幕間 ミナ

 さほど豊かではない地方の町でミナは生まれた。

 父は彼女が生まれる前に他界していた。肺病だった。縁者は他におらず、彼女は母一人子一人で育てられた。

 生活は苦しかった。父が残したのは、寒さを耐え忍ぶには心もとない寂れた家と、親子二人を養うには小さすぎる畑だけだったのだ。母は近所から裁縫の仕事を回してもらい、そこから得られるわずかばかりの収入で生計を立てていた。

 だが、幼いミナはそれを苦にすることはなかった。周りを見れば同じような境遇の家はいくらでもあったし、何よりそばに母がいてくれたからだ。

 母は敬虔なミト教徒だった。ミナがいたずらをすると、「神はいつも見ておられるから、恥ずかしくない行いをしなさい」と笑って、叱る代わりに彼女の頭をなでるのが常だった。その母の笑顔が好きで、またいたずらを重ねてしまう。その繰り返しだった。

 ミナが聖篇を覚えたのは、母によるところが大きかった。毎晩、子守歌の代わりに聖篇の一節を朗読してくれたのだ。聞き覚えた章句を口にすると母は褒めてくれ、ミナは暇があれば聖篇を口ずさむようになった。こうして、少女の中に一字一句が沁み込んでいった。

 母から多くを受け取る一方、彼女もよく母へ贈り物をした。拾った綺麗な小石、道端に咲いていた花など、他愛のないものばかりだったが、母は喜んでくれた。ミナが最後にした贈り物は、腕輪だった。赤、青、黄といった糸をねじり合わせ束にし、端を結んで輪にしたものだ。糸はあちこちほつれ、すぐにでもほどけてしまいそうな代物だったが、母は手首から外そうとしなかった。それがまた彼女にはうれしかった。

 ミナが六歳の冬、付近一帯に疫病が流行した。人が次々と倒れていき、同年代の子どもが何人も死んだ。

 だが、彼女に不安はなかった。母がそばにいてくれるから。そして、神様が守ってくれるはずだから。彼女にとってそれは、疑う必要のない真実だった。

 ある日、母は一人の見知らぬ男を連れて来た。その身は福々と太っており、高価そうな服で覆われていた。糸のように細い目でミナを一瞥すると、男は母に小さく頷いた。不穏な気配を察知し、ミナは隠れるように母に抱きついた。その彼女の頭を、母の手がなでる。

「心配しなくていいのよ」

 母は言った。疫病がおさまるまで、この人と避難するようにと。

「お母さんは?」

「私は行けないの。でも、ほんの少し間だけだから」

 母と離れるのは身を切られるようにつらかったが、涙を見せまいとぐっと堪えた。それに、ほんの少しの間だけだと母も言っている。

 そう、少しの間のがまんだ。自分に何度も言い聞かせ、彼女は男が用意した馬車に乗った。中には他にも町の子が何人か乗っており、それを見て彼女は少し安心した。だが、その思いはすぐに裏切られることになる。

 連れられた先で、ミナたちは競売に掛けられた。男は子どもを専門に売買する商人だったのだ。

 自分を見つめる無数の目を、彼女は忘れることができない。どれもとろんと濁り、暗い情欲に燃えていた。買い手に引き渡される時、彼女は泣きながら暴れた。だが、抵抗するには彼女の手はあまりにも小さく、逃げるには彼女の足はあまりにもひ弱だった。

「心配しなくていいんだよ。すぐに慣れるから」

 彼女の肩をがっしりと掴み、買主は卑俗な笑いを浮かべた。

 小さなはこの中。手足を伸ばそうとしても壁にぶつかり、ただ息を潜めてうずくまることしかできない。ミナが放り込まれたのは、そんな世界だった。そして、その中で彼女は四年を過ごすことになる。

 一年が過ぎた頃、彼女は確信した。母に捨てられたのだと。「ほんの少しの間だけだから」という別れ際の言葉は、すでに頭からこぼれ落ちていた。

 神はいつも見ておられるから、恥ずかしくない行いをしなさい――そう言っていた母は私を捨てたし、神も救ってくれる気配がない。希望はもう、どこにもなかった。

 売られた子どもの中には絶望から、故意に嘘をついて自殺する者もいた。火の粉をまき散らしながら業火に包まれる黒髪の少女を、ミナは間近に見たことがある。

 繋がれていた鉄の鎖はどろりと溶け、自由になった四肢を滅茶苦茶に動かして彼女はのたうち回った。奇声を上げながら、早く死なせてくれとばかりに何度も壁に頭を叩きつけた。その光景は幼い彼女に強烈な恐怖を、そしてある種の諦観を刻み込んだ。

 ――ミティアの民だろうと異邦人だろうと、死の前には大差ない。

 そんな彼女自身は、自ら命を絶つことができなかった。死が怖かった。だが、今の状況を抜け出すには死以外に道はない。彼女は自分を殺してくれる誰かを待ち望むようになった。

 十歳の春、ミナは救出された。人身売買組織の大規模な摘発があり、押収された顧客名簿を元に被害者が解放されたのだ。

 その時、彼女は異臭ただよう地下牢に繫がれていた。それが新しい買主の趣味だったからだ。

 いつもの男に代わり白装束の女性が現れた時、彼女はそれが自分を殺しにきた死神だと思った。やっと死ねるのだと。

 保護されたミナは、癒護院で治療を受けた。消耗は激しかったが、若い肉体は目覚ましい勢いで回復していった。

 だが、彼女の心は狭い匣から出ることを拒んだ。自分を治療している癒護官さえ信じられず、審察官の質問には名前すら答えなかった。ただ、そっとしておいてほしかった。

 ある日、一人の審察官が訪ねて来た。

「こんにちは。いやあ、本当に大変な目に遭ったね。同情するよ」

 やけに馴れ馴れしい言葉を使う男だった。いつも通り彼女は答えなかったが、彼は気にする様子もなく言葉を続けた。

「それで、君をこんな目に遭わせたのは誰だい?」

 瞬間。

 彼女の中にどす黒い情念が吹き荒れた。

「お母さんです。お母さんが私を売りました」

 堰が切れたように口から言葉があふれ出た。彼女は聞かれるまま自分のこと、これまでのことを洗いざらいぶちまけた。

 二日後、人身売買の罪で母は捕らえられた。その知らせに、暗い喜びが彼女の胸に広がった。処刑の日取りが決まると、ミナは担当の癒護官に初めて声を掛けた。

「お母さんの処刑に立ち会わせてください」

 散々思いとどまるように説得されたが、最終的に許可がおりた。

 処刑当日は、抜けるような青空だった。

 立会人はミナの他にも何人かおり、彼女と同じように憎悪に満ちた目を刑場へと向けていた。

 裁きの門の中庭。積み上げられた藁と薪の向こうに、罪人たちが木杭に括り付けられ並んでいる。その中に母はいた。

 四年ぶりに会う母は、まるで別人のようになっていた。痩せこけた頬に、深い皺が刻まれた額。彼女だけが何十年も年を取ったように見えた。その姿にミナの心は微かに疼いたが、それを打ち消すように、彼女は大きな足音を立て母へ近づいていった。

 顔を上げた母が、目を見開く。幽霊でも見たかのような顔だった。けれどすぐさま、彼女はにっこりと微笑んだ。それはかつてミナが大好きだった、あの笑顔だった。

 ミナの足が止まる。

 ――どうして……?

 混乱する彼女の目に、母の手首に巻きついた布切れが飛び込んできた。

 腕輪だった。ミナから母への最後の贈り物。ぼろぼろになり、もはや色も抜け落ちてしまったそれは、しかし小さな布であちこち補修され、何とか形を保っていた。

 金縛りに遭ったように立ちすくむミナ。

 母の唇がゆっくりと動く。

「生きていてくれて、本当によかった」

 聖篇を朗読するように穏やかな声だった。

「ミナ。愛してる」

 その後の記憶はない。気付いた時には彼女はベッドの上で、刑の執行はすでに終わっていた。

 少しして、ミナは当時の人身売買組織が用いていた手口を耳にした。

 疫病から保護するため、子どもをしばらく預かりましょう。私たちは信仰に基づいて活動しているので、もちろん無償です――疫病流行地に乗り込み、そんな提案を縁者のない親たちに持ちかける。それが、彼らのやり口だった。

 回りくどい? だがこの方法なら、親が信じ切っているうちに子どもを売り飛ばし、騙されたと訴え出られる前に行方をくらますことができる。

 偽証もしていない。疫病の流行地域から子どもを遠ざけるのだから「保護」することになるし、世の中は金がすべてという「信仰」に基づいて活動しているのだから。

 そして、ミナの母は疑うことを知らない人だった。

 母は騙されたのだ。

 その結論に達してから、ミナは三日三晩吐き続けた。

「母は騙されていたんです」

 今更そんなことを言ってもどうにもならない。それは彼女にも分かっていたが、訴えずにはいられなかった。審察官たちに、そして裁きの門の刑吏たちに。

 けれど、いつも同じ答えが返って来た。どんな事情があろうと、罪は罪。ミナを商人に引き渡したのは事実なのだから、罰は受けなければならないのだ、と。

 聞けば、母は一言も弁明をしなかったらしい。自分の行いに対する後悔からなのか、ミナへの贖罪のつもりだったのか、それともまったく別の理由があったのか。いずれにしても、その事実はミナの心をさらに深く抉った。

 ならばと、自分も処刑するよう彼女は言った。自分の間違った証言のせいで、騙されただけの母は死んでしまったのだから。

 だが、それも受け入れてはもらえなかった。間違った証言というのは思い込みにすぎない。神罰は下らなかったのだから、彼女の証言は正しかったのだ。よって、何も咎めるべきことはない、と。

 そもそも、彼女の話に真剣に耳を傾けようとする者など、一人もいなかった。多くの審察官にとって、罪人の事情など取るに足らない些事にすぎなかった。

 中には、ミナの訴えの正しさに薄々気付いていた者もいた。だが、それを認めるわけにはいかない。冤罪を発生させたかどで審察官の仲間が罪に問われる――火刑になる可能性があるからだ。そのため、事務的な口調で繰り返すしかなかった。「法に定める手続きによって、処刑は正しく行われた」と。

 幼いミナは知る由もなかったが、そういった審察官の在りようはこの国では常識だった。国民の大多数にとって、審問とは、審察官とはそういうものなのだ。もちろん、被害者を身内に持つ者が不満を訴えることはある。だが、そういった声はミナのものと同様、どこにも届くことはなかった。

 いくら訴えても変わらない状況に絶望し、彼女は何度か命を絶とうともした。死への恐怖はもうなかった。

 けれど、そのたびに母の最期の微笑みと言葉が浮かび、どうしても一線を越えることができなかった。

 それは彼女にとって、祝福であると同時に呪いでもあった。彼女に残された道は訴え続けることだけとなったが、やがてそれもやめた。無駄だと分かったのだ。死ぬこともできず、かといって生きている意味もない。これからどうすればいいのか、彼女は途方に暮れるばかりだった。

 ある朝目覚めた彼女は、自分に加護が授けられたことを知った。手首にぐるりと刻まれた聖痕をぼんやりと眺めているうち、ミナは思い至った。これは、神の加護ではない。

 ――これは、母からの贈り物だ。

 ミナの現状を見かねた母が贈ってくれたのだ。それほどまでに母は――愛してくれているのだ。

 その瞬間、彼女はようやく自分のやるべきことを見つけたように思った。何もしてくれない神にではなく、ここまで愛してくれている母に恥ずかしくない行いをする――それがこれからの自分の務めだ、と。

 ミナは決心する。罪人の話を聞こう。そして、母のような人を火刑から助けよう。それが自分に課せられた贖罪の方法であり、生きる目的なのだ。手首の聖痕を見るたび、彼女は心から確信することができた。

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