12章 その2 天啓と陥穽②
「明日、ローザ修道女を隣町に移します」
残った四人の関係者を食堂に集めると、ハルは宣言した。
「ここまで来ると、次に狙われるのはローザ修道女だと考えられます。彼女の安全を確保するには、これが最も確実な方法です」
「そうか、その手があったかあ」
ウェルが手を打つ。
「そうだなあ、隣町なら悪霊はいねえもんなあ」
クラッドの件を知った後も、彼はすべてが悪霊の仕業だと繰り返していた。
そのため、彼だけは午前の探索に加わっていない。代わりに小さな三叉架を聖堂の四隅に置いたり、芝生の上に無造作に突き立たてたりと、敷地のあちこちにばら撒いていた。それで悪霊を払うのだという。
事件は悪霊ではなく落火によるものだ、と何度も説明したが無駄だった。今も彼の麻ズボンのポケットは、大量の三叉架でぱんぱんに膨らんでいる。
「明日と言わず、今すぐ連れて行けばいい」
勢い込むウェルに、ハルが首を振った。
「それがいろいろと準備があるので、出発は明日になります」
その準備のため、ミナとロンゾはここにはいない。
「そんなこと言って、今晩何かあったらどうするんだあよ!」
「大丈夫です。クラッドがどうやってここに侵入したのか、その方法が分かりましたので。今晩、彼が敷地内に入り込むことは決してありません」
場がざわめく。ウェルは不服そうな顔で言い立てた。
「あたしは落火じゃあなくて、悪霊の話をしてるんだあよ」
「ええ、俺も悪霊の話をしているんです。修道女たちをたぶらかした、悪霊の話を」
なおも食い下がろうとするウェルを遮り、ハルが言葉を重ねる。
「そして、皆さんにお願いがあります。今晩も何があろうと自分の部屋から出ないでください」
一瞬きょとんとしたウェルだったが、すぐに声を荒げた。
「何を言ってるんだあよ! 今晩ローザがここにいるなら、悪霊が悪さしないように見回りしないといけないだあよ!」
「そんなことをすれば、逆に問題をこじらせることになります」
「いい加減なこと言うんじゃあねえ!」
「ウェル」
鋭い声が飛び、料理長が言葉を止める。声の主であるマズローが、ハルをまっすぐに見つめて言った。
「ハル審察官。今晩クラッドが侵入できないというのは、間違いないのですか?」
「間違いありません」ハルが頷く。「今晩、彼は絶対に侵入できません」
「そんなことがどうして分かるのです? そもそも、クラッドはどうやってここに侵入したのですか?」
「今は説明できません。話すこと自体が問題を引き起こす可能性がありますので。申し訳ないですが、信じてもらうしかない」
「……なるほど、確信があるようですね。ではそれは信じましょう。ウェル、今晩は部屋から出てはなりません」
もごもごと口ごもっていたウェルだったが、やがて観念したように頷いた。
「分かりました」
「よろしい。よく決断してくれました。ノラもいいですね?」
彼女の同意を確認して、マズローは厳しい視線をハルへと戻す。
「私も部屋を出ないと約束しましょう。ただ、クラッドがここに侵入できないのなら、わざわざ隣町に移す理由がないように思うのですが。道中で襲われる危険もあるのではないですか」
「今晩の侵入がないというだけで、条件が整えばクラッドは必ずここに姿を現します。隣町への道中に関しては、俺とミナが護衛をきっちりと務めますので」
「なるほど、ではそれもよしとしましょう。ですが、最後に一つ聞かせてください。事件について、隣町にはどこまで説明をするのですか? もし、一から十まで説明することになったら」
マズローはちらりとローザを見た。
「町への落火の侵入を黙認した咎で、この子は火刑になってしまうでしょう」
ノラが息を呑み、ウェルが目を剥く。一方、当のローザは俯いたまま黙っていた。
「そうならないよう、全力を尽くすと約束します」
四人を見回して、ハルは決然と言い放った。
「今はこれが最善の解決策です。あとは祈るしかありません」
空を覆う雲は一層分厚く積み重なり、夕方には小雨が降り始めた。
晩餐にはハルとロンゾも加わった。万全を期すため、審察官三人ともに修道院へ留まることになったからだ。テーブルを囲む人数は七人に戻ったものの、食堂の空気は葬儀場のように沈んでいた。
食事を口に運びながら、ミナはローザをそっと窺う。彼女は淡々としているように見えて、時折ぜんまいが切れたように動きを止める瞬間があった。心はやはり不安に溢れているのだろう。
晩餐の始めには細雨だったのが、食堂を出る頃には本格的な雨へと変わっていた。雨足は強くないものの、地を打つ粒は小気味いい音を響かせている。
やがて修道院の灯りが消え、世界はすっぽりと静けさに包まれた。雨がこの世の音をすべて洗い流しているかのようだった。
夜半過ぎ。修道院の扉が開かれ、闇の中に人影が一つ歩み出た。ローザだ。
明かりも持たずに雨音の中へと足を踏み出す。分厚い雲が月の光を覆い、一寸先も見通せないほどに闇は深かったが、彼女にとって通い慣れた道だ、問題はなかった。だが、ぬかるんだ大地が足に纏わりついてくるため、一歩一歩慎重に足を進める。
ふと、足先に硬いものが当たる。目を凝らすと、まるで彼女を引き留めでもするかのように、三叉架が突き立てられていた。ウェルのものだろう。胸の前で三叉を切り、脇へ避ける。ようやく教会の入り口へ辿り着くと、彼女は大きく肩で息をした。
中へと入る。聖堂へ通じる扉の隙間から、わずかな光が漏れていた。目を閉じ、祈りの言葉を唱える。三叉を切り、心を鎮めるように一息つくと、彼女はそっと扉を開けた。
暗い洞窟のような聖堂、その祭壇の前に佇む人影がある。車椅子に腰かけたマズローだった。黒の外套に全身を包んだその姿は、同じく黒の修道服を身に着けたローザともども闇の中に浮かぶ実体を持たない影のようだ。
彼は優しい微笑みを浮かべ、もう一つの影へとそっと手を差し出した。
「よく来ました、ローザ。さあ、こちらへ」
扉を閉めると雨の音は遠のき、静寂が降りて来た。呼吸音、いや心音すら反響しそうだった。
閂をしっかり掛ける。
――これで、逃げられない。
ローザは司教の許へと歩み寄る。だが、三人が焼かれた場所まで来ると、ぴたりと動きを止めた。怪訝そうに首を傾げるマズローを見つめ、彼女は口を開いた。
「司教、事件の真相が分かったというのは本当なのでしょうか?」
ああ、と得心したようにマズローは頷いた。
「もちろんです。このままではあなたは火刑になってしまう。だから、そうなる前に救いたいのです」
微笑みを崩さず、ゆっくりと車椅子を進めるマズロー。篝火に照らされたマズローの影が、修道女を包み込む。跪くローザ。その頭上から、乾いた声が響いた。
「ローザ。あなたは――あなたたちは本当に私の大切な子でした」
はっとローザが顔を上げる。――でした?
「まさか、あんな形で裏切られることになるなんて思ってもいませんでしたよ」
逆光のため顔は暗く沈んでいたが、血の通わない双眸はぎらついた光を放ち、刺すように彼女を見つめていた。
咄嗟に跳び退いたローザだったが、壁にでもぶつかったように身体の動きが止まる。必死に足を動かすが空を切るばかりだ。見ると、いつの間にかマズローの背から巨大な腕が伸び、彼女の身体をがっちりと空中に受け止めていた。
「ここであなたの罪は浄化され、あなたの魂は永遠の安らぎを得るのです。そう、あの子たちと同じように。ほら、そのための油も用意してありますよ」
指し示された祭壇の上には、水差しがぽつんと置かれていた。
マズローが笑う。底冷えのする笑いだった。戦慄しながらも、ローザは目の前の男から視線を逸らすことができなかった。
「司教……三人を殺したのは……」
「殺したのではありませんよ。罪を浄化しただけです」
ローザは目を閉じた。それは恐れからではなく、悲しみからだった。――本当に司教がそんなことをしていたなんて。
マズローの手がローザの喉に伸びる。三人を殺した指。だが、その指先が彼女に届くことはなかった。
「そこまでだ!」
扉を開く激しい音とともに、堂内に足音がなだれ込む。ぴたりと手を止め、凍り付いた顔で振り向くマズロー。
安置室の扉が開け放たれ、揺れる篝火が審察官三人の姿を照らし出していた。
「司教、おとなしくしてください」
炎を纏った右手を突き出し、ミナが警告する。その後ろへローザが逃げ込んだ。見ると巨腕が消えている。驚きのあまり加護を解いてしまったのだろう。
「本当にあんな馬鹿げた推測が当たっていたとはね」
そう言うハルの後ろで、長槍を構えたロンゾが苦しそうに呻いた。
「マズロー司教、三人を殺したのはあなただ」
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