2章 その2 出会いと相性②
「――リズにはああ言ったものの」
ため息が漏れる。やはり心配は心配だ。
「さあ、この活きのいいヒラメ、銅貨二枚からだ!」
道の向こうで競りが始まったようで、群衆の怒号が広場まで響いてきた。そこから逃れるように、ミナは噴水の陰へと移動する。ぶんぶんとつきまとうアブを手で払いながら、遠くに伸びる教会の尖塔へと目を遣った。
もう随分前に鐘は正午を告げている。本来ならすでに合流しているはずなのだが、待ち人は一向に現れる気配がない。
――厳しい人って噂らしいけど、実はゆるい人なのかも。
そう思うと気は楽になったが、この喧騒の中で待たされるのはつらい。お相手の審察官に会うのは少々怖いが、この騒々しい場所からは一刻も早く去りたかった。加えて――
「うー、お腹空いた」
少し前から胃袋が暴れ回っている。朝から食べていないのだ。出発前にあれこれ手違いを重ね、慌てて馬車に飛び乗ったせいなので自業自得なのだが。
追い討ちをかけるように、港からは雑多なにおいが運ばれてくる。川のにおい、人のにおい、木箱のにおい、魚や肉の生々しいにおい。それらが渾然一体となり、ミナの胃をさらにむかつかせていく。
と、鼻腔を香ばしい香りがよぎった。
「あ、コウムの匂い」
コウムとは、南部地方で栽培される豆に似た農作物だ。火を入れるとぱちぱちと爆ぜ、親指ほどの大きさにふっくらと焼き上がる。その香りと食感はパンに似ており、なおかつ安価で手に入るため、パンに代わる主食として懐の寂しい者に人気があった。色々と出費がかさむミナもよくお世話になっている。
香りはどうやら広場の一隅、細い路地の先から漂って来るようだ。引き寄せられるように足を踏み入れると、すぐ目と鼻の先に屋台が立っていた。
台の向こうで、髭を豪快に生やした大男――店主だろう――が煙草をふかしている。その隣には大きな寸胴が二つ置かれており、焼き上げられたコウムの粒がぎっしりと詰まっていた。
――美味しそう!
憑かれたように寸胴を見つめていると、店主がいかつい声で話し掛けてきた。
「お嬢ちゃん、よっぽどお腹が空いてるんだね」
答えるより先に、腹が盛大に鳴る。男が声を上げて笑い、ミナは顔を赤くして俯いた。
「その制服、お嬢ちゃん使徒だろ? あんたらにゃ普段から世話になってるし、ここだけの話なんだがね、もしこのコウム、百グラムで小貨八枚って言ったらどうする?」
思わぬ話に顔を撥ね上げるミナ。恥ずかしさも吹き飛んでいた。
「小貨八枚!? それはお得です! 買います買います!」
表通りの大店で買えば、大抵百グラムで小貨十枚だ。ほんの小貨二枚の差だと侮ってはいけない。塵も積もれば山となる。働き始めて以来、彼女は身を以て体験してきた。
「そうかいそうかい。へへ、じゃあもっとぶっちゃけた話、たくさん買ってくれたらちょっとだけサービスするけど、どうする?」
「本当ですか?」
脳裏にリズの講義が蘇る。サウスウェルズまでは馬車で三日、その間の食費は自腹だという。旅中の分を今買ってしまえば、大幅な経費節約になるではないか。
「じゃあ思い切って、一キロ買います!」
一日二食、百五十グラムずつ食べたとしても、まだ百グラム余る。そしてそれは今すぐ腹に収めればいい。
「おお、いいね太っ腹だね! さすがいい音鳴らしてただけある」
店主の軽口もよそに、ミナは駆け出していた。広場の背嚢を掴んで取って返すと、麻袋を取り出して男に突き付ける。
「これにお願いします!」
「がはは、慌てなくてもコウムは逃げないよ」
男が升を手にコウムを袋へ詰めていく。商売用の升は大きさが定められており、コウムの場合は一杯で百グラムになる。
「七、八、九、十と。さて、これだけ詰めて銅貨八枚ぽっきりだ!」
銅貨一枚は小貨十枚。つまり、銅貨八枚で小貨八十枚の計算だ。
「ありがとうございます!」
頭を下げるミナに片目をつむると、店主は袋の口を赤いひもでリボン結びにした。
「わあ、かわいい!」
「サービスさ」
これから出発するにあたって、何と幸先のいい。
うきうきと財布を取り出したミナだったが、背後から伸びてきた手にがっちりと手首を掴まれた。驚いて振り返ると、同年代らしき少年が不機嫌な顔で立っていた。
その姿に、ミナは目を見開いた。
小麦色の肌、黒い髪に黒い瞳。一目で分かる。異邦人だ。
異教徒に対する容赦ない仕打ちとは裏腹に、ミティア教国では改宗を条件に異邦人の受け入れを行っている。崇高なるミト教を世界に広め、愚かな異教徒を導くこともまた、この国の大切な目標だからだ。加えて、ミト教に入信させさえすれば、偽証を封じることができる。そうなれば軽率な行動はとれないだろうという計算も働いている。
だが、実際にこの国へ移り住む者は滅多にいない。理由は簡単だ。ミト教への入信――これが最大の問題だった。偽証すれば神罰が下る宗教に、誰が好き好んで入信するだろう?
さらに厄介なことに、ミト教は一度入信すると生涯棄教することができない。その方法がないのだ。いくら他宗教の洗礼を受けようと、本人が棄教を宣言しようと、神罰からは逃れられないのだ。
そして、それは子孫にまで及ぶことになる。この国で生を受けた子どもには、ひと月以内に必ず洗礼を授けなければならない――そう定められているからだ。つまり、一旦教国へ足を踏み入れたら最後、一族末代までミト教徒としての生を強いられることになる。
結果、この国で異邦人を見かけることはほとんどない。ミナが目を瞠ったのも無理はないだろう。
だが、彼女を驚かせたのはそれだけではなかった。
彼が纏っている白い上着にズボン、そしてベルトに下げられたナイフサックは、男性審察官の装束そのものだった。どちらにも赤く三叉が縫い込まれており、見間違えようがない。
異邦人自体が珍しい上、その者が審察官に就くなど、それこそただ事ではない。少なくとも、これまでミナは聞いたことがなかった。
呆けたように見つめる彼女から顔を背けると、少年は小さく舌打ちした。
「払っちゃだめだ」
流暢な発音だったが、よく聞くと独特の抑揚がついているのが分かった。
「あんたは騙されてる」
「え?」
「だ・か・ら、騙されてるの。あんたは、この男に」
少年は店主の顔に指を突き付けた。男が目を剥く。
「お、おいおい旦那! 人聞きの悪いこと言わねえでくれよ。俺ぁただ、ちょっとお嬢さんにサービスしただけだぜ。これはちゃんと銅貨八枚で売るつもりだ」
袋を叩き大声でまくしたてるが、先ほどまでの満面の笑みが嘘のようにその顔は引きつっている。狼狽えているのは明白だった。
「じゃあ聞こう。この袋の中には、コウムが何グラム入っている?」
少年の問いに、ぐっと言葉を詰まらせる露天商。
――え、どういうこと?
「まあ、答えられないだろうな。じゃあ、一緒に来てもらおうか」
突然、店主は台を勢いよくひっくり返すと、寸胴をミナたちへ力任せに倒した。派手な音が響き、コウムがまき散らされる。虚を衝かれ硬直した二人を尻目に、男は路地の奥へと走り出した。すぐさま体勢を立て直した少年が後を追い、その背をミナが追う。麻袋に詰められたコウムが無事か確認したかったが、おそらくそれどころではない。
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