9章 その2 失態と告白②

 事の始まりは、エリスの見つけた一枚の羊皮紙だった。

 図書室の書架の裏で埃をかぶっていたそれは、教会の設計図だった。かつて教会を建てた時のものだろう。そして重要なのは、聖堂から町の外へと続く地下通路がそこに描かれていたことだ。

 この発見に彼女たちは色めき立った。――この通路を見つけることができれば、こっそりと外出することができる!

 秘密裏に通路探しが始まった。設計図は大まかなものだったため調査は難航したが、ひと月前の晩、とうとう彼女たちはそれを発見することになる。

 仕掛けは篝火台にあった。床に据え付けられているはずのそれが、一定の方向に押した時のみ動くことに気付いたのだ。試行錯誤の末、決まった手順で動かすことで、右の篝火台を大きくずらすことに成功する。元の場所に敷かれた大理石板は簡単に取り外すことができ、その下に隠し通路が四角く口を開けていた。

 その日、天候はあいにくの雨だったが、少女たちはそのまま地下へと降りて行った。高揚した彼女たちに待つという選択肢はなかったのだ。

 一本道を十分ほど歩いた頃だろうか。四人の前に突然、大きな影が立ち塞がった。

 巨大な鼠――その姿を見た瞬間、ローザの頭に浮かんだ言葉だ。伸び放題の髪と髭は脂ぎった鈍い光沢を放ち、その下の埃にまみれた顔には下品な笑いが浮かんでいた。身体を覆っているのはぼろ雑巾のような布切れで、あちこち擦り切れ、異臭を放っている。左腕はなく、その根元に肉の盛り上がりがあるばかりだった。

「それは、クラッドという名前の落火らっかでした」

 落火――罪を犯したにも関わらず裁きを逃れ、町の外へ落ち延びた者の総称である。町へは二度と入れないため、糊口しのぎに野盗となる者が多い。裁きも受けず、さらに罪を重ねる彼らは、この国ではもはや人間と見做されていない。

「すぐに逃げました。でも、エリスちゃんが転んで足を捻ってしまって……それで追いつかれてしまって」

 四人は恐怖に固まったが、クラッドが乱暴を働くことはなかった。それどこころか捻挫の応急処置を施した上、聖堂への出入口までエリスを運ぶのを手伝ってくれた。断れば何をされるか分かったものではなく、エリスも彼に触れられるのを嫌がらなかったため、拒むことはできなかった。

 体調が回復すると、エリスは地下通路を伝って一人、クラッドに会いに行った。二人の間で何が話されたのかは分からない。だがそれ以降、エリスは夜中の外出を繰り返すようになる。やめるように何度も注意したが、彼女はまるで聞く耳を持たなかった。

「どうしてエリスちゃんが落火に――あんな男なんかに魅せられたのか、今でも分かりません」

 破滅はすぐさま訪れた。

 二週間ほどしたある夜、いつものように修道院を出たエリスはなかなか帰ってこなかった。不安に駆られた三人は聖堂へ向かい、そこで信じられない光景を目の当たりにする。

 大理石の床の上、炎に照らし出されていたのは、男と女の裸体だった。

 エリスは陶酔の表情で、彼女たちに気付く様子はなかった。だが、クラッドはいち早く三人を確認すると、行為を中断するどころか、むしろ媚態を見せつけるようにその身体を大きく波打たせた。聖堂の空気を震わせる、修道女の淫靡な嬌声。

 振り返ることすらできずに、三人は修道院へ逃げ帰った。

「落火とあんなことを……しかも聖堂の中で……本当にどうしていいか分からなかったんです」

 彼女たちが取り乱してしまったのは、親友の淫猥な姿を見てしまったからだけではない。エリスの行為が法に触れていたからだ。

 落火との接触自体は、罪とはならない。偶然に遭遇してしまう場合もあるためだ。だがそこから先、彼らと踏み込んだ遣り取りをすることは重罪として厳に禁じられている。例外は自衛目的の行動などごく少数のみであり、「町中へ引き入れる」「身体を重ねる」などもってのほかである。エリスはそれを破ってしまったのだ。

 眠れない夜を明かした翌日、三人はエリスに詰め寄った。このことは秘密にするからもうやめるように、と。だが、彼女はぼうっとした顔で首を振るばかりだった。

 部屋に閉じ込めるなど、力づくで止めることも考えた。だが、そんなことをすればあの落火が怒り狂い、恐ろしい目に遭わせられるかもしれない。これまでのすべてが露見してしまう危険もある。そのため、ローザたちはただ虚しく言葉を掛けることしかできなかった。

 結局、一度緩んだはもう元には戻らなかった。エリスはその後、毎晩のようにクラッドを聖堂へ招き入れるようになる。篝火台はその構造上、聖堂側からしか動かすことができないため、二人で時間を決めて、エリスが通路を開閉していたようだ。

 事が発覚する恐れはまずなかった。厳しい戒律が課されているこの教会で、消灯後に部屋を出る者はまずいないからだ。聖堂内の空気は恒炎が浄化してくれるし、床の汚れは拭けば済む。そしてエリス自身は、事が済んだ後に沐浴すればよい。

 厨房から食材を盗んでいたのもエリスだった。クラッドとの夜食としてくすねていたのだ。盗みを働くことなど、もはや彼女にとって大した問題ではなかったのだろう。

 そして、二人の逢瀬は彼女が殺されるまで続いた。

 その間、落火を恐れるローザたちは鍵を掛けた自室にそれぞれ閉じこもり、怯えながらの夜を過ごした。全員で一室に固まった方がいいのでは、という意見もあったが、そこへ押し入られたら誰も逃げられないと却下となった。

「エリスちゃんを殺したのは、クラッドです。でも、どうしてそんなことになったのか分からなくて……」

「理由なんてない!」

 俯いたままのセラが、甲高い声を上げた。

「落火なんだから、理由なんて考えるだけ無駄だったんだ! だって! ……だって、エリスに変わった様子なんて本当になかったんだから。確かにぼーっとしてばかりだったけど、それはあの男にいいように遊ばれていたから。殺されるような、そんな素振りなんてどこにもなかった!」

 その言葉に、ミナはようやく理解した。セラたちはエリスの様子について偽証をしていたわけではなかったのだ。

 エリスが殺された理由を知りたい――食堂で聞き取りを行ったあの夜、ミナはそう二人に前置きした。だから、エリスに変わった様子はなかったかと聞かれた彼女たちは、「()変わった様子はなかった」と答えた。

 。昨日のセラとの遣り取りもまた、同様に形成されたものなのだろう。

 感情を吐き出すように、口早に続けるセラ。

「犯人はあいつ。あの落火。でも、言えなかった。落火を町の中に入れていたなんて、言えるわけがないじゃない。司教が知ったら、きっと火刑にされる」

 クラッドを町へ引き入れたのはエリスだ。だが、結果的にセラたちはそれを黙認する形となってしまった。おそらく、あの信仰の鬼は彼女たちを許さないだろう。

 ローザがセラの後を継ぐ。

「でも、言わなければ言わないで、大きな問題がありました」

 セラがエリスの死体を発見した時、篝火台は元の位置に戻され、通路は閉じていたという。だが先ほども述べた通り、篝火台は聖堂側からしか開閉ができない構造となっている。これら二つの事実は、ことを示していた。そして、その人物としてまず疑われるのは、前夜エリスと聖堂にいたはずのクラッドだった。

 ――町の中に殺人犯がいると、みんなに知らせなければ。

 ――でも、そうするとこれまでのことがすべて露見してしまう。

 進むも引くもできず、身動きが取れなくなる三人。だが、潜伏者の存在はロンゾの調査により否定される。おかげで多少落ち着きを取り戻した彼女たちは、こう考えるようになった。

 ――きっと、クラッドは物見櫓から外壁を越えたんだ。

 ――だから、私たちが篝火台を動かしさえしなければ、もうあいつはこの町に入るはできない。私たちは安全だ。

 あまりに虫がよすぎる解釈だったが、彼女たちはそれに縋った。自分たちの身の安全を信じたかったのだ。

「それで、このことは黙ったまま終わりにしようってことになったんです。三人だけの秘密にしようって」

 でも、とセラが再び口を開く。

「エリスが死んだのは、止められなかった自分たちのせいだってリノが言い出して……今度はそのリノまで死んじゃって。きっとリノもあいつに殺されたんだ。あいつは私たちを皆殺しにしようとしてるんだ!」

 舌はもつれ、言葉は徐々に脈絡を失っていく。突然に降って湧いた、ありえないはずのリノの死。あらためて差し迫った危機的状況。それらに直面して、麻痺していた感情が一気に噴出しているのだろう。

 その背をローザが再びさすった。たった一晩のうちに、彼女も大きく変わってしまった。彼女にとってもリノがどれほど大きな存在だったか、実感としてミナの胸に迫ってくる。

 ――ううん、違う。

 ミナは小さく首を振った。リノだけではない。彼女たちはすでにエリスをも失っているのだ。

 エリスのことは黙ったままでいることになった――先ほど、ローザはそう言った。話せば自分たちの身が火刑になってしまうからと。

 だが、聞き取りを行ったあの晩。エリスのことを教えて――そう言うミナに対して、彼女たちは少なくとも態度を硬化させることはなかった。秘密を抱えた二人にとって、エリスについて探ろうとしている彼女は警戒すべき存在だったはずなのに。

 さらに、エリスの様子について聞かれると、あいまいに誤魔化すこともせず、真剣に考え、答えてくれた。自分たちの首を絞めるかもしれないにも関わらず、「変わったところはなかった」と。

 ミナは思う。エリスへの想いがそうさせたのだと。頭では黙っているべきだと分かっていながら、想いが無意識に言動となって表れてしまったのだと。悲哀を露わにしていたリノ、ローザだけでなく、セラもまた、麻痺した心の奥でエリスのことを悼み続けていたのだ。四人は、お互いにかけがえのない存在だったのだ――

 やがてセラの言葉が尽きた頃、ローザが口を開いた。

「ミナさんが審察官になったのは、事情のある罪人を助けるためなんですよね」

 これもリノから聞いたのだろう。ミナが頷くと、「お願いします」と彼女は頭を下げた。

「今さら自分が助かろうなんて思っていません。だけど、火刑に送るのを少しだけ待ってほしいんです。二人の命を奪ったあの落火が裁かれるのを、ちゃんとこの目で確認するまで。すべてを見届けたら……裁きはきちんと受けます」

「私は死にたくない!」

 セラは震える声で叫ぶと、ローザを押しのけミナの肩を掴んだ。思わず顔をしかめてしまうほどに強い力だった。

「ミナ、助けて!」

 ほんの刹那、ミナの中で暗い情念が渦巻いた。目の前の少女は、自分が助かることしか考えていないのではないか。そんなに、命が惜しいのか――

 けれど、本人が気付く間もなく、それは跡形もなく消えた。肩を掴んだ手を取り、ミナは強く握り締めた。

「だいじょうぶ、心配いらない」

 ――彼女たちは巻き込まれただけだ。そして、もう散々苦しんできた。これ以上ひどい目に遭わせるわけにはいかない。

「クラッドは必ず火刑に送るし、二人とも死なせやしない」

 ミナの胸に顔を埋め、セラは嗚咽を漏らした。

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