11章 その2 月と合わせ鏡②

「誰?」

 返事はない。滲んだ目元を拭い、手に加護の炎を纏わせると、ミナは一気にドアを開け放った。

 立っていたのはハルだった。血色の戻らない顔を俯け、萎びた立木のように佇んでいる。

「すまない。今いいか?」

 部屋に入ると、彼は緩慢な動きで隅の椅子に座った。サイドテーブルの燭台を灯し、ミナもベッドに腰かける。

「もうだいじょうぶなの?」

 尋ねてみるが返事はない。淡い炎に照らされたその姿はどこか思いつめた様子だ。どう声を掛けようか逡巡していると、

「今、どんな状況だ?」

 俯いたまま、ハルが聞いた。

 彼が倒れてからの出来事を説明したものの、聞いているのか聞いていないのか、何の反応も返ってこない。まだ調子が戻っていないのだろうと思い、

「えっと、今晩は私たちに任せて、もうちょっと休んだ方がいいんじゃない?」

 そう勧めると、彼の身体が一瞬びくりと震えた。

「ど、どうしたの?」

 何か悪いことを口にしたのだろうか? 慌てる彼女に、ハルは掠れた声で言った。

「悪かった」

「え?」

「リノ修道女が死んだのはミナのせいだって怒鳴ったよな。あれ、悪かった」

 その首が一段と深く垂れる。

「悪いのは俺だ。町の連中の言う通り、俺は人殺しだよ」

 戸惑いながらも、ミナは努めて明るい声を出した。

「そんなことないよ。リノのことはハルの言った通り……私に責任があるんだから。というか、そもそもハルはリノを殺してなんかいないでしょ?」

「いや、俺が殺したんだ。リノ修道女が死んだのは、俺のせいだ」

「ううん、違う」

「いや、いいんだ」

 ハルは首を振った。

「全部俺のせいだ。そうなんだ、リノ修道女が死んだのも、父さんと母さんが死んだのも全部、俺のせいだ」

 ミナはぴたりと動きを止め、目の前の少年を見つめた。

「昔、罪人を助けたことがあるんだ」

 それを機に、その口から過去のいきさつがぽつぽつと零れていく。

 ミナは黙って聞いていた。いや、黙ったまま聞いているほかなかった。掛けるべき言葉を、彼女は持ち合わせていなかった。

「これまで罪人は一人残らず捕まえて来た。けど、今回はこのざまだ。見当違いの推理をして、挙句に一人死なせてしまった。ミナに言ったのは……全部八つ当たりさ」

 話し終えると、ハルは自嘲の混じった笑みを浮かべた。ミナの胸に暗澹たる思いが滲む。

 ――また、勝手な線引きをしていた。

 彼女はこれまで、ハルのことを典型的な審察官だと決めつけてきた。一貫しない彼の行動に戸惑うことはあったが、それでも根本では認識を改めることはなかった。

 だが、それはまたしても勝手な思い込みだった。

 ミナとハル、二人の境遇はおそろしいほどに酷似している。二人とも自身の行動により大切な人の死を招き、それが後の人生に大きく影を落としている。贖罪のために罪人を逃がすか、それとも火刑に送るか――行動は正反対に見えても、二人は根っこの部分では繋がっていたのだ。

「つまらない話をしたな。悪かった」

 ため息をつくと、ハルはふらりと立ち上がった。ドアへ向かってゆらゆらと歩き出したその背を、ミナは言葉もなく見つめる。

 どう声を掛けるのが正解なのか、分からなかった。自分の言葉に自信が持てなかった。実際、彼のことをずっと誤解してきたのだ。何を言えるというのか。

 彼はこれからも罪を背負い、罪人を捕まえ続けていくのだろう。

 ミナにはそれが贖罪になるとも、それによって彼の苦しみが消えるとも思えなかった。現に目の前の少年は過去に振り回され、苦悩の中でもがいているように見える。

 けれど。それも勝手な思い込みなのかもしれない。なにせ、彼と真逆の方法で罪を贖おうとしてきた彼女も、目下袋小路に陥ってしまっているのだから。

 ――……あれ?

 ふいに違和感がよぎる。

 これまでずっとハルの態度に感じていた、どことなくおさまりの悪い感覚。それが胸の中で急速に膨らんでいく。

「ハル」

 口をついて声が出ていた。自分が何に気付いたのか分からないまま、突き動かされるように。

?」

 ハルがゆっくりと振り返った。その眉は怪訝にひそめられている。

「もう忘れたのか? 教区長から命令があったんだよ」

「それだけ?」

「……は?」

「それだけだとは思えない」

 言葉に出して、ようやくミナは違和感の正体に気付いた。

 罪人を助けたから両親は殺された、とハルは言った。罪人を捕まえるのはその償いだ、と。そんな彼が、例え上司からの命令があったとして、罪人を見逃すなどありえるだろうか?

 少なくともミナの知っている少年ならば、やすやすと受け入れたりはしないはずだ。代わりに「法を破るのか」などと言って、上司に臆面なく議論を吹っかけるだろう。初対面のマズロー司教に微塵の躊躇もなく審問をぶつけたように。

 しかもミナの活動は、罪人は必ず捕まえるという彼の信条と真っ向から対立するものだ。どれだけ命令されようと断固拒否して、彼女を捕まえようとするのが自然なのではないか?

 だが、彼はそうしなかった。どころかミナと普通に会話をし、時には助けてくれさえした。どうして?

 ハルがため息をついた。

「ミト教徒は嘘がつけない。自分でそう言ったのを忘れたのか」

「忘れてないよ。上司から命令されたのも、それはそれで一つの理由だったんだと思う。でも、それだけじゃない」

 言葉が思考に形を与えていく。これまでばらばらに散らばっていた断片が繋がっていく。

「多分、命令はただのきっかけに過ぎなかったんだ」

「ロンゾに叱られるぜ。勝手な推測を立てるなってな」

「見逃したのが私だけなら、そうかもしれない」

 ミナは立ち上がった。

「でも、違う。この町に来てから、ハルは私のほかに何人も見逃してる。というより、出会った罪人全員見逃しているじゃない」

 セラ、ローザ、そしてスロースに落火たちと、彼はこれまで誰一人として取り押さえずにいる。

 スロースや落火たちの場合は、状況が状況だったため仕方ない部分もあるだろう。だがセラたちについては、すぐにでも捕まえることができたはずだ。あの腕をへし折った露天商と同じように、情けも容赦もなく。けれど、彼はそうしなかった。

 ハルの目に苛立ちが浮かぶ。

「どうしてもって言うなら、今すぐ捕まえてやろうか?」

「本当にそうしたい?」

「だったら、どうする?」

 ミナは首を振る。仮定にすがる今の言葉がそのまま答えだ。

「違う。それはハルがしたいことじゃない」

 反論しようとするハルの機先を制し、ミナは言葉をぶつけた。

?」

 視線の先で、少年の顔が大きく歪んだ。


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