13章 その4 罪と裁き④
――何を……言っているの?
ミナの呼吸が、思考が停まる。踏みしめていた大地は沼のようにぬかるみ、身体はどこまでも沈み込んでいくようだった。
その様を喜々として眺め、マズローはさらに畳みかける。
「おや? そういえば昔、あなたはまったく同じことをしていますねえ。ふふふ、知っていますよ。余計な証言をして、自分の母を死に追いやった。うんうん、歴史は繰り返す。あなたは昔から何一つ変わっていない。自分が正しいと勘違いした挙句、その舌で人を殺める。はっ、偽りを紡ぐ舌よりもたちが悪い。私のことを罪人などと、そんな口でよく言えたものですね」
――お母さんと……同じことを……。
その一言は決定的だった。理性を繋ぎとめていた最後の糸は切れ、意識は暗い沼の底へと呑み込まれていった。
「おい! いい加減なでたらめを並べるな!」
焦ったようなハルの叫びが響いたが、その声は巻き起こった熱風によって掻き消された。
ミナの聖痕からほとばしった炎が渦を巻く。幾重にも揺らめき、重なり、絡まり合ったたそれは、右手を中心としてすさまじい勢いで膨れ上がっていった。周縁の空気は歪み、吹き荒れる暴風へと変えられていく。そのあまりの激しさに誰一人動くこともできず、吹き飛ばされないよう身を屈めているしかなかった。
ぱたりと風がやんだ。
そっと目を開いたハルたちが見たのは、巨大に膨隆した炎球だった。ミナの頭上に浮かんだそれは、人ひとりをすっぽり包み込めるほど大きく、その表面からは異常な熱量が放射されていた。
あっけにとられたのは一瞬。すぐさまハルは叫んだ。
「ミナ! 落ち着け!」
けれど、届かない。彼女の目にはマズローの姿しか映っておらず、脳内では彼への呪詛が果てしなく繰り返されていた。憎悪はどこまでも堆積し、そのすべてが目の前の男に対する殺意へと形を変えていく。
凄絶な叫びと共に臨界を迎えた巨球が放たれる。狙いあやまたず、それはすさまじい速度でマズローへと向かっていった。
巨腕が繰り出され、正面から受け止める。だが、大質量の球体はそれをものともせず、腕ごとマズローへ衝突すると、そのまま後方へと吹き飛ばした。
轟音。舞い上がる土煙。
まだ終わらない。次々と小さな炎球が創り出され、やたらめったら射出される。間断なく破壊音が響き、堂内が土煙で覆われていく。壁に天蓋に次々と亀裂が走り、一部はひとりでに崩れていく。誰も間に入ることはできず、処刑は永遠に続くかのように思われた。
だが、終わりは唐突に訪れた。
前触れもなく両膝の力が抜け、ミナは糸が切れた人形のようにその場へ崩れ落ちた。何が起きたのか分からないまま、それでも彼女は右手を前方へ向ける。
炎は出なかった。
「なんで……?」
呆然と手背を見つめるミナ。
煙が徐々に晴れていく。聖堂内は見るも無残に破壊されていた。長椅子は粉々になり、大理石は抉れ、そこかしこに瓦礫の山ができていた。
そして、マズローが姿を現した。
車輪も車軸もいびつにひん曲がっている。外套は無残に焼け落ち、あちこち擦り切れた純白の法衣は煙と土埃にまみれている。なでつけられていた炎髪は振り乱れ、額からは幾筋も血滴が流れ落ちている。
だが、マズローは生きていた。巨腕が盾となり、最後まで彼を守り抜いたのだ。
「ふう、さすがに加護の力は凄まじい。ですが、うんうん、罪深き者の力は私には届かない」
荒い息を整えると、マズローは這いつくばるミナに笑いかける。
「うんうん、何が起きたのか、まるで理解していない顔ですねえ。前に言ったでしょう? 加護は一度に使える回数に限りがあると。なのに今のように見境なしに使ってしまうと、身体に激しい反動がくるのですよ。まったく、あなたは何もかもが未熟ですねえ」
法衣の汚れを払いながら話す彼は、すでに平静を取り戻していた。
「さて」
鋭い風が巻き起こったかと思うと、ミナの身体は奥の壁へと叩きつけられていた。その口から鮮血がほとばしり、声にならない叫びが上がる。巨腕に薙ぎ払われたのだ。
何とか立ち上がろうとするが、身体に力が入らない。骨が何本か折れているようだった。
マズローはゆっくりと車椅子を進める。歪んだ車輪が軋み、耳障りな音を立てる。
「神に選ばれたこの私に傷を負わせるとは、冒涜の極みですねえ。ですが、私はそんなことで怒ったりはしませんよ。それどころか、あなたの罪を浄化して差し上げましょう。……おっと?」
行く手をロンゾが長槍で塞ぐ。と同時に、ハルがマズローの背後へと回り込んだ。
「ああ、ああ、ロンゾ。この私に刃を向けるとは、やはりあなたも無知蒙昧の輩なのですねえ」
「うるせえええ!」
二人が前後から躍りかかる。だが、巨腕の一振りは彼らをあっけなく吹き飛ばした。
ミナと同様に壁へと激突する二人。その身体がずるりと地に伏す。呻き声を上げるだけで立つこともできない。勝敗の帰趨はこの一撃で決まったも同然だった。
一際高い哄笑が弾ける。
「罪深い罪深い、本当に罪深いですね。これはこれは、みんな清めてあげないと! まずは、そう、黒いのはさっさとぶち殺してやりましょうか」
目を爛爛と輝かせながら、ハルへと向かうマズロー。自分の勝利がもはや揺るぎないことを、彼は確信していた。慢心ではない。それは誰が見ても明らかだった。
だが。
破裂音とともに、マズローの後頭部に熱い衝撃が走った。椅子から転げ落ちそうになり、慌てて肘掛けを掴む。見ると、全身にどろりとした液体、そして陶片が飛び散っている。
「ああ?」
振り向くとローザが立っていた。その手には、壊れた水差しの残骸。マズローが用意していた油の詰まったそれを、思いっ切り振り下ろしたのだろう。
頬を伝う油混じりの血を拭うと、マズローは無表情に巨腕を一閃した。紙屑のように吹き飛ぶローザ。
「あなたの浄化は最後にしようと思っていたのですがねえ」
眼鏡は粉々に砕け散り、もはやローザには周囲がおぼろげにしか見えなかった。だがそれでも、近づいて来るマズローを彼女はきっと睨みつけた。
「この、人殺し!」
マズローは表情を変えずに答える。
「罪人ごときがそんな口を利くものではないですよ……と?」
入り口の扉を激しく叩く音が響いた。加えて、怒声や罵声も遠く聞こえてくる。マズローの顔に苦笑が広がった。
「まあ、これだけ派手にやっていれば、さすがに気付きますか。それにしても、また暴動とはねえ。うんうん、これはもう、みんなみんなまとめて清めてあげないと」
巨腕が振りかぶられる。ローザはマズローを睨んだまま、目を逸らさない。
その瞳が、司教の背後に立つ人影をおぼろに捉えた。
ミナだった。
彼女はふらつく足取りで、倒れ込むようにマズローへと縋りついた。いや、寄りかかったと言った方が正しい。足はまともに地についておらず、両腕はマズローの肩に力なく引っかかっているだけだ。吹けば飛びそうな。けれど、その口には微かな笑みが湛えられていた。
「マズロー司教」
血を滴らせ、ミナが声を絞り出す。
「愛しています」
何かが擦れる音が聞こえた。誰かが息を呑む音だったのかもしれないし、点火の瞬間に起こる空気の揺らぎだったのかもしれない。
次いで、業火が二人を包み込んだ。
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