10章 その2 光明と混迷②
二十分ほど経った頃、ハルが何かにつまずいた。
ちょうど足首の高さ、一本のロープが通路を横切るように張られており、その一端は壁面に沿って奥へと伸びている。
「鳴子か」
忌々し気に舌打ちすると、ハルは声を潜めた。
「こっちのことがばれた。いつでも攻撃できるようにしておけ」
少しすると、通路は緩やかな登り坂となった。先の見通しが悪くなり、用心のため二人は歩く速度を落とす。だが、危惧していたような襲撃はなく、さらに二十分ほど歩いたところで終点が口を開けて待っていた。
空はすでに茜色となっていた。気配を窺いながら慎重に表へ出ると、二人は素早く周囲に目を配る。
そこはどんぶりの底のような場所だった。聖堂ほどの空間には何もなく、ただ赤茶けた大小の岩が無数に転がっている。周囲は緩やかなすり鉢状の傾斜となっており、数メートルほどの高さがあった。振り返ると、急勾配の岩肌がどこまでも続いており、そこが岩山の中腹に開けた窪地なのだと見当がついた。
突然、鈍い衝撃がミナの背中に走った。短い悲鳴が口をつき、激しく前に倒れ込む。身体をしたたか打ったが、痛みに顔をしかめているひまはない。慌てて起き上がろうとしたが、その前に大柄な人影がのしかかって来た。
それは、ぼろを纏った男だった。顔は伸び放題伸びた髭と髪に覆われており、手には夕陽に閃く短刀が握られている。
「ミナ!」
助けに行こうとしたハルの前にもう一人、薄汚れた男が立ちはだかる。全身埃にまみれたその姿は、まるで巨大な鼠のように見えた。
おそらく、彼らこそ落火なのだろう。付近の岩陰に隠れ、二人を待ち伏せしていたのだ。
男がハルへ短刀を振り下ろす。咄嗟に両手で受け止めたものの、右手に走った鈍い痛みに呻きが漏れる。聖堂の壁に何度も叩きつけたその拳は、今は赤を通り越して青黒く変色していた。
男が力任せに短刀を押し込む。痛みのためうまくいなせず、膝をつくハル。じりじりと刃先が近づいて来る。
「おい、ミナ!」
呼び掛けた先で、少女は馬乗りに押さえつけられていた。
奇妙なことに、彼女は抵抗するでもなく荒い息遣いでただただ震えていた。上に乗った男が高々と短刀を振り上げる。その刃先を見つめるミナは、やはり何の抵抗も見せない。
「くそ、ふざけんな!」
真下へと思いっ切り身を沈めるハル。腕先に抵抗をなくした男がバランスを崩し、前のめりによろめく。その横っ腹に渾身の肘を突き刺すと、相手は呻き声を上げて地に伏した。
素早く体勢を立て直し、もう一人へと体当たりを食らわせる。予期せぬ攻撃に男はあえなく宙を舞い、そのまま岩場へと激突した。
「おい! 大丈夫か!」
つんのめりながらミナを抱きかかえる。彼女から返事はなく、その目は焦点を結ばずに揺れていた。
砂を踏む音。起き上がった男たちが、距離をじりじりと縮めてくる。帰り道は彼らの背後。逃げられない。ハルはナイフを抜き、自由の利く左手に構えた。
男たちの足が止まる。彼らからすれば慌てる必要はない。息を整え間合いを計る。睨み合うだけの焦げ付くような時間が過ぎ――
「はあい、そこまで!」
頭上から唐突に響き渡ったそれは、あまりに場違いな、陽気に満ちた声だった。一斉に見上げた三人の視線の先、斜面の頂に風変りな人物が立っていた。
白粉をはたいた顔に朱が塗られた唇。腰まで伸びた艶やかな紅髪。身に纏うローブは、見たこともない極彩色の刺繍で覆われている。
一目は女と思われた。だが、そのたくましい体格やごつごつと角ばった輪郭から、男であることがすぐに知れた。
声の主はこつこつとこめかみを叩きながら、気軽な調子で斜面を滑り降りてきた。近くで見ると、その目は兎のように全体が赤く染まっている。それが眼球の極端な充血によるものだと気付くまで、ハルは幾分かの時間を要した。
「そんな物騒なものはしまいなさいな」
男の口から、わざとらしい高音が響く。襲撃犯の片割れが唾を吐いて怒鳴り返した。
「スロース、これは俺たちの問題だ! 邪魔するならお前も殺すぞ」
「ふうん?」
スロースと呼ばれた男が片手を上げると、ハルたちの頭上、斜面の周縁に沿って何十人もの男たちが一斉に現れた。いずれも弓をこちらに向けている。
「どっちが先に殺されるか、競争してみる?」
ぎりっと歯を噛みしめ、襲撃犯たちが後ずさる。
「ハル」
間近から聞こえたその声に、ハルは慌てて腕の中の少女を見た。彼女の双眸には光が戻っており、しっかりと彼を見つめ返している。
「ごめん、もうだいじょうぶだから」
「あらあ、よかったわねえ!」
女装の麗人が嬉しそうに手を打つ。対して油断なく身構えるハル。
「あんた、何者だ?」
「そんなに見つめないでちょうだい。火照っちゃうじゃない」
肢体をくねらせ、男は片目をつむる。
「あたしはスロース。そこにいる二人と同じく落火よ」
ハルは素早くナイフをスロースへと向けた。弓の照準が一斉に彼へと集まったが、スロースがそれを手で制する。
「心配しなくて大丈夫よ。あたしたちは敵じゃないから」
「落火が何言ってる。罪人が」
「あらあら、言いがかりも甚だしいわね。私たちは罪人じゃないわ。
「裁きも受けずにのうのうと生き永らえてるくせに」
「はあ、心外ねえ。命の恩人にそんな口の利き方ってあるかしら」
反駁しようとするハルの横で、よろよろと立ち上がったミナが頭を下げた。
「あの、助けてくれてありがとうございました」
ハルがぎょっと目を剥く。
「おい、分かってんのかミナ! こいつら落火なんだぞ!」
「あっははははははは」
スロースが盛大に笑い声を上げた。それまでとは違い、腹の底から響くような野太い声だった。
「立派な心掛けだ、ミナ・ティンバー。審察官にしとくのはもったいない」
目を白黒させるミナに、彼は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「あなただけじゃない、隣の頑固者くんのことも知ってるわ。ま、教国には教国のネットワークがあるように、落火には落火のネットワークがあるのよ」
彼が言うには、落火たちは生きていくために独自の組織を創り上げているらしい。当初小さかったそれは、今ではこの国全体に根を張るまでに成長し、各地からの情報や物品はいくらでも手に入るのだという。
「そして、あたしはこの近辺を任されてる地方官ってところね」
スロースは手頃な岩にスカーフを敷くと、どっかり腰を下ろした。ミナもそれに倣ったが、ハルはナイフを構えたまま動かない。二人の落火も同様だ。
「ちなみに、組織の名前は『街道商会』よ。洒落た名前でしょう?」
「ふん、野盗の集まりだろ」
「それは遠い昔の話。そんなことしなくても、今はちゃんと生きていけるのよ。裏でうちらに取引を持ち掛けに来る商人はいくらでもいるし、それ以外でも商売相手には事欠かないからね」
意味ありげに言葉を切ると、彼はにっと笑った。
「もう野盗なんてしなくても生活していけるのよ。それどころか、そういった場面に出くわしたら、殺傷沙汰に発展しないよう仲裁に入るくらいよ。ちょうど今みたいに、ね。人が殺されるのは、あたしたちとしても気持ちのいいものじゃないから」
「野盗の被害はしょっちゅう報告されてるがな」
「組織に入らず好き放題やってる連中もいるってことよ。こいつらみたいにね」
襲撃犯たちを指差すスロース。
「とはいっても同じ境遇のよしみでね、こいつらが危ない目に遭うのを黙って見てるわけにもいかないのよ。それでここに来たってわけだけど、まさか審察官様の方を助けることになるとはね。でも、ちょうどよかったわ。取引しない?」
「取引だ?」
「あなたたちはこいつらを見逃す。こいつらはクラッドについて知っていることを話す」
思わぬ言葉にミナが腰を浮かせる。驚いたのはハルも同じで、わずかに身体をのけぞらせると、スロースに食って掛かった。
「何でクラッドのことを知ってる!」
「もう、いちいち突っかかってこないでよ。かわいいんだから」
笑いながら、スロースは右手首を二人に示す。そこには、鮮やかな赤痣が刻まれていた。
「加護持ちなの、あたし。加護名は『足跡』。半径五キロメートル四方にいる人間を探知することができる能力よ」
スロースの説明によると、彼の頭の中には本人を中心とした立体地図が常に浮かんでおり、人のいる場所には赤い点が灯るらしい。見知っている人物なら誰なのかまで特定できるが、自分の足で行ったことのない場所は範囲内であっても探知不能とのことだ。
彼がこの場に駆け付けたのも、地下通路を歩いて来るミナたちと、それを待ち受ける二人の落火――クラッドの仲間らしい――を探知したからだという。
「最近、クラッドが怪しい動きをしてるのも探知していたの。で、その矢先に審察官が町から出て来たんだもの、クラッド関係だって誰でも想像がつくわ」
さて、とスロースが審察官二人を交互に見遣る。
「どうする? なかなかお得な取引じゃない?」
「罪人と取引なんてすると思うか?」
「さて、どうかしら?」
スロースはぐるりと顔を巡らせた。取り囲んだ無数の矢じりが鋭い光を放っている。選択肢はない、と言いたいのだろう。
「それに、隣のお嬢さまは満更でもなさそうよ?」
苦り切った顔でハルが振り向くと、ミナが真剣な表情で彼を見つめていた。
「こいつら、落火なんだぞ」
咎めるような声に、彼女は首を振る。
「スロースさんは野盗なんてしていないって言ってる」
「代わりに非合法な商取引をしてるだろ」
「でも、それは生きるためだって」
「信じるのか?」
「ミト教徒は嘘がつけないよ」
言葉に詰まる少年に、ミナは畳みかける。
「クラッドを捕まえることだけ考えろって言ったの、ハルだよ」
「……くそ、勝手にしろ!」
足元の石をやけくそのように蹴りつけると、彼は手近な岩に荒々しく腰を下ろした。
「決まりね」
ぽんと手を打ち、スロースはもう一方の交渉相手へと顔を向けた。
「あんたたちもそれでいいわね?」
「俺らはさっき、間違いなくそいつらを
「あんなの、たまたま奇襲がうまくいっただけじゃない。うちの情報によると、こちらのミナちゃんは加護持ちらしいわよ。結構えげつない能力の。もう一度戦ったら、今度はぎったぎたにされるのがオチね」
顔を見合わせる襲撃者たち。
結局、不承不承ながら彼らも取引を受けた。
二人はそれぞれオーエン、ヴィンと名乗った。
彼らとクラッドは元々サウスウェルズの住人で、十五年前の紛争の後、出来心から火事場泥棒の真似事をしてしまい、露見したため町から逃げ出したのだという。クラッドの左腕はその時、マズローの加護で吹き飛ばされたらしい。
「すげえ威力だった。ばかでっかい腕が空中に出てきて、あいつの腕を棒切れのように吹き飛ばしたんだ。あれから何年も経つのにクラッドのやつ、夢にうなされてたくらいだ」
町から逃亡した彼らを保護し、クラッドの傷を治療したのは街道商会だった。「うちにもそこそこ優秀な加護持ちがいるのよ」と、スロースが得意げにうそぶく。
傷が癒えた後、三人は組織へ勧誘されたが断った。
「落火になっちまったんだから何をやっても同じだ、俺たちは俺たちの好きなようにやる――確かそんなこと言ってたわね。いじけた子どもみたいな顔で」
からかうようにスロースが言うと、落火は不機嫌に鼻を鳴らした。
「何も間違ったこと言ってねえだろ」
「まあ、ある意味ではね」
結局、三人は野盗や狩りで生計を立てることになる。
ひと月前。
例の通路(そこはいくつかある彼らのねぐらの一つだった)で雨宿りをしていたクラッドは、エリスたちと出会う。彼にとってそれは晴天の霹靂だった。
「やつも俺らも、あの町にあんな訳の分からん仕掛けがあるなんて知らなかったからな。あそこも坑道の跡か何かだと思ってたくらいだ。知ってれば腕をなくすこともなかったかもしれないって、クラッドのやつ散々悔しがってたぜ」
だが、すぐさま冷静に戻った彼は、怯える修道女たちを目の前にして一つの計画を思いつく。
――こいつらの道を踏み外させることで、マズローに復讐しよう。
「クラッドも加護持ちだったんだ。『魅了』ってやつで、相手を自分に惚れさせるって下品な代物さ。相手の目を見つめるだけで発動するが、効果は一週間で切れるから重ね掛けが必要だし、同時に二人には使えねえから使い勝手は悪かったがな」
だが、それで十分だった。エリスを魅了したクラッドは彼女を汚し、理性を破壊していった。そして、とうとう彼女は彼を聖堂へと引き入れてしまう。清浄なる聖堂で修道女を犯すって、マズローに対する最大の復讐じゃないか?――戻って来るたびに、クラッドはにやにやしながらそう語っていたという。
「ふん」
不愉快そうにハルが鼻を鳴らした。
「落火に気を許したのはその加護のせいだったんだな。リノ修道女が抵抗もせずに殺されたのも、きっと」
「魅了されてしまったってこと?」
「ああ、不意打ちを食らわされたんだろうな」
落火が先を続ける。
「で、クラッドがあの女をきっちり調教して、いずれ三人で楽しむはずだったんだが、病院に連れていくって話が出たらしいんでな。その前に連れ出して、死ぬまで
魅了の効果は一週間。大きな町へは往復に最低二日はかかるし、入院することになればさらに日数がかさむため、効果が切れてしまう恐れがある。その前に楽しめるだけ楽しもう、というわけだ。
それが十日前。クラッドがエリスを外へと誘い出し、三人で襲う予定だった。二人はここ、地下通路出口で酒を飲みながらクラッドの帰りを待ったが、一向に戻って来る気配がない。
「中で一足先に楽しんでやがるって思ってたんだ」
だが、夜が明けてもクラッドは帰ってこなかった。
――捕まりやがったな。
そう理解した途端に酔いは吹き飛び、二人は慌てて逃げ出した。追いかけて来る者はおらず、胸をなで下ろしたのも束の間、今度は町へ使徒――ミナたちがやって来るのを目撃することになる。彼らの目には、それが自分たちを捕まえるための増援に映った。
「もうここに根を張っちまってるからな。今更、よその土地に逃げるなんてできねえ」
追い詰められた二人は鳴子を張り、迎撃の準備を整えた。そして――現在に至る。
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