11章 その3 月と合わせ鏡③
自分の行動が正しいかどうか、先ほどまでミナは延々と悩んでいた。それと同じように、目の前の少年も揺れていたのだ。自分が正しいのかどうか。彼のこれまでの言動がすべてを物語っている。
「罪人は一人残らず捕まえる。初めは心からそう思っていたんだと思う。だけど、たくさん罪人を捕まえているうちに、これでいいのかって思うようになったんじゃない?」
――余計な言い訳をして焼かれた罪人は何人も知ってる。
以前、ハルはそう言っていた。
裏を返せば、言い訳をしても焼かれなかった罪人もいたということだ。その中には、深刻な事情を抱えた者たちも大勢いただろう。
彼らの話を聞いて、彼はどう感じただろう? 罪人は罪人だと切り捨てることができただろうか?
ミナのような例外を除き、生まれついてのミト教徒ならば躊躇することなどないだろう。それが常識だからだ。だが、ハルは異邦人なのだ。しかも、故国では死刑は滅多になかったという。
罪人への憎悪から、一人二人のうちは平気だったかもしれない。けれど、幾度となく悲痛な叫びを耳にするうち、気持ちが揺らぎ出したのではないだろうか。
「でも、事情があるからって罪を見逃すのは、ハルにはとてもじゃないけど許せることじゃなかった」
なぜなら――
「昔自分がした行為に、言い訳を許すことになるから」
事情があるから、仕方がない。知らなかったのだから、不可抗力だ――それを認めてしまえば、何も知らずに殺人犯を助けてしまった自分に弁解の余地を与えることになってしまう。罪悪感にまみれていた彼にとって、それはとても許せることではなかった。
「だから、そこから目を背けてきた」
――セラたち、どうなるかな。
地下通路でそう聞いたミナに、ハルは答えなかった。いや、答えをはぐらかした。
――マズローに言ってくれ。
――ローザ修道女は火刑でいいって言ってるんだろ?
思い返せば、ハルはこれまで罪人の処遇について、一度も自分の言葉で語ったことがない。
――この国では。
――法で決まっている。
――条文に書かれていない。
いつも法だ条文だと事実を並べ立て、自分の立場を口にしたことがないのだ。かつてミナへ事務的に対応した審察官と同じように。
なぜなら、自分の本当の考えを口にできなかったから。法を盾にする時、彼はミナにだけではなく、自分に対しても気持ちをはぐらかしていたのだ。
「でも、私のことを聞いて、また迷いが出てきてしまった」
罪人を逃がしている審察官がいる。そう聞いたハルは、自分の気持ちから目を逸らすことができなくなった。
あの露天商を強引に押さえつけたのは、心に芽生えた迷いを振り切るためだったのかもしれない。だが、それでも葛藤は消えず、ミナを――罪人を捕まえないという形で顕在化した。
胸に、こみ上げるものがあった。
彼はどこまでも自分と同じだ。二人とも罪に迷い、自分に迷っている。そんな彼とのこの出会いは必然なのではないか――そんな思いすら浮かぶ。
もちろん、傍目から見ればただの妄想だ。けれど今、目の前にハルがいて、彼女と同じ迷いに苦しんでいる。それは、世にあるどの論理よりも強力に彼女が正しいと告げていた。
「くだらない推測だな」
ハルが悪態をつく。だが、声の調子は明らかに弱まっていた。
「じゃあ、教えて。ハルは、どうしたいの?」
「聞いてどうするんだ?」
「はぐらかさないで!」
少年を睨みつける。
「本当は、どうしたいの?」
それはハルへの問いかけだったが、同時に自分に向けての確認でもあった。
――私は、どうしたいの?
決まっている。
ハルの力になりたい。
二人は合わせ鏡だ。いくつもの掛け違いのせいで、歩いて来た道のりも抱えている問題の構造も違う。けれど、彼の苦しみはミナの苦しみであり、彼が救われることはミナが救われることでもあった。何が正しいことなのかは分からない。けれど、何でもいいから彼の助けになりたかった。
――でも、どうすればいい?
彼の苦しみの根は、自分が両親の死を招いてしまったという罪悪感だ。彼は自分を許すことができず、そのため自己撞着に陥ってしまっている。周りがいくら彼のことを許すと言ったとしても、救いにはならないだろう。どころか、さらに苦しめてしまうだけだ。
スロースの言うシステムなど、ここでは何の意味もない。あの男の言うように、システムが変われば救われる者は増えるのだろう。けれど、救われない人間もいる。今、ミナの目の前にいる少年もその一人だ。
――どうすればいい?
「どうしたいかなんて、そんなこと考える必要はない」
少年の口から投げ遣りな言葉が漏れる。
「俺は……ひどいことをした。罪人だ。そんな人間が、何か希望を口にしていいわけないだろ」
「そんなこと!」
頼りない少年の肩を掴もうと、伸ばしかけたミナの手が止まった。
まるで電撃にあったように。瞬きも忘れ、ただ一点を見つめる。腕の先。細い手首。刻まれた聖痕。
脳裏を母の微笑みが掠める。
――そうだ。
ミナは気付いた。
ハルと自分は同じだ。
だけど、違う。
自分には母の言葉があった。
――ミナ、愛してる。
あの時、母はミナのすべてを受け止めてくれた。彼女に対して的外れな恨みを抱いているとか、罪人として糾弾したとか、そういったことの一切をひっくるめて。
それが一種の呪いとなり、自分を断罪する毎日を送ることにもなった。私のような人間に愛される資格などないと、自分に言い聞かせる日々が続いた。けれど、そこから抜け出して前へ進もうと思えたのも、刻まれた聖痕より何より、すべてを受け入れてくれたその言葉があったからだ。
目の前の少年を見つめる。
そう、罪があるとかないとか、そんなことは関係ない。ハルはハルなのだ。
母と同じように、彼のすべてを受け止めることなんてできるはずがない。ちゃんと受け止めることができるかどうかも怪しい。そもそも出会ってまだ数日、彼のすべてを知っているわけではないし、そんな彼女が何を言っても意味はないかもしれない。
――でも、ハルは私に会いに来てくれた。こんな私に、自分のことを全部話してくれた。
気絶する直前の彼の瞳を思い出す。そこに浮かんでいたのは、救いを請う切実な光だった。
本人はまるで意識していないだろう。だが、ミナには分かった。
――ハルがここに来たのはきっと、謝罪のためだけじゃない。
ならば。少しでも生身の彼に呼びかけることができたら、そして心からの言葉を伝えられたなら、変わるきっかけくらいは起こせるかもしれない。
「そんなこと、ない」
大きく息を吸い込み、はっきりと声にする。
「ハルにとってみれば、自分は罪深い存在のかもしれない。でも私からしたら、ハルは――」
いろいろな言葉が浮かんでは消え、最終的には何とも平凡な一言になった。
「いい人だよ」
「いい人……?」
「うん。ハルはいい人」
少年の目に暗い翳が浮かんだ。
「俺は、罪人だ」
「そんなの関係ない。ハルはいい人だよ」
「俺のせいで、みんな死んだんだ。父さんも母さんも、リノ修道女も……罪人たちも。たくさん殺してきたんだ」
「それでも」ミナは首を振る。「ハルはいい人だよ」
「黙れよ」
「黙らない」
ハルがミナを突き飛ばした。
「やめろって言ってるだろ!」
「ううん、やめない!」
「あんたに、俺の何が分かるんだよ!」
うずくまるように身を屈め、ハルは叫んだ。
「世間知らずのあんたに! 人を死なせたことのないミナに!」
「分かるよ! 分かるもん! 私だっていろんな目に遭って来たし、たくさんひどい人たちを見て来たんだから! でも、ハルはそんな人たちとは違う!」
「ああそうかよ!」
ハルは荒々しくミナに近づくと、乱暴にベッドへ押し倒した。寝台の上にふわりと広がる紅の髪。身を硬くするミナの両腕を無理矢理に押さえつけ、彼女の上に覆いかぶさる。
揺れる燭台の上で、炎がふっつりと消えた。
「ここで俺が何をしても、同じことが言えるか?」
影に沈んだ顔を間近に寄せ、ハルが囁いた。温かい吐息がミナの頬にかかる。
「なあ!」
押さえつけた両手を頭上へねじり上げ、片手にナイフを抜く。刃からこぼれる光が鋭くミナを照らす。
「これでも俺はいい人なのか?」
ナイフが襟元に入る。繊維を断つ音はやけに大きく、やがてローブはまっすぐに切り裂かれた。
月の光が静かにミナの裸体を照らし、白く浮かび上がらせる。まだ成長しきっていない肢体は幼い丸みを帯び、胸のふくらみが描く稜線はなだらかだった。
ハルが息を呑む。真っ白な柔肌。そこにはびっしりと傷が刻み込まれていた。まるで、無数の虫がのたうち回っているかのように。
「お前、これ……」
言葉を失い、眼前の光景をただただ見つめる少年。
それは、ミナの辿ってきた闇だった。
のしかかって来る獣の身体。泣こうが叫ぼうが届かない懇願。逃げることのできない絶望。傷の一つ一つに、忌むべき記憶が刻み込まれていた。
裾を踏んでは転びそうになるだぶだぶの制服を着ているのも、四肢に刻まれた傷を隠すためだった。隠しづらい顏に傷がないのはまだ幸いだったが、それは転売譲渡の際の価格を落とさないため、傷つけるたびに治癒の加護を施されていたにすぎない。
落火から襲撃を受けた際の硬直は、これが原因だった。馬乗りに押さえつけられた瞬間、肉体の記憶が次々と蘇り、心が恐怖で塗り潰されたのだ。
けれど今、ミナはひどく冷静だった。怯えも恐れもなく、身体に震えもない。彼女の目の前にいるのは彼女自身――母が残した言葉に責め苛まれていた、かつての自分自身なのだから。
「ハル」
透き通ったミナの声に、ハルが怯えたように身体を震わせる。
「ハルが何をしようと、ハルに何をされようと、私は同じことを言うよ。ハルは、いい人だ」
少年の喉から、ひゅっと空気が洩れた。
「もちろん、ひどいところもあるよ。隙があれば皮肉ばっかり言うし、正論並べ立てて鼻持ちならないし、自分の思い通りにならないと八つ当たりするし、女の子の服を切っちゃうし」
――あれ、ろくなところがない?
ミナは大きく咳払いした。
「でも、いい人だ」
「違う!」
「助けたかったんだよね!」
叫びを掻き消すように、一段高く声を上げる。
「ハルは、その仕立て屋の人を助けたかったんだ。助けを求められたから。でも、そのせいでお父さんとお母さんを亡くしてしまって、自分を責めて、苦しんで……罪人を処刑することに道を見出して。それでも――それなのに、ハルは罪人を心から憎めないでいるんだ。助けられるなら助けたいって思ってるんだ」
――そうだ、ハルは人を助けたいって願っている。
聖堂の壁に何度も打ちつけられ、赤く腫れあがった拳。
落火から助けてくれた時の、必死な叫び。
そして今、目の前にいる彼の眼差し。
どれもこれも、たった一つの事実を伝えてくれている。
「ハルは子どもの頃から、きっと何も変わってない。だから私を助けてくれたし、リノが殺されてつらかったんだ。罪なんて関係ない。ハルは、いい人だ!」
鋭い音とともに、ミナの顔のすぐ横にナイフが突き立てられた。
「黙れよ」
けれど、ミナはやめない。
「過去に振り回されないで。過去は変えられないし、過ちは消えない。つらい記憶は胸に刺さり続けるし、自分を許すことなんて生涯できないかもしれない。……私も、そうだから。でも、それでも、自分がどうするかは自分で決めることができる」
ハルに向けて言葉を紡ぎながら、同時にミナは自分へも語り掛けていた。――そうだ、どうするかは自分が決めなくちゃ。
「自分が本当にしなければならない、ううん、正しいと思えることをやって。償うなら償うでいい。でも、自分の気持ちに蓋をするのは償いなんかじゃない。過去を抱えながら、それでも前に進むことが償いなんだと思う。そうじゃないと、きっと何も始まらない」
「黙れよ!」
ナイフを振り上げるハル。闇に光るその瞳は痛々しいほどに血走り、刃の切っ先は哀れなほどに震えていた。
ミナは、静かに目を閉じた。
静寂が降りた部屋の中を、ハルの荒い息遣いだけが行き場を求めて彷徨う。それは徐々に可細く弱まっていき、やがて一際長い吐息とともにふつりと消えた。
床に乾いた金属音が響き、のしかかっていた重みが消える。そっと目を開けると、顔を背けたハルが悄然と立ち尽くしていた。
全身からどっと力が抜ける。
「また、助けられちゃったね」
「何か、馬鹿馬鹿しくなった」
弱々しく首を振るハル。
「俺みたいなやつのために命懸けになるとか、頭がおかしいぜ。馬鹿馬鹿しくてやってられない」
「だから、そんなこと言わない」
「……悪かった」
少年が項垂れる。ひどく正直なその仕草が可笑しくて、ミナは小さく笑った。
「どうしてだ?」
「ん?」
「どうして罪人を助けるんだ?」
そんなに傷つけられてきたのに――その声は言外にそう言っていた。
「誰でもってわけじゃないよ」
身体を起こし、ローブを掻き寄せる。自分を買った男たち、そして母を陥れたあの商人。許せない人間はいくらでもいる。
「うーん、罪を犯してもやり直せる機会はあるはずだから、とか前みたいに言えたらかっこいいんだけど……」
うん、と一つ頷く。
「多分、全部自分のため」
「……やり直せるとは思えなくなった?」
「正直分からない。けど、そうであってほしいと思う」
「そっか」
短い沈黙の後、ハルは顔を上げた。
「セラたちのことだけど……もし俺が許しても、あの司教が許さないんじゃないか?」
ミナはぽかんと少年を見つめた。意味を掴みかねたのだ。ようやく彼の意図を呑み込むと、彼女はおそるおそる尋ねた。
「それって……」
「借りは返す主義だって言ったろ」
ばつが悪そうな顔でハルは目を逸らした。
「あ……」
――届いたんだ。
自分の言葉が、目の前の少年に届いた。その事実に触れ、何かがぱちんと弾けた。喜びとも愛おしさともつかないただただ温かい感情が溢れ、全身を覆い尽くしていく。
何か言いたかった。とにかく、今の気持ちを伝えたかった。
――こんな時には……そう、最高の信愛を示すあの言葉だ。
「ハル、愛してる」
不思議な間が空いた後、何歩か後ずさりしたハルが、この世の終わりでも見るような目でミナを凝視した。
「何言ってる?」
一拍置いて、たった今重大な誤解が生じたことにミナは気付いた。
「あ、今のは……違う」
「やっぱり頭おかしいのか?」
ミナはあたふたと両手を振り回す。
「違う違う、違うから。好きって意味じゃないから。えーっと、好感? いや、ハルに好感持つ人なんてどこにいるっていうのよ!?」
「ちょっと待て! さっきと言ってること全然違うぞ!」
「そもそもこれはお母さんの言葉で……いや、お母さんがハルのことを愛しているってことじゃなくて……あ、違う、ハルのお母さんはハルのことをきっと愛していたんだけど――」
立ち上がろうとして、ローブに足を取られ派手に倒れ込む。一層無残に生地が破れ、鈍い痛みにくぐもった声が上がる。
その肩に、ふわりと薄布が掛けられた。顔を上げると、ハルが呆れ顔で手を差し出している。
「ほんとにとろいな」
「放っといてよ」
「なあ」
「ん?」
「ありがとう」
彼女を立たせると、ハルは何も言わず出て行った。一人ベッドに腰掛けたミナは、今更ながら雨戸が全開であることに気付き、大慌てて閉めた。
――大声出したから、ローザたちに聞かれてるよね……。
弁明しに行くべきか迷ったが、やめておいた。着替えるのも面倒に感じるほど消耗していたからだ。明日聞かれたら答えればいいだろう。
ごろんと仰向けになる。身体とは裏腹に、心は憑物が落ちたかのように軽かった。
自分が正しいと思っていることなど、すべて幻想かもしれないし、手前勝手な自己満足の産物にすぎないのかもしれない。けれど。
「すべてを知ろうとしてはならない、それができるのは神だけなのだから。ただ身を任せなさい、あなたにできることはそれだけなのだから」
ぽつりと呟く。
そう、馬鹿な自分に分かることなんて限られている。だから、できることをしていくしかない。間違えてばかりだとしても、結果がどうあろうと、受け止めながら前に進むしかない。
深く息をつく。ようやく地に足がついた気がした。
と、にわかに肩が震え出す。それは治まることなく、どころかあっという間に全身へと波及していった。同時に、どす黒い恐怖が心を侵食していく。今頃になって肉体の記憶が反応し始めたのだろう。
汗ばむ手で白布を握り締める。目をつむって吹き荒れる嵐に耐えながら、それでもミナは微かに笑った。
「こちらこそありがと、ハル」
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