14章 その2 辿り着いたその先で②

 続いての一週間、何人かの同僚が見舞いに来た。いずれもミナが生き延びたことを心から喜び、早い回復を願ってくれた。彼女の体調に気を遣ってのことだろう、サウスウェルズで何があったのかを聞く者はいなかった。

 もちろん例外もあった。教区長であるサットンだ。三日目に訪ねてきた彼はミナを労った後、事件について問い質した。

「ここのところリズも休みを取って何か調べているようなのですが、一体何が起きているというのですか?」

「すいません。今は何も言えないんです」

 正直に答えるミナに、ゆっくりと頷くサットン。その小さな眼鏡の奥には、いつもの柔和な光が湛えられている。

「分かりました。あなたが正しいと思うようになさい。私は、を信じることにしましょう」

 言葉に詰まり、ミナはただ頭を下げるしかなかった。

 経過は順調で、一週間目には上体を起こせるまでになった。だが、四肢を動かすにはまだ違和感が強く、馴染むまでには相当な時間がかかりそうだった。

 その他にも、問題はいくつかあった。特に頭髪に関しては惨澹たるものだった。

 加護により毛根は再生したものの、髪は伸びるのを待つしかないらしく、彼女の頭部はさながら冬の荒地といった有様だった。布でぐるぐる巻きに隠してはいるが、もちろん心穏やかではいられない。

 その一方で、治療過程ではうれしい副産物もあった。身体に刻まれていた古傷が綺麗に消えたのだ。

 以前の皮膚は業火に根こそぎ焼き尽くされてしまい、代わりに新しい皮膚を加護で一から創り出したためだ。自分でも信じられず、ミナは何度も己の身体を指でなぞった。

 回復するに従って、ミナの心に幾ばくかの余裕が生まれた。だが、それはあまりよいことではなかった。どうしても事件について考えてしまい、苦い思いが汚泥のように積もっていった。

 ――また、やってしまった。

 母とリノ。一度ならず二度までも、同じ過ちで人を死なせてしまった。さらには、そのことを直視できず、マズローへと怒りをぶつけるという醜態まで晒している。身体の傷は消えたが、犯した過ちは増える一方だ。

 これから先も、同じような失敗を繰り返していくのだろうか。そんな私に、果して助かる資格などあるのか。――一人でいると、浮かんでくるのはそんな思いばかりだった。

 これまでの彼女なら、祈りの時間を持つことで気を鎮めようとしただろう。だが贖宥の存在を知ってしまった今、そんな気にはとてもなれなかった。何もしてくれないどころか神罰もまともに下せない神に、形だけとはいえどうして祈ることができるだろう。

 代わりに、吹き溜まる思いをリズに吐き出したかった。おそらく、彼女は事情をすべて知っている。何を言ってもいいだろうし、きっと何も言わずに受け止めてくれるだろう。

 けれど目覚めた日以来、彼女が訪ねて来ることはなかった。自分のために動いているだろうことは、あの日の会話からミナにも分かっている。だけど、それでも――胸のわだかまりを消せないまま、時間だけが過ぎていった。

 意識が戻っておよそ二週を経た昼下がり。杖をついての短い歩行が可能なまでに回復した彼女の許へ、上級審問への召喚命令が届いた。

 上級審問とは聖職者および使徒に対する審問であり、教皇庁の上級審察官により執り行われる。その目的は聖職者が関与した犯罪についての調査――つまり、内規機関による内部調査と考えればよい。

 出頭は明日。今回の事件を調査した審察官として証言を求められるという。

 何もやましいところはないので、応じるのは使徒としてやぶさかではない。だが、ハルからの伝言がある。

 ――事件についての一切を黙秘するように。

 悩んだ末に出した結論は、「ハルの伝言を守る」だった。彼を信じること。今の自分にとってそれが最善だと思われたのだ。

 だが、審問で黙秘するというのは、ミト教徒にとって不正を告白するに等しい。その重圧が肩にのしかかってくる。

 時間はじりじりと過ぎていった。太陽はまんじりともせず、ようやく傾いたかと思えば山の端に延々と張りつき、一向に沈もうとしない。一日横になっていただけのミナだったが、窓に星が瞬き、室内がランプの灯りで満たされた頃には神経は摩耗し切っていた。

 味気ない夕食からしばらくして、ノックとともにドアが開いた。

 振り向くミナの目に映ったのは、よく知る黒髪の少年の姿だった。


「ハル!」

 ミナは上体を起こそうとした。が、慌てていたため身体がついていかず、中途半端な姿勢のまま後方へ盛大に倒れてしまう。

 全身に響く鈍痛に呻き声が上がる。歩けるようになったとはいえ、まだ身体はがたがたなのだ。

 けれど、そんなことはどうでもよかった。もう一度、さらに勢いをつけて身体を起こすと、彼女は食いつかんばかりに身を乗り出した。

「ハル、なんだね!」

「少なくとも虎ではないな」

 聞くも懐かしい皮肉とともに、ハルはベッド脇の椅子に腰かけた。ミナの手がその顔に伸びる。迷惑そうに眉根を寄せるハルだったが、避けることはなかった。

 指先に触れる黒い髪、小麦色の肌。以前より頬がこけていたが、彼は間違いなくそこにいた。

「よかった、生きてたんだ!」

 少年の眉間に、さらに深い皺が寄る。

「最高の教育係から聞いてないのか? 俺が生きてるってこと」

「……聞いてる」

 舌を出すミナに、彼の口から深いため息がこぼれる。それがいかにも不機嫌な様子に見え、彼女は口を尖らせた。

「怒らないでよ。だって、全然お見舞いに来てくれないから」

「ミナのとんちんかんぶりは今に始まったことじゃなし、そんなことでいちいち怒ってたら身が持たない」

「じゃあ、怒ってないの?」

「いや、怒ってる」

 ハルはぐっと身を乗り出した。

「ミナ、これだけは言わせろ。お前、ふざけんじゃねえぞ!」

 目を白黒させるミナに、彼は静かに言葉を継いだ。

「ミナの母さんのこと、リズから聞いたよ。自分のせいで火刑にしてしまったと。で、今度はリノ修道女も同じ目に遭わせてしまったと。それであんなに取り乱してたんだな」

 思わず息を呑み、ミナは目を伏せた。それは彼女にとって、今もっとも耳にしたくない話題だった。

「で、それを指摘したマズローに八つ当たりしたと。ひどい話だ。まあ、俺も人のこと言えないけど、さすがに本当のこと言っただけの相手にあれはない、あれは」

 大げさに肩をすくめるハル。

「挙句の果てに、自分もろとも殺そうとするとか、もう正気の沙汰じゃない。おかげで俺までとばっちりを食らう羽目になっちまった」

「そう、だよね」

 ミナは声を絞り出した。

「間違ったことばっかりして、周りに迷惑かけて……」

 背中が縮こまっていく。ハルの次の言葉がなければ、そのまま布団に顔を埋め耳を塞いでいたかもしれない。

「それで?」

「え?」

「それが何だっていうんだ?」

 驚いて顔を上げる。黒の双眸が彼女をまっすぐに見つめていた。

「さっき言ったろ? そんなことはどうでもいいんだ。俺がむかついてるのは、自分で言ったことを棚上げして死のうとしたことだ」

 声に厳しさが増す。

「お前、俺に言ったろ? 過去に振り回されるな、自分を許せなくても正しいと思うことをやれって。人に偉そうに言っといて、自分が似たような状況に陥ったら死のうとするとか、それってもう詐欺じゃねえか。何だよ、あれは上っ面だけの言葉だったのか?」

 ミナの全身がかあっと熱くなる。羞恥と自己嫌悪が激しく入り乱れ、身体の内を焦がしていく。

 ハルの言う通りだった。自分で言ったことなのに、自分自身がまるで実践できていない。

 す、とハルが拳を振り上げた。

 ――殴られる。

 覚悟して、固く目を閉じる。自分のしでかしたことは、彼への裏切りだ。どんな仕打ちを受けても仕方がない。そう思った。

 だが、その瞬間はいつまで経っても来なかった。

 堪えきれず薄目を開けると、狙いすましたように額を軽く小突かれた。「痛っ」。声を上げ、額を押さえる。ハルに目を向けると、彼はやれやれといった表情で口を開いた。

「なあ、間違いを犯そうと犯すまいと、ミナはミナだ。とろくて、ちびで、身だしなみが雑で、融通が利かなくて、すぐ暴走して、死にたがる」

 そのからかうような口調に、張り詰めていた心がわずかに緩む。

「……それ、この間のこと根に持ってるでしょ」

「だけどさ、ミナはいいやつだよ」

 心臓がきりりと締め上げられ、息が詰まる。まるで、背後から突然ナイフを突き立てられたような。

「母さんのことがあっても、身体中傷だらけにされても、自分が正しいと思うことをやろうとしてきたんだろ? どれだけ過ちを犯してきたとしても、そのことだけは間違いないはずだ。そんなこと、俺にはとてもできない。ミナは、すごいよ」

 そんなことない――そう叫びたかったが、言葉は糊のように喉元にへばりつき、どうしても口先にまで届かなかった。

「だから、間違ったからって勝手に思い詰めて、勝手に死のうとするな。それは――ただの逃げだ」

 鼻の奥が熱を持って痛み出す。布団の端を握る手に、知らずのうちに力が込もっていく。

「どうせここに来てからもうじうじと悩んでいたんだろ? 自分が助かっていいのかとか、これからどうすればいいのかとか」

 ミナは小さく頷いた。隠し立てなどできなかった。

「まったく、何て言えばいいのやら。お前、自分で言っただろ? 前に進むことが償いだって。じゃあ、これからどうすればいいのかなんて、決まり切ってるんじゃないのか? そして、自分の行動は自分で決めることができる、だろ?」

 あの夜をなぞるような少年の言葉に、唇を噛む。自分の言葉がどれほど過酷なものだったのか、ミナはいまさらながら思い知った。それは、重い荷物に耐えかねてへたり込んだ馬に対して、容赦なく鞭を振るい石を浴びせかけるのと何ら変わらない。

 ――だけど。

 あの夜、ハルはそれに応えてくれた。

「ここまで言ってもまだ死ぬっていうなら、それも一つの選択だから仕方ない。けどそれなら、少なくとも借りを返してから死ね。助けてくれたやつらに借りがあるだろ? スロースたちにも、癒護官にも、リズにも、他にもいろんなやつに。つらかろうが苦しかろうが、それを返すまでは生きてやるべきことをやれ」

「もう、いいよ」

 声の震えを止めることはできなかった。

「分かったから」

 ここで彼の言葉に背を向けるのは、もう一度彼を裏切ることにほかならない。

「約束しろよ?」

「……約束する」

 そう言うと、ミナはそっと窓へ目を逸らした。

 思いがけず大きな月が掛かっていた。

 ――助けられてばかりだ。

 あの夜も、ハルは道に迷っていた彼女を助けてくれた。彼にそんなつもりはなかっただろうし、気が付いてもいないだろう。だがミナにとって、それは紛れもない事実だ。

 そこが限界だった。

 温かいものが頬を伝っていく。ハルに気付かれないよう、そっと袖でぬぐった。もちろん彼の目に留まらないはずはないのだが、これは気持ちの問題だ。

 落ち着くまで、ハルは黙って待っていてくれた。昂った感情が鎮まり、ようやく一息つくと、

「ハル、ごめん。ありがとう」

 ミナは笑った。

 ――そういえばこの十日で笑ったの、初めてかもしれない。

 だが、少年の表情は険しいままだった。

「悪いが、礼ならすべて片付いてからにしてくれ」

 その声にはつい今しがたまでとは違う、硬質な響きが滲んでいる。

「すべて片付いてからって……」

 戸惑うミナだったが、思い当たる節があった。

「そうだ、あの伝言は何だったの? 明日、上級審問なんだけど」

「ああ、知ってる。そのためにやるべきことがあるんだ。というか、これからが大変なんだ」

「大変って、まだ何かあるの?」

 ハルが口を開く前に、あらぬ方角から答えが返って来た。

「そうみたいだね」

 二人の視線が同時に入口へと向けられる

 ドアはいつの間にか開いており、質素な麻のローブを纏った人物が立っていた。すっぽりとフードを被っており顔は見えないが、背はミナと同じかわずかに低く、おそらくは子どもだろうと思われる。

「どうやら説明の必要はないようだ」

 ハルが呟く。戸口の人物は後ろ手にドアを閉めると、フードをまくり上げて白い歯を見せた。

「うそ……」

 ミナは絶句した。

 額に掛かるどこまでも透き通った赤髪に、整いすぎるほど整った端正な顔立ち。ミティア教国民なら知らない者はいないであろう、それはこの国の頂点、教皇その人だった。

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