幕間 ハル

 それは、ハルが八歳の冬のことだった。

 珍しく街に雪が降った夜、両親は結婚記念日を祝いに演劇鑑賞へ出かけ、彼は留守番をしていた。寂しかったが、毎年の恒例行事なので仕方ないと諦めの境地だった。

 それに、この分の埋め合わせは後でたっぷりしてもらえることになっている。借りは必ず返せ――それが保安官である父の口癖であり、信条だったからだ。ハルは何をおねだりしようかとあれこれ思いを巡らせ、小さな自分の部屋で一人ほくそ笑んでいた。

 作り置きの夕食を終えてしばらくした頃、玄関の木戸をノックする音がした。

 留守中は誰が来ても出なくていい、と教えられていた。だが、その音があまりにも弱々しく、何かを訴えかけているように聞こえたため、ハルはおそるおそる木戸を開けた。

 そこには、全身泥にまみれた人物がうずくまっていた。近くの商店街で衣服を扱っている男で、ハルも仕立ててもらったことがあった。

 彼は慌ただしく玄関に転がり込み、言った。

「すまねえ、坊や。助けてくれないか。悪い連中に追われてるんだ」

 彼の言葉が終わらないうち、遠くから何人もの足音が響いて来た。

 ハルは反射的に木戸を閉め、閂をかけた。

 徐々に足音が大きくなる。扉越しに窺っていると、どうやらこの辺りの家をひとつひとつ回っているらしい。やがてハルの家の順番が来たが、なぜかノックはなく、足音は遠ざかって行った。

 震える手で閂を押さえていたハルは、床にへたり込んだ。そして、ここにはいない父に感謝した。――きっと、悪い連中は知っていたんだ。僕のお父さんが保安官だってことを。

「坊や、本当にありがとう。助かった」

 低頭平身礼を言い、男は出て行った。

 ハルは、自分のしたことが誇らしかった。帰ってきたらお父さんに自慢しよう。もしかしたら、大きなおねだりも聞いてくれるかもしれない――胸を躍らせながら、彼は両親の帰宅を待った。

 だが、二人が帰って来ることはなかった。ハルが助けたその男によって、殺されたのだ。

 男は借金がらみの口論で取り立て屋の一人を殺めてしまい、追手から逃げている最中だった。ハルの家で追手をやり過ごした彼は、しかしすぐさま取り囲まれることになる。

 そして、その現場に両親は遭遇してしまった。

 男は自棄になり、刃物を振り回していた。保安官としてその場に割り込んだ父は、逆に胸を刺し貫かれてしまう。さらには、それを見て取り乱した母が男に掴みかかり、こちらも凶刃の餌食となってしまった。それは、あっという間の出来事だった。

 男は駆け付けた別の保安官に捕らえられ、その国では滅多にない判決――死刑が言い渡されることになる。だが、それはハルにとって何の慰めにもならなかった。

 ――自分が匿わなければ、二人が死ぬことはなかった。

 ざらついた思いが彼の心を掻きむしる。小さな胸に、罪の意識がどこまでも膨らんでいった。彼はまともに口を利くことができなくなり、ひたすら自分の殻へと閉じこもるようになった。

 近くに身寄りのなかった彼は、顔も知らない遠縁の親戚に引き取られた。だが新しい家に着いて間もなく、そこの主人が商売で大きく失敗してしまい、夜逃げ同然に国を出ることになる。そして彼が十歳の時に辿り着いたのが、ミティア教国だった。

 ミト教の教えを初めて聞いた時の衝撃を、ハルは今でも鮮明に思い出すことができる。虚偽に対して、実際に神罰を以て応えるミトラス神。もし自分の国にも同じような神がいてくれていたら、父と母は助かっていたかもしれない。心の中が悔しさで溢れ返った。

 一方で、微かにではあるが希望も感じていた。そんな神が治めるこの国では、犯罪などないに違いない、もう二度とあのような思いを味わうことはないはずだ、と。

 だが。蓋を開けてみれば、ミティア教国にも犯罪は蔓延していた。そして、偽証を禁じられていながら抜け道を巧みに使い、罪から逃れている者も大勢いた。神など、神罰など、何の意味もなかった。

 一つの信条がハルの心に刻まれるのに、時間はかからなかった。

 罪人は罪人、一人として生かしておくべきではない――それは奇しくも、ミティア教国が掲げる理念と同じだった。ただし、決定的な違いが一つあった。この国の神を、彼は信じていなかった。

 神に救ってもらう代わりに彼が選んだのは、言葉を極める道だった。罪人は巧みに言葉を駆使し、神罰も法もすり抜ける。それに対抗するには、こちらも言葉に精通しなければならない。異国語の壁に阻まれながらも、彼は周囲の人間を観察し、注意深く言葉の裏を探るようになった。

 異邦人として受ける差別は、むしろ彼の糧となった。何かにつけて言いがかりをつけてくる連中を、彼は片っ端から論破していった。より大きな反動を食らうことも多かったが、まるで気にならなかった。彼には目標があったから。神などに頼らず、自分で罪人を根絶やしにするという大きな目標が。

 そして、彼は審察官になった。

 以降、彼の時間はひたすら罪人を捕らえることに費やされる。罪人を一人残らず捕まえること――それが彼にとっての贖罪だった。審察官になってからの一年、時には周りの制止も聞かず乱暴な手段に訴えて、ハルは一人の遺漏もなく罪人を捕まえていった。

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