6章 その2 対話と疑惑②
マズローがこの町に着任したのは、十五年前。紛争で前任の司教が殉死したため、後任として派遣されたのだ。町に着くや、外壁の建造、負傷者の手当て、悲嘆に暮れる者への慰撫など、車椅子の身体で休みなく働き続けたという。
「町が復興したのは司教のおかげだって、みんな言ってる。あの人のことを悪く言う人、この町にはいないよ」
加えて、マズローは使徒の仕事もすべて一人でこなしていたという。紛争前は三人いた使徒がともに鬼籍に入ったためだ。
「三年前にロンゾが使徒になるまで、ずっと」
「うわあ……」
執務室で見た、意志に満ちた紅瞳を思い出す。彼なら確かに、どんな困難も不平一つ漏らさず踏破しそうだ。
「本当にもう、絵に描いたような聖職者。でも、それだけじゃない。司教は加護も授かってる。足が不自由なのはその代償」
加護の名は『巨腕』。空中に巨大な腕を一本創り上げ、自在に操ることができるという。外壁を築くことができたのも、彼の加護によるところが大きかったそうだ。
「もちろん、それを異教徒が手をこまねいて見てるはずがなかった」
外壁を築いている間に一度、襲撃があった。直近の紛争で異教徒もそれなりに損害を負ったはずだが、結構な数が町へと押し寄せてきたという。
だが。それらは一人の司教によって壊滅させられた。
「異教徒との紛争がなくなったのは、外壁のせいもあるだろうけど、たぶん司教がいるってことの方が大きいんじゃないかな」
ミナはごくりと唾を飲んだ。加護があるとはいえ、多勢を相手に車椅子の身体で、たった一人で。
「何か怖くなってきた。すごい人だね」
「そう、私たちにはもったいないくらいの立派な人だよ。ただ、それだけすごい人だから、しつけにしても何にしても、やっぱり厳しいは厳しいんだよ。私と教義どっちが大切って聞きたいくらい」
ふう、とセラがため息をつく。
「ロンゾが使徒になってこの敷地から出て行くの、羨ましかったな。ひとり立ちして自由になれたらなあって、みんな思ってたから。ううん、もっと言えば、みんなこの町から出たかった。エリスなんて、ここじゃ生きてても死んでても同じってこぼしてたし」
ミナはぎょっとして声を上げた。
「生きてても死んでても?」
「あの外壁、見たでしょ? ここは閉じられた町なの。みんな、でっかい箱の中に閉じ込められて、その中で一生を送るしかない」
町から出られないのか聞くと、彼女はゆるゆると首を振った。
「人がいなくなっちゃうからね。知ってる? 今この町には五十人もいないんだよ。それも、みんな年のいった人ばかり。若い人は、十五年前にみんな死んじゃったからね。そして、何もないこんな場所に来る物好きもいない。結局、町を存続させるためには、今いる人間を縛り付けておくしかない」
「そんな」
「でも、そんなことしたって無駄。だってこの十五年間、子どもなんて一人も生まれていないんだから。この町で子どもって言えるのは、私たちくらい。もう十五なのにね。この町は、ゆっくりと死につつある。そんな中に埋もれていくのが、エリスには我慢ならなかったんだろうね」
町の外へ出たいと、エリスは何度も司教に願い出たという。しかし、そのたびに厳しい叱責を受けた。この町のため、ひいてはこの国のために尽くすのがミト教徒の務めだと。
「国のために尽くせなんて、聖篇に書いてないよね。そこでまた食ってかかって。でも、最後は司教に丸め込まれちゃう。聖篇の解釈であの人に敵う人、いないんじゃないかな。教義に身も心も捧げた、信仰の鬼だから」
「……二人は仲が悪かったの?」
「ううん、意見が合わなかったっていうだけ。司教も叱る以上のことはなかったし、エリスも言い負かされたら矛を収めてた。それが原因であんなことになるはずないよ」
司教の話はそこでいったん終わった。
ウェル料理長はこの町の生まれで、代々教会の料理人として働く家系だという。かつて彼には妻と一人娘がいたが、十五年前の紛争で死別している。娘の面影をセラたちに見ているのだろう、何かと親切にしてくれているという。
ノラ監督官も同じくこの町の出で、二十歳時、こちらもくだんの紛争で家族を失っている。長年暮らした家も倒壊してしまい、行く当てをなくした彼女に手を差し伸べたのが、マズローだった。引き取った五人の子どもの乳母、そして改修した修道院の監督官にと誘ったのだ。
「飴と鞭、かな。司教が鞭でノラが飴。何を言っても怒らないし、何でも話を聞いてくれる。エリスもよくノラに愚痴ってたよ。というか、エリスだけじゃなくてローザもリノも、みんな行ってる」
「セラは? 行かないの?」
「昔はよく行ってたけどね。いつの間にか足が遠のいたっていうか、どうでもいいかなって。どうせ、ここに一生いるんだから」
平板な声に、かすかな自嘲の響きが混じる。
「ここにいるとね、感情がどんどん鈍くなっていくの。砂に埋もれていくみたいに。町と一緒に、感情も死んでいくんだよ」
ゆるゆると首を振るセラ。
「私ね、エリスが死んで、悲しいとかそういった実感、あんまりなかったんだ。そりゃあ衝撃は受けたし、怖かった。だからへたり込んじゃったんだけど……でも、それだけ。ああ、やっぱり感情が鈍くなってるんだなって。で、そのこと自体にも全然感慨が湧かなくて」
「あ……」
先ほどからの違和感の正体に思いがけず触れ、ミナは声を漏らした。諦観に似た、感情の鈍磨。彼女の乏しい表情と単調な声は、この町の生活が作り上げたものだったのだ。
セラが続ける。
「でも、リノは自分を責めてしまって」
「責める?」
「そう。エリスが死んだのは自分のせいだって」
驚くミナに、彼女は「違うよ」と首を振った。
「エリスが死んだのはあの子のせいじゃない。ただ、そう思い込んでいるだけ。エリスがあんな目に遭わないよう、もっと自分にできることがあったんじゃないかって」
ローザが肩を震わせた。彼女も同じ気持ちなのだろう。
「そんなことないってどれだけ言っても、思い詰めるばかりで。会えばいつも同じ話の繰り返し。本当、どうしたものかな」
言葉が途切れ、沈黙が流れた。途方に暮れたように、燭台の火も動きを止めている。
その静止した光を見つめながら、ミナは四年前を思い出していた。母が死んだのは自分のせいだ――その言葉が頭から離れることなど、一度としてなかった。
ふ、とセラが息をついた。
「ごめん。こんなこと聞かされても困っちゃうよね」
「ううん、そんなことない。リノの気持ち、よく分かるし」
「ミナ」
瞳の奥に、かすかに非難の色が滲んでいた。またそんなことを言うのか、と。その目を、まっすぐに見返す。
「ごめんなさい。赤の他人に完全に理解できるはずないのは、もちろん分かってる。でも、私にとっては他人事じゃない。昔、同じような経験をしたことがあるから」
セラが目を瞬いた。
「そう、なんだ?」
「うん」
「……そうなんだ」
再び沈黙が流れたが、今度はそれを破る者はいなかった。
教会を出ると、ひんやりとした夜闇がミナを包み込んだ。昼間は太陽が照りつけるサウスウェルズだが、まだ初夏にも早いこの時期、晩課の前に陽は落ち、後は急速に冷え込んでいく。
少し歩いてから、ミナは空を見上げた。満ちる間際の月は銀に輝き、星はところ狭しとひしめき合っている。だがわずかに視線を下げると、黒々とした外壁がそれらを冷たく遮っていた。
どこにも逃げ場のない、感情すらも麻痺してしまう牢獄。そして、大切な人の無残な死。場所も状況も違うが、セラたちは昔の自分に似ている。ミナはそう感じていた。
――でも、彼女たちには仲間がいるけど、私は一人だった。それに、彼女たちはエリスを殺したわけじゃない。私の方が……
慌てて首を振る。そんなことを考える自分がひどくあさましく思われ、身震いする。夜の町は物音一つなく本当に死んでいるようで、まるで世界に一人取り残されたような感覚に襲われた。
「山の次は星空に感動か? 相変わらずお気楽な身分だな」
横目に振り返ると、ランプを手にハルが立っていた。
ただ誰かが傍にいる。たったそれだけのことなのに、ミナは我知らず泣きそうになる。――こんな鼻もちならない相手なのに!
「そっちこそ随分のんびりしてるね。こんな時間まで何してたの?」
空を見上げたままミナは尋ねた。
「そりゃ調査さ」
「ロンゾさんは?」
「先に家に帰った」
「またけんか?」
「けんかするほど仲がいいって言うだろ」
「ハルと仲良しなった覚えはないけど」
肩をすくめるハル。
「とりあえず、そっちの話を聞かせてくれ」
その言葉に、ようやくミナは相手に顔を向けた。
「ごめん、大した話は聞けなかった」
歩きながら、先ほどまでの一部始終を伝える。あらためて話してみても、関係者の人となりばかりで、有力な情報は何も引き出せていないように思われた。だが、ハルは感心したように何度も頷いている。
「いや、正直驚いた。よくそこまで聞き出せたな。一応、使徒になるだけはある」
「一応は余計」
「こっちは収穫なしだ」
外壁に抜け道はなく、誰かが侵入した痕跡も認められなかった。
「痕跡なしに侵入できる加護もあるだろうが、それを言い出したらきりがなくなる。まあ、外部からの侵入説はいったん保留だ」
教会の鉄柵も同じような結果だったが、こちらは明らかな痕跡がなかっただけで、乗り越えるのは不可能ではない。そのため、住民に審問をし直していたという。
「住民全員に!? それでこんな時間になったんだ?」
「ああ。残念ながら、まだ半分も聞き取れていないけどな」
審問を受けた者の中に殺人者はいなかった。残りも同じような結果になりそうだという。
「だが、もうそんなことする必要はないようだ」
「え? 何か分かったの?」
ハルが頷く。
「もっと単純に考えるべきだったんだ。町の構造と事件の状況からすると、犯人はまず教会の関係者以外には考えらない。だが、審問では全員が犯行を否定した。とすると、そこから導き出される答えは一つ。あの六人の中に、偽証している人間が紛れ込んでいるんだ」
「偽証しているって……そんなことありえないでしょ?」
「それがありえるんだよ」
辺りを見回して、ハルは声を潜めた。
「聖堂で話した可能性の二つ目さ。犯人はミト教徒じゃない」
ミナの目が丸くなる。
「受洗していない人間なら、人を殺しても平気な顔でしらばっくれることができるだろ?」
「で、でも、ロンゾさんはそんなことあり得ないって」
さらに言えば、教国で生まれた子どもにはひと月以内に洗礼が授けられるはずだ。
だが、ハルは首を振る。
「この町は十五年前に大きな紛争があったんだろ? 司教が死ぬくらい激しいのが。その混乱のせいで洗礼を授けられずに放置された赤ん坊がいた、とは考えられないか?」
エリスも私たちも、その時の孤児なの――セラの言葉が蘇る。
「洗礼を授けるのは司教だ。だから司教が死んでしまったら、赤ん坊が洗礼を受けたかどうかは身内でないと分からなくなる。で、その身内も死んでしまったら、それこそ誰も知る者がいなくなるだろ? だがそうなっても、さっきミナが言った理由から、周囲は当然受洗したものと考えてしまう」
ミナの脳裏に三人の姿が次々と浮かんでいく。あの中に……まさかそんな――
「犯人は、あの三人の中にいる」
非情な宣告に、ミナは身体の芯が冷ええていくのを感じた。
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