1章その1 ミティア教国の審察官 ①

「どいてくれ!」

 怒鳴り声とともに、赤髪の男が雑踏に飛び込んだ。

 ミティア教国の首都・ラテナ。その中心にほど近い真昼の商店街にはところ狭しと露店が並び、陽射しに輝く石畳の上は多くの買い物客でごった返していた。

 そんな中へ飛び込んだのだから、当然男は何人もの客とぶつかった。だが、立ち止まって謝るどころか、走る速度を緩めようともしない。

 男に撥ね飛ばされた女性客が、派手な悲鳴を上げた。その隣で亭主が罵声を浴びせかける。しかし男は振り返らない。それどころではないのだ。その顔は赤い髪と対照的に真っ青で、目には恐怖の涙が滲んでいる。

「止まりなさい!」

 怒声から数秒遅れ、鋭い声が響いた。と同時に白い影が二つ、男の後を追って人波へと踏み込んでいった。

 それは二人の少女だった。

 往来行きかう買い物客、そして逃げる男と同じように、両名とも白い肌に炎髪紅瞳。身体には白いローブを纏っており、その中央には三叉を象った紋様が赤く刺繍されている。

 先行する一人は背が高く、ショートに揃えた髪の下に猛禽類を思わせる鋭い目が光っている。その身のこなしは獣のようにしなやかで、身体の大きさを感じさせないほどの素早さで人波を潜り抜けていく。

 一方、後続のもう一人は、人を掻き分けるので精いっぱいといった様子だ。背はローブがだぶつくほど低く、長い髪を後ろに束ねている。ばたばたと足音を響かせながら、大きな瞳で必死に前の少女を追いかけている。

 と、その足が石畳につまずき、大きくつんのめった。

「わっ、わっ」

 両手があたふたと振り回される。その手を長身の少女が掴み、強引に引っ張り上げた。地面すれすれで転倒が回避される。

「ありがとう、リズ!」

「これで何回目よ、ミナ! ホントにとろいんだから!」

 苛立ちを隠さずに、リズ・ホールは叫び返した。

「次はもう知らないからね!」

 と、言い終わらないうちに、彼女は再び走り出していた。

「ちょ、ちょっと待ってよ!」

 慌ててミナ・ティンバーも後を追う。その身体を包むローブは、あちこちが泥で汚れていた。

 二人の視線の先、雑踏の向こうに男の頭が見える。距離は先ほどよりも広がっていた。

「逃げ足速すぎるでしょ! ドロボーってのはほんとにもう!」

 毒づきながらも、これ以上離されまいと脚に力を込めるリズ。罪人を取り逃がすなどもってのほかだ。

「わあっ!?」

 背後で情けない声が上がった。続いて、誰かが倒れる派手な音。

 何が起きたのか、振り返るまでもなかった。そして先ほど宣言した通り、リズは振り返らなかった。そんなことをすれば今度こそ男を見失ってしまう。彼女は速度を上げた。

 突然、目の前が開けた。

 商店街の先はゆるい下り坂になっていた。左右に延々と石垣が伸び、赤い屋根が目に鮮やかな家が立ち並んでいる。どうやら住宅街に抜けたようだ。

 男との距離はさらに広がっていた。一足先に雑踏を抜け出したのに加え、坂を利用して加速したのだろう。道はまっすぐに伸びており、障害となるものは何もなかった。

 坂の手前で足を止めるリズ。もう追いつけないと判断したのだ。

 男の背中がみるみる小さくなっていく。だが彼女の顔に動揺は微塵もなく、それどころか口には小さな笑みすら浮かんでいた。

「やれやれ」

 腰に手を当て、首を振る。

「本当に逃げ切れるって思ってるのかなあ」

「リズ!」

 背後からの声に振り返る。息も絶え絶えのミナが、膝をさすりながら彼女を睨みつけていた。

「置きざりなんてひどい!」

 まなじりを吊り上げる彼女に取り合わず、リズが男へ顎をしゃくる。見ると、その姿はもう遥か彼方だった。

「ここなら大丈夫でしょ。やっちゃって」

 一瞬ぽかんとした表情を浮かべたミナだったが、すぐさま意図を飲み込み、こくりと頷いた。

 息を整え、前方へ右手を突き出す。裾から覗く細い手首にはくっきりとした赤い痣が、ぐるりと腕輪のように浮かんでいた。その上に左手をかざし、目を閉じる。

 途端――

 赤痣から細い火柱が立ち上ったかと思うと、みるみるうちに太さを増していく。やがてすっぽりと手首を覆った炎は前方の中空へと収束を始め、燃え盛る炎球を形成した。

 大きさは人間の頭ほど。ちりちりと空気が焼ける音。かげろうのように揺らめく炎周。それは幻などでは断じてない、実体を持った炎だった。

 目を開け、遠く狙いを定める。異変を察知して振り返ったのだろう、男が呆然とミナを見つめていた。

「だいじょうぶです。ちゃんと手加減しますから」

 ミナは呟いた。この距離では男の耳に届くはずもなかったが。

「連行するの面倒だし、息の根止めちゃっていいよ」

 リズの不穏な発言を無視して、ミナは右手にぐっと力を込めた。

 炎球が勢いよく放たれる。それは雷のようにいびつな軌跡を描きながら、大量の火の粉とともに男へと襲い掛かった。

 炎というよりも、それは質量を持った一つの物体だった。直撃を受けた男の身体が馬にでも跳ね飛ばされたかのように宙を舞い、無防備に地面へと叩きつけられる。

 同時に、炎は散り散りに立ち消えていく。後には煙一つ残らず、ただ男の呻き声だけが空しく響くばかりだった。

「ふう」

 男の様子を見て、ミナは安堵の息をついた。少々加減を間違えてしまったが、致命傷にならずに済んだようだ。

 後方で、大きなどよめきが巻き起こる。振り返ると、いつの間にか大勢の野次馬が集まっていた。

「あれ、加護か?」

「すげえ、初めて見たぜ」

「あんなちっこいのが?」

 好奇の目を一身に集め、ただでさえ小柄な身体をますます縮めるミナ。別に小さくなる必要はないのだが、大勢の視線にさらされるのは苦手だった。

 その頭に、ぽんとリズが手を乗せた。

「はい、よくできました」

 弾かれたようにミナの顔が上がる。頭上の手を払いのけると、彼女は唇を尖らせた。

「成人したんだから子ども扱いしないでよ」

「さて、さっさと片付けますか」

「あ、ちょっと待って!」

 素知らぬ顔で歩き出したリズを、ミナは慌てて追いかけた。


 ミナ・ティンバー。十四歳。

 リズ・ホール。十七歳。

 二人は首都ラテナ第十七教区の審察官である。ミナは三か月前に就任したばかりの新人であり、リズは彼女の二年先輩にあたる。

 ミティア教国は教区制を敷いている。具体的には、国土を百余りの教区に分割し、それぞれに中心となる教会を選定、その司教を教区長として教区の自治を任せている。こうすることで、広大な土地の隅々までを掌握することが可能というわけだ。

 そして、教区長の下で諸々の実務をこなす者――いわゆる公務員は、使徒と呼ばれている。

 使徒の仕事は多岐に渡る。一口に自治と言っても、税の徴収、道路や橋といった公共財の整備、冠婚葬祭の典礼など、その業務は膨大だ。そのため徴税課や事業課、祭祀課などの課を設けることで、仕事の細分化、効率化が図られている。ミナたちはその中の一つ、審察課に配属された使徒――審察官というわけだ。

 その仕事は、一言で言えば犯罪の取締りだ。何かトラブルがあれば仲裁し、犯罪行為があれば犯人を捕まえ、各教区に設けられた懲罰施設「裁きの門」へと送る。つまり、他国でいうところの警察官や保安官にあたる。

 偽証に対して神罰が下るミト教徒の間で犯罪など起きるのか、と疑問を呈する向きもあるだろう。だが、人がいるところ犯罪あり。教国内のいたるところで日々発生しているというのが実情だ。その件数はさすがに他国と比して少ないといえるが、それでもゼロになることはない。

 そして、この日も商店街で窃盗が起きた。それも、審察官たるミナたちの目と鼻の先で。露店から上がった「どろぼー!」の声と、よろけなら走る男の後ろ姿。二人はすぐさまその後を追い、現在に至るというわけである。


「はじめまして。私はリズ・ホール。見ての通り審察官です」

 自身のローブを示しながらリズが名乗る。胸に縫い付けられた紋様は使徒の証だ。

 男は膝をつき、がっくりと項垂れている。まだ若い。二十代前半といったところか。小柄な身体に似合わない筋肉の盛り上がりから、肉体労働者と知れる。身にまとう服は相当に着古されており、修繕の跡がいくつも見られた。

「そしてこっちがミナ・ティンバー審察官。さっき味わったと思うけど、加護持ち。だから、もう逃げようなんて思わないことね」

 男の身体がぶるりと震えた。直前の記憶が思い出されたのだろう。

 加護――

 ミト教信徒の中には、ごくまれに特別な力を授かる者がおり、『加護』と呼ばれている。

 それはある日、何の前触れもなく発現する。授かった者はそのことを瞬時に理解し、その力の内実を聞かずとも把握する。と同時に、手首にぐるりと赤痣――聖痕が浮かび上がる。

 授けられる加護は一人一つで、二つ以上の加護を併せ持つ者はいない。その発現機序は分かっていないが、信仰心の特に篤い信徒に対する神の恩寵なのでは、と言われており、加護を授かった者は周囲からの畏敬を集めている。実際、加護の中には神の力としか思えないものも存在しており、この説の信憑性を高めている。

 二年前、ミナは力に目覚めた。『鉄槌』――手に炎を宿し、弾丸のように撃ち出すというものだ。燃やすというよりは、打撃を打ち込むというイメージである。

 その威力たるや凄まじく、加減しなければ象すら一撃で屠ることができるだろう。つまり、先ほどの攻撃は相当に手加減されたものだということだ。彼女としては、あと少し抑えるつもりだったのだが。

 さて、とリズが男の顔を覗き込む。

「手の中のものを出しなさい」

 男の手から小さな薬瓶が転がり落ちた。それをゆっくり拾い上げると、リズは男の前に突き出した。

「もう聞くまでもないんだけど、一応決まりだから審問させてもらうね。汝、この薬を盗んだか否か。神の前に告白せよ」

 男が顔を上げ、縋るような目で二人を見つめた。

「助けてくれ」

 リズの口からため息が漏れる。審察官として、彼女は何度も同じような遣り取りを経験してきた。

 男から視線を外し、周囲を見回す。騒ぎを聞きつけて出て来たのだろう、石垣の向こうからいくつもの顔が覗き、じっと事の成り行きを見守っている。振り返ると、先ほどの野次馬たちもまた、坂の上から三人を遠巻きに見つめていた。

「みんなに聞いてみれば?」

 男に注がれる視線には、一様に暗い感情が渦巻いていた。それは憎悪、軽蔑であり、同情や憐憫といったものは一片たりとも含まれていない。

「娘が熱を出したんだ」

 突き刺さる視線の中、男は身を縮めながらも声を振り絞る。

「一昨日から熱が出て、今日はもう意識も朦朧としてて……娘はまだ五歳で、親一人子一人で頼れるやつもいないし、薬を買う金も……でも終夜祷ついのとは何の効果もなくて……」 

 終夜祷とは、文字通り一晩寝ずに神へ祈りを捧げる行を指す。なるほど、あらためて見ると男の目の下には薄っすらとくまができていた。

「はい、ご苦労様」

「あの、ちょっといいですか?」

 会話を打ち切ろうとするリズの隣から、ミナが割って入る。

「癒護院には相談しなかったんですか?」

 癒護院――治癒系統の加護を持つ使徒で構成された、貧民を無償で治療する施設である。治療費や薬代を払うことができない者にとって、まさに神の思し召しのような施設だが、その運営には人手と莫大な予算が必要なため、設置されているのは首都ラテナを含めた三大主要都市のみだ。

「何だよそれ……前の町にはそんなもの……なかった」

 二人の審察官は顔を見合わせた。男の言葉からおおよその事情が知れたからだ。

 おそらく彼は、地方からこの町に仕事を求めて出てきたはいいものの、悪質な斡旋業者に捕まってしまったのだ。

 そこで紹介されるのは、賃金の低い、過酷な環境での肉体労働がほとんどだ。都市部には割のいい仕事が他にいくらでもあるのだが、地方出身者に分かるはずもなく、もちろん業者の方も教えない。そのため、彼らはただ言われるがまま厳しい仕事に就く羽目となる。

 それは偽証していることになるのではないか? だが、業者は嘘をついているわけではなく、情報を提供していないだけだ。この論理が成り立っているのは、彼らに神罰が下らないことが証明している。

 だからといって、そのような行為を野放しにするわけにはいかない。違法行為として国も取り締まりを行ってはいるのだが、残念ながら同じような事例は後を絶たずにいる。

 ミナが癒護院について説明すると、男は目を剥いた。

「そこに行けば娘は助かるのか?」

「死んでいない限り、きっとだいじょうぶです。ここの癒護院の治癒技術は多分、教国一ですから」

「早くそこへ連れて行ってやってくれ! 俺はもういいから、あの子だけでも」

 男から住所と娘の名前、そして斡旋業者の情報を手早く聞き取ると、リズはぽんと手を鳴らした。

「さて、これで思い残すことはもうないね?」

 男が小さく頷いた。それを見てリズも頷く。事情があるにせよ、罪は罪。罰は下されなければならない。

「リズ」

 おずおずと、しかしはっきりとした声でミナが言った。

「後のこと、私に任せてもらえないかな?」

 はあ、とこれ見よがしに大きなため息をつくリズ。

「まあ、予想はしてたけどね」

「お願いします、先輩」

「こんな時だけ先輩呼ばわりしない」

「じゃあリズ、お願い」

 リズはなおも何か言いかけたが、相手の頑なな瞳を目にして口をつぐんだ。もう一度、今度は諦めたようなため息が漏れる。こんな時、先に折れるのはいつも先輩たる彼女の方だった。

「分かったよ。子どもの方はこっちで保護しとくから」

「ありがとうございます、先輩!」

「だから先輩はいらないって」

 リズはひらひらと手を振ると、深々と頭を下げる後輩の耳にそっと口を寄せた。

「でもね、ミナ」声を落として囁く。「例え助かったとしても、その先に待っているのは夢も希望もない未来だよ? だとしたら、ここで終わらせてあげるのも一つの優しさじゃない?」

「その先に夢も希望もないなんて」ミナは独り言のように返す。「誰が決めたの?」

 答える代わりに肩をすくめると、リズは集まった人々に向かって手を打ち鳴らした。

「はいはーい、罪人はちゃーんと捕まえましたので、みなさん自分の生活に戻ってくださーい」

 野次馬たちが散り散りに消える中、リズもまた無言で来た道を戻って行く。その背中にもう一度頭を下げると、ミナは男の前に屈みこんだ。不安げに見つめ返す男にぐっと顔を近づけると、彼女は囁いた。

「一つ、約束してもらえますか?」

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