13章 その5 罪と裁き⑤
「がああああああああああああ!」
まるで意志を持つ生き物のように炎は二人に絡みつき、まき散らされた油に飛び火していく。大理石が焦げ、長椅子が燃え、二人を中心としてあっという間に炎の海が広がった。
「ふざけんな! 離せえええあああああ」
ミナが力なく地面へと振り落とされる。炎に包まれた顔を両手で覆い、マズローは狂ったように叫んだ。
「ふざけんなふざけんなふざけんな、ふざけんなあ! こんな! 選ばれたる私にこんなああああ!」
巨腕がでたらめに振り回される。篝火台は弾き飛ばされ、祭壇は真二つに破壊された。長椅子は四散し、辺り一帯が紅蓮に染め上げられていく。
それでも動きを止めない巨腕は、やがて渾身の一撃を壁に打ち込んだ。亀裂が次々と繋ぎ合わさり、一瞬の間を置いて崩壊が始まった。天蓋の一部が崩れ、いくつもの巨大な瓦礫が宙に舞ったかと思うと、真下にいる車椅子の男へと降り注いだ。
それは、あっけないほど一瞬の出来事だった。視界を塞がれていたマズローに避けることなどできず、もちろん声を上げるひまもなく、その姿は大量の瓦礫の下へと消えた。
身体の痛みも忘れ、ハルは呆然とミナを見つめていた。
瓦礫の下敷きとはならなかったが、彼女を覆う炎はいよいよ勢いを増し、その存在を消滅へと向かわせつつあった。満身創痍でほとんど動けないはずだが、業火に焼かれる苦痛からだろう、彼女はまるで溺れているかのようにもがいている。その顔は炎に阻まれ見えなかったが、どんな表情をしているのかハルには分かった。
きっと、どうしようもなくつまらない顔をしているはずだ。
「ふざけんなよ」
急速に怒りが膨らんでいく。
「人に偉そうなこと言っておいて、何やってんだよ」
ハルは立ち上がった。全身が軋みを上げるが、ぐずぐずしているひまはない。目の前でもがいている少女の苦しみはこんなものではないはずだ。
足を引きずり瓦礫の山へと向かう。幸いにも、目当てのものはすぐに見つかった。マズローの左手だ。うまい具合に瓦礫からはみ出していたその薬指をナイフで切断し、指輪を外す。
神なんて何の意味もない――はん、まさにその通りだな。こんな石ころ一つで神罰が無効化されるんだから。そんな神がミナに罰を与えるなんて、ふざけんなって話だ。
少女へと振り向く。
業火は容赦なく彼女を削っていた。
左腕で顔を覆いながら、もう一方の手で彼女を抱き寄せる。炎がハルの衣服へと燃え移り、二人を包み込んでいく。
彼女の手を取る。もうどれが指だが判然としなくなっていたが、とにかく手探りで隆起している部分を見つけ、指輪を嵌め込んだ。
音も残さず業火は掻き消えた。
――ほら、神よりミナの方が正しいことを言っているじゃないか。
贖宥石は神罰を無効化する。では、すでに下された神罰に使ったらどうなるのだろう? もはや業火に包まれてしまっているので、効果はない?
そんなはずがない。
罪を犯してもやり直せる、そうであってほしい――月の光の下、ミナはそう言った。
彼女が正しいのであれば、偽証を犯した者にもやり直しの機会が与えられるべきだ。その機会を、神であれ勝手に奪うなんてことが許されるはずがない。だから、下された神罰だろうときっと無効化できる――
もちろん、無茶苦茶な論理だ。それはハルにも分かっていた。
だが、そんなことはどうでもよかった。
彼はミナの――自分を救ってくれた少女の言葉を信じ、そして結果がついてきた。ただそれだけの話だ。
燃え続ける服を脱ぎ捨て、腕の中の少女に目を遣る。
彼女は意識を失っていた。
その姿は見るに堪えない惨状を呈していた。皮膚は焼け落ち、焦げた肉があちこちで露出している。黒炭と化している部分もあり、ちょっとした衝撃で崩れ落ちてしまいそうだ。そして可細く聞こえる呼吸は途切れがちで、いつ止まってもおかしくはなかった。
「何だよ。いい加減にしろよ」
腕に力を込める。肉の一部が乾いた音を立てて剥がれ落ちた。
「自分の言葉には責任を持てよ。やり直せるって、ちゃんと自分の行動で示せよ」
けれど、腕の中から命が着実にこぼれて落ちていくのが分かった。全身にこれだけの火傷を負って、なおかつ生き長らえているというだけで奇跡なのだ。
抱きかかえ立ち上がろうとするも、足が言うことを聞かず派手に転倒する。もはやハルにも動く力は残っていなかった。それでも身体を起こす。だが、結果は同じで無様に尻もちをつくだけだった。
四度目に倒れかけた時、太い腕が彼の身体を支えた。
「やれやれ、何やってるのよ、ハル君」
顔を上げると、そこに見知った顔があった。
「スロース……どうして」
「これで二度目ね。命の恩人になるのは」
スロースは軽く片目をつむると、ハルの腕の中へ視線を落とした。
「ふうん、どうやらそれが神罰を無効化するアイテムってわけね。普通の石にしか見えないけど」
ハルに緊張が走る。――どうして贖宥のことを知っている?
と、背後から鋭い音が立て続けに響いた。見ると、何本もの槍先が入口の扉から突き出ている。
「詳しい話は後ね。さっさと出ないとひどい目に遭いそう」
堂内には、スロース以外に見知らぬ何人かが入り込んでいた。彼の部下たちなのだろう、手際よくローザたちを地下通路へと運んでいる。篝火台をマズローが吹き飛ばしてくれたおかげで、四角い穴がきれいに開けていた。
「助けてくれるのか?」
「ふふ、もちろん。まあ、落火に助けられるなんて不本意だろうけど、そこは我慢してちょうだい」
「いや、ありがとう」
「……あらあら?」
「ミナは大丈夫だよな?」
スロースは肩をすくめた。
「さて、運次第ね」
一度ミナに視線を落とすと、ハルは辺りをぐるりと見回した。
崩れた壁、抉れた大理石、木片、瓦礫、流れる血。それらの一つ一つを、罰を与えるかのように赤い炎が覆い尽くしていく。音を立て紅蓮に染まる聖堂は、罪にその身を焦がしていく咎人のようにも見えた。
「なあ」再びスロースへ顔を向けると、ハルは言った。「取引しよう」
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