そう言いながら、どんどん私に傾いてくる健さん。
躊躇しながらキスをし、躊躇しながら私の体を触る健さん。もっとおいで、もっとこっちにおいで。あなたなんか全然好きじゃないけど。
行くたびに五万円ずつお小遣いもくれたし(それも貯金した)、高いブランデーや高級菓子をくれたり、新しい洋服やブランド物のバッグも買ってくれたし、自分が勤める赤坂のお店のお客さんを江里子組、それも私のお客さんとして紹介してくれたり、色々と便宜をはかってくれるようになり、しめしめって思っていたよ。
咲さんがいない時間を狙って電話を掛ける。
「逢いたいです。逢えますか?」
健さんが電話口で息を飲むのが分かる。
「逢いたいです。今から逢えますか?」
健さんが受話器を持ったまま、時間のやりくりをどうつけようか考えているのが分かる。
「逢いたいです。逢えますか?」
そう、これが私の常套句。疑似恋愛。
しょっちゅう私に電話を掛けてくるようになった健さん。
「俺だけど」
「なあに?」
「克子が今、風呂に入っているから」
「私の声、聞きたかったの?」
「そう」
まあ中学生みたいな事するわね。
「舞」
「なあに?」
「俺も逢いたい」
「明日、咲さん日本舞踊の稽古で、一時には出かけるんでしょう?その頃行くよ」
「分かった。待っている」
翌日、一時半に咲さんのマンションへ。玄関を入るなり待っていましたとばかりに私を抱きすくめる健さん。靴くらい脱がせろってーの。無我の境地って顔でキスをし、体を触る。最後の一線を越えたがっている。だがためらっている意気地のない健さん。
「最近、克子いらいらしているだろう?」
「うん、分かるよ」
「今朝、言われたよ。健ちゃんが舞に恋しているからじゃないって。そんな事言うの、お初(はつ)!」
「そうだよって言ってやれば良かったじゃない」
「そんな事言ったらどうなると思っているんだよ。あいつ狂うよ」
「咲さんなら、もう狂っているでしょ」
健さんは服の上から触る事しか出来ない。もしかして咲さんが急に帰ってくるかも知れない。ヒヤヒヤしながら、それでも私という獲物を放したがらない往生際の悪い健さん。
ほんと、中学生。私は心の中で二人を嘲笑う。咲さんは私の方で健さんなんか相手にしないって、たかをくくっていたんだろう。だから寝ている健さんに私がキスしたなんて嘘言って、健さんの反応を見て面白がっていたんだろう。まさか本当に健さんが私に恋するとか、私が健さんを誘惑するなんて思わなかったんだろう。
咲さん、あなたの思う通りにしてあげるよ。はい、これでいいんでしょ。
そして今日、健さんが遂にひとりで私のアパートに乗り込んできた。最後の一線を越えるつもりなんだろう。これまではぎりぎり堪えていたみたいだけど。
ここは自分のマンションじゃない。私のアパートだ。咲さんが帰って来る心配もない。安心して思いきれる。そう思っているのはミエミエだ。予告もなしにいきなり来られても困るんだけど。そう思っていたらこう言う。
「逢いたいです。逢えますか?って、言ったじゃねえか」
だから何?って思っていたら尚もこう食い下がる。
「お前、俺に逢いたいです。逢えますか?って言ったよな」
鼻息荒い健さん。なんなのよ、アンタ。
…そこでうちのドアチャイムがピンポンと鳴った。びっくりした顔で私を見る健さん。克子が俺の後を付けてきたのか?って顔。
インターフォンを取ると勧誘の人だった。
「結構です」
と言って切った。ほっとする顔の健さん。ああ白ける。
…そこでうちの電話が鳴る。またびっくりした顔で私を見る健さん。克子が掛けてきたのか?って顔。気が小さいんだねえ。
受話器を上げると間違い電話だった。ほっとする顔の健さん。ますます白けるよ。
…健さんは急に怖くなったみたいでこんな事を言い出した。
「俺、克子と別れる気はないよ」
誰がそんな事を言ったんだよ!こっちもあんたらを別れさせた挙句にケツまくる気だよ!
「あると思った?」
だって。自惚れるな、アホ!
どんどん白ける。だったら何しにここに来たんだろう。もう帰って欲しい。
健さんは勝手に私の電話を使って咲さんにかけている。まずい事になる前に、あらかじめ言い訳を、そう思っているのは嫌でも分かる。
「舞ちゃんから電話が入ってね。泣きが入っていたんだよ。で、心配だったから来たの」
勝手に来ておいて、勝手に人の電話使って、勝手に作り話して、全部人のせいにして、なんなのよ、この人。
「舞ちゃん?今代わるね」
話をうまく合わせろ、という顔をしながら受話器を差し出す健さん。誰がそんな事、してやるかよ!知らん顔してやった。
咲さんは今頃タクシーをつかまえ、私の所に来ようとしているだろう。
地理に弱い咲さん。
運転手に当たり散らし、あちこち迂回させ、無駄な時間とタクシー代を使って、神経を病んでいく咲さん。
私をいっときは妹のように可愛がってくれた咲さん。
段々いじめるようになった咲さん。
健さんしかない咲さん。
さあ咲さん、私と勝負しようよ。
健さんが見ている前で一枚ずつ服を脱ぎ、全裸になってやった。
健さんはただ口を開けて見ている。
あなたがいつか、かすめるように盗み見たスタイル抜群の肢体が今目の前にあるよ。欲しいんでしょ。あげるわよ。減るものじゃなし。何より三十半ばの咲さんに慣れている健さんには、二十代の若い私の裸体は眩しすぎるだろう。
「おいでよ、シャワー浴びながら愛し合おう」
そう言って裸のお尻を向けたままユニットバスへ向かう。シャワーを浴び始めると、全裸になった健さんが魂のまったく抜けた顔で入って来た。
健さんが後ろから私を抱きすくめ、むさぼるように愛撫をする。
ユニットバスを出て、バスタオルで体を拭く間もなく、床へ倒れ込む。煌々と電気が付いたままの室内。猛り狂った健さんの顔がおかしかった。笑う訳にいかなかったけどね。私の全身を味わい、呆けた顔の健さん。
「舞、舞、俺の舞」
勘違いしてんじゃねえよ。
「綺麗だ。舞、綺麗だ」
私を褒めたたえる健さんが私の両足を思い切り広げる。はい、どうぞ。そこも減るものじゃなし、おあがんなさいよ。
「ここも、どこも、全部綺麗だ。舞は桜色をしている」
飢えたように私を味わう健さん。よく愛無きセックスほど虚しいものはないって言うけど、ほんの少しも気持ち良くなかったし嬉しくもなかった。
ただ、ひとりで酔いしれる健さんが私の中に入って来た時、勝ったと思った。
これで咲さんに勝った。
憎たらしい咲さんに遂に勝った!
「俺、克子と別れて舞と暮らす」
そう言って健さんが裸のまま陶酔している。さっき咲さんと別れる気はないといった舌の根はもう乾いたのだろう。
「俺、本当は舞に逢う為に、克子に逢ったのかも知れない。本当の相手は舞だ」
まっすぐ私の目を見る健さん。昔一緒に暮らした彼と同じ眼差しだ。全然ときめかないけど。
はて?私は何故好きでもない人と裸でこうしているのか?急に分からなくなる。
「今から帰って克子に別れ話してくる。その後ここに来る。お前と暮らす」
そう言って服を着る健さん。馬鹿だねえ。極端だねえ。ってか、お前呼ばわりしないでくれる?誰もあんたと暮らす気はないよ。
さて、どうなるんだろうねえ。
健さんはアホ面のまま帰って行った。
修羅場はすぐそこだった。
咲さんは思った通り、タクシー運転手を翻弄しながらきりきり舞いしていた。どうしても辿り着けず、諦め、いったん自分のマンションへ帰った所で、アホ面亭主と鉢合わせし、大喧嘩になった。
「舞と何があったのよ!」
「だって、舞が誘ってきたから」
「寝たの?」
「だから、舞から誘ってきた」
「嘘!私を裏切ったの?」
「俺は悪くないよ。舞が悪いんだよ。気に入らねえなら別れたっていいぜ。俺が舞を選んでもいいなら。俺には他に当てがあるんだよ。俺を舞に取られたくなきゃ、俺をもっと大事にしろよ」
「私のせいなの?」
「お前が悪いんだよ。ホスト遊びなんかしているから。ホストに金、使っているから、だからお前が悪いんだよ。お前が」
「酷い!」
咲さんは頭に血がのぼったまま、私に電話を掛けてきた。
「舞っ!舞っ!あんたよくも裏切ってくれたね。あんたなんて殺すよ!あんたなんて殺す!本当に殺す!未遂ではなく確実に殺すからね!あんたの顔を包丁で切り裂いてやるううううううううう!」
あんまり凄まじい勢いだからびっくりしたよ。咲さん、本当に狂っちゃった。地獄の底から掛かって来た電話みたい。精神病院に強制入院させられる寸前もこんな感じだったのかな。
急に開き直った健さんが、咲さんから受話器を奪う。
「ああ関口です」
って、乱暴な口調。
「あんたのせいでこっちは大変な事になっているんですよ。もう二度と俺たちに近づかないで欲しいんですけど」
だって。
は?気分次第で言う事なす事コロコロ変わるねえ。
「俺はこれからもずっと克子とうまくやっていくつもりなんでね。あんた、俺らの人生に二度と関わらないで下さいよ、もう、お願いしますよう!」
もっと、は?だった。咲さんの手前、咲さんに聞こえよがしに、自分さえ助かれば、自分さえ良ければいいんだろう。
「あんたの事はみんな馬鹿にして笑っているよ!」
そう言って電話が叩き切られる。みんなって誰だよ、健さん、あんたこそ頭大丈夫?って、言いたかったけど、電話の向こうは凄まじい修羅場になっていた。
咲さんは健さんの目の前でキッチンの包丁を振り回し自分の手首をバッサリ切った。人のせいにして、その場を取り繕う事ばかり考えていた健さんは、慌てて救急車を呼び病院へ連れて行く事になる。
「舞、酷い状況になっている」
そう言って私に助けを求める健さん。あんたが撒いた種でしょう。あんたが刈り取りなさいよ。どうすれば良いか分からず、電話の向こうで延々と喚いている健さん。
「克子が、包丁で手首切って、神経二本も切るし」
だと。そんなに切るのが悪いんだろ!
「あの時、俺が怒鳴ったのはね、克子が健ちゃん怒鳴ってって言うから、だから、仕方なく怒鳴ったんだよ」
だと。ああもう、言い訳がましいねえ、聞きたくないよ。
「俺、やっぱり克子を守っていきたい」
だと。勝手にそうしてくれよ、いちいち自己陶酔しながら報告してくんじゃねえよ。鬱陶しい!
「舞を殺すって言っている。坂戸の実家も探すって。克子、本当にやる気だよ!」
え?それだけは困る。あんな母親でも殺させる訳にはいかない。
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