2章 その3 出会いと相性③
路地は細く入り組んでおり、だぶついたローブの裾に転ばないよう動くうち、ミナは二人の姿を見失ってしまった。響いて来る足音は複雑に反響し、まるで頼りにならない。だが、迷っているひまはない。勘を頼りに何度か角を曲がったところ、幸運にも追いつくことができた。
狭い袋小路だった。手前に少年。奥に壁を背にした露天商壁が、鬼の形相でこちらを睨みつけている。
その手に光る短刀を見て、反射的に炎を呼び出す。だが、炎球が完成するより先に、露店商が少年へと飛びかかっていた。咄嗟にかわした少年のその首めがけ、短刀が振り下ろされる。しかし切っ先は虚しく空を切り、勢いのまま男の巨体がつんのめった。
すでに少年は店主の側方へと移動していた。両手で相手の腕を掴み取ると、自身の体重を乗せ、男の身体を地面へと叩きつける。
石畳に胸をしこたま打ちつけ、男は短い悲鳴とともに身体を大きく悶えさせた。その動きを、少年は腕をねじり上げることで押さえつける。
「痛てえええええ!」
男が激しく暴れる。少年は巧みに重心を移動させ、男の動きをコントロールしていたが、やはり体格の差は圧倒的だった。このままでは振り切られてしまうのも時間の問題だろう。助太刀すべく、ミナが駆け出そうとしたその時――
ごりっ。
背筋の凍るような鈍い音が響いた。と同時に、男の身体が海老のように仰け反り、その口から声にならない叫びがほとばしった。
ミナは立ちすくんだ。絶叫を聞いたからではない。少年の掴んでいる腕が、不自然な方向に曲がっているのを見たからだ。
――腕を、折った。
彼女がその事実を飲み込むまでには、なおも数瞬を要した。
審察官が罪人を捕縛する際、抵抗する相手には実力行使が認めらており、最悪の場合、殺めてしまっても罪に問われることはない。
それはミナも知っている。自身、実力行使に出ることもある。だが、なるべく傷つけないよう加減はする。一切の躊躇なく腕を折るなど彼女の想像の埒外だった。
「おとなしくしろ」
感情を押し殺したような、低く無機質な声。同じく感情が窺えない目つきで少年は男を見下ろしている。
観念したのか、それとも動くと痛むからか、男はぐったりと地に頬をつけた。腰袋から縄を取り出すと、少年は手早くその手足を縛る。折れた腕を気にもかけない手荒な縛り方に、下から何度も呻き声が起きた。
作業を終えると、少年は振り返った。思わず一歩後ずさりするミナ。彼の目には敵意にも似た光が宿っていた。
「この重さを一人で運ぶのはつらい。悪いけど手伝ってくれないか、ミナ・ティンバー審査官」
「どうして私のことを?」
名前を呼ばれ驚くミナに、少年は「ああ」と頷き、
「自己紹介がまだだったな。俺はハル・クオーツ。第十四教区審察官だ」
その口から、ここに至るいきさつが簡単に説明される。遅れて広場に到着すると、待ち合わせ相手であるミナ――制服を着ているのですぐ分かった――が座っているのが見えた。声を掛けようとしたものの、ふらりと路地裏に吸い込まれていったため慌てて後を追い、露天商との商談に遭遇することになったのだという。
「どうやらあんたを騙そうとしているようだったから、隠れて様子を見てたんだ。で、詐欺が成立した瞬間に捕まえたってわけ」
「詐欺って、どういうことですか?」
おずおずと質問するミナに、ハルは呆れたように首を振った。
「仮定法を使った事実誤認。典型的な詐欺手法の一つ」
「かていほう?」
「修辞法を知らないのか? さっきの会話をよく思い出してみろ」
そう言われても、ミナにはまるで心当たりがない。
「この男は、初めに何て言って商売を持ち掛けてきた?」
「コウムを百グラム小貨八枚で売ってくれるって……」
「違う違う」苛立たし気にハルが声を上げる。「こいつはこう言ったんだ。『このコウム、百グラムで小貨八枚って言ったらどうする?』。もしそうなったら、というあくまでも仮定の話で、コウムをその値段で売るとは一言も言っていない」
思わず口を押さえるミナ。
「で、あの升。多分、一杯八十グラムに満たない、通常より小さな升だ。つまり一度にたくさん売れば売る程、利ザヤが増えていくって寸法さ」
「でも、サービスしてくれるって」
「リボンをサービスしてくれたろ」
ミナは露天商を見た。
「本当ですか?」
男は目を逸らして何も言わなかった。それが答えだった。
「と、いうわけだ。さっさとこいつを裁きの門に送って、サウスウェルズへ出発しよう」
「何で、そんなことしたんですか」
ハルの言葉をよそに、ミナは露天商に問いかける。けれど、男は苦々しく顔をしかめただけで、やはり何も答えない。
「あの、教えてください。何で詐欺なんて」
「ミナ審察官」
顔を上げると、ハルが一層厳しい目で彼女を見ていた。
「そんなことを聞いてどうする」
ひどく尖った声。気後れしながらもミナは答える。
「どうして、こんなことをしているのか知るためです」
「で、それを知ってどうするんだ」
言葉に詰まる。初対面の審察官相手に、これ以上は説明できようはずもない。そんな彼女の様子から何かを察したのか、ハルは信じられないという顔で首を振った。
「うちの教区長から、あんたのことは聞いている。何かの間違いだと思ってたんだが、本当にそんなことをしてるんだな」
ミナの背中に戦慄が走る。――知られている。
最初に浮かんだのは、なぜ、という疑問だった。
自分について、他所の教区長が知っていること自体は不思議ではない。使徒は任じられる際に経歴が詳細に調査され、司教以上に共有されることになっているからだ。
だが、それはあくまで使徒以前の経歴についての話である。最近の行動が知られていることの説明にはならない。
把握している限りにおいて、例の行動について知っているのはリズ、それからサットン教区長だけのはず。二人が密告した? それこそ馬鹿げた考えだ。あの二人がそんなことをするはずがない。
以前逃がした罪人が捕まり、ミナのことを話した? こちらの方がまだ説得力があるが、そうだとすると彼女はとうに捕縛されているはずだ。
混乱するミナに、冷たい声が掛けられる。
「ここは第十四教区だ。勝手な真似をさせるわけにはいかない。こいつは俺一人で運ぶから、あんたは広場で待ってろ」
呻く男を引きずり、ミナの横を抜けるハル。咄嗟にその行く手へ回り込むと、ミナは両手を目一杯に広げた。
「ちょっと待って」
疑問は尽きない。だが、すでに露見してしまっているのなら、これ以上遠慮する必要はない。
「その人の話を聞かせてもらえませんか」
「必要ない。罪人は火刑だと法で決まっている」
「どんな事情があっても?」
「事情を考慮すべし、なんて但し書きが条文にあったか?」
その言葉に、ミナは確信した――この人は典型的な審察官だ。
偽証に神罰が下るこの国では、大抵の事件は聞き取りのみで解決できるため、捜査は流れ作業となりがちだ。しかも、どのような事情があれ罪人は火刑と決まっているのだ。結果、事件の背景や犯人の事情は取るに足らないものとして、審察官の多くが放置を決め込んでいる。
きっと、この少年もその類なのだ。先ほど腕を折ったのも、罪人は火刑だから何をしてもいいという、思考停止の表れだったのだろう。湧き上がる侮蔑を抑えつつ、ミナは声高に噛みついた。
「ハルさんは今日、待ち合わせの時間に遅れて来ました。それは罪じゃないんですか?」
「ああ、それは悪かったな」ぴくりとも表情を動かさずにハルが答える。「来る途中で別の詐欺現場に出くわしてしまって、罪人を裁きの門に送ってたんだ」
「事情があったんですよね? それと同じでこの人にもきっと」
「ミナ審察官」
ハルは荒々しくミナを壁に押しやった。冷え切った目が顔を覗き込む。
「詐欺は法が定めた罪だ。そして、罪人は火刑と決められてる」
「で、でもこの人、使徒には世話になってるって。そんな人を……」
「ああ。罪人の世話はさっきみたいに毎日やってる」
それ以上は何を言っても無駄だった。さらに食い下がろうとするミナに目すら向けず、ハルは男を引きずっていく。
広場を抜ける時、彼に向けられる周囲の視線が冷たいことにミナは気付いた。
「また怪我させたのか。黒いのが調子に乗りやがって」
「黒いののくせにやりすぎだ」
喧騒の中からそんな囁きが聞こえてくる。
――ミナとは相性がよくないかも。というか、最悪に近いかも。
彼の帰りを待つ間、リズの言葉が何度も浮かんできた。
「最悪に近いどころか」
ため息がこぼれる。どうやら相性は最悪。その上、こちらの行動もすべて筒抜けという状況。つまり、最悪の最悪。
――ちゃんと周りをよく見ること。ちょっとでも懸念があるなら絶対に行動に移さないこと。
「ごめん、リズ」
周りをよく見ようにもその猶予すら与えられず、対策を取る間もなかった。もはや事態は行きつくところまで行ってしまっている。
けれど。彼女に焦りはなかった。どころか、心は氷のよう固く冷えている。
「きちんと話せば何とかなる、かな?」
その口から、どこか他人事のような呟きがぽつりと漏れた。
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