神罰とレトリック

君野 新汰

プロローグ

やがて神殿に降りられると、神はいわれた。正しく言葉を用いる舌にはかまどを以てたすけ、偽りを紡ぐ舌には業火を以てこれを灼き尽くさん。

群衆の中に疑う者が一人おり、大きな声で叫んだ。あなたは神ではない。するとその身は炎に包まれ、灰も残さず燃え尽きた。

神はいわれた。決して偽証をしてはならない。それは世にある悪徳の中で最も卑しいものである。偽る者は業火によってその身を禊ぎ、魂を昇華させなさい。清水が涸れた土地を潤し、果実を実らせるのと同じように。


                       ――ミト教聖篇第五章十二節  



   * * *



 穹窿きゅうりゅうはるか頭上にそびえる聖堂は、厳粛な空気に満ちていた。夜の内に蓄積された冷気が大理石の床から滲み出し、寒気が肌を刺す。

 左右に張られたステンドグラスから、さっと朝の光が射し込む。夜が明けたのだ。目覚めたばかりの陽光が極彩色のモザイクに変換され、堂内を飾り立てていく。

 中央に伸びる通路の上、一人の司教が悠然と歩を進める。

 その髪は燃えるような赤、そして瞳は深い紅だった。身に纏う法衣はまぶしいほどの純白で、胸には複雑に紋様化されたΨ――三叉が赤く刺繍されている。

 通路の左右、規則正しく並べられた長椅子はどれも人で埋まっている。年齢も性別も、そして服装もばらばらだが、司教と同様、全員が炎髪に紅瞳こうどうだ。声はなく、みな眠っているかのように俯いている。

 やがて、司教が奥の祭壇に辿り着いた。左右に配置された篝火台に炎は赤々と揺らめき、司教の顔に複雑な陰影を刻み付ける。正面に掛けられた巨大な三叉架を振り仰ぐと、彼は重々しく口を開いた。

「火は命にして死、恩寵にして断罪。我らの神に祈りを。ミティア教国に栄光を」

 場が一斉に立ち上がり、拝礼した。


 ――ミティア教国。

 ミト教信徒のみで構成された、中央大陸西部を領する宗教国家である。

 ミト教とは、火の神ミトラスを唯一神とする拝火教である。信徒は、自教の歴史と教義が綴られた書物『聖篇』を聖なる書、炎を象ったΨの印を聖なるシンボルとして崇めている。

 聖篇によると、その起源は今から五百年前。原初の神殿に火の神が降り、ミティアの民と契約を結んだのが始まりだという。この時、契約の証としてミティア民族は炎髪紅瞳を給わったとされており、その身体的特徴は現在に至るまで受け継がれている。

 その後、ミティア民族は神殿の周りに共同体を形成、定住を始めた。当初は村落に毛が生えた程度の集まりだったようだが、近隣の村々を併呑することで徐々に勢力を拡大し、最終的に教皇を絶対者とした宗教国家を建国するまでに至る。その間、わずか三百年。

 なぜ、それほどの短期間に国家を打ち立てることができたのか。大勢の学者が無数の学説を提唱しているが、共通して挙げられているのはその独特の教義だ。

 多くの宗教と異なり、ミト教には守るべき戒律は一つしか存在しない。

 偽証してはならない――これだけである。

 禁欲もなければ断食もない。婚姻に関する煩雑な決まりや日常生活を縛る掟もない。ただ、偽りを口にすることだけが禁じられているのだ。

 そしてここが重要なのだが、この禁を犯した者には苛烈な神罰が下される。具体的に言うと、偽証した者はその瞬間に全身を業火に焼かれ、灰すら残さず燃やし尽くされてしまうのだ。しかも、業火に包まれている間は失神することも許されず、最期の瞬間までその苦しみを味わい続けなければならない。

 ただの寓話? いや、違う。洗礼を受けて信徒となった瞬間から、神罰は現実に下される脅威となる。ミト教が興ってから三百年、多くの信徒が業火に焼かれてきたし、それは現在も続いている。

 死と隣り合わせの過酷な教義。それは、信徒の紐帯を固める方向に働く。

 厳しい教義に生きる我々ミト教徒は、他のどの宗派の者よりも清く、正しい――時代が下るにつれ、信徒の間で選民思想が育まれていき、やがてそれは、我々の手で清い世界を創造しなければならないという、強烈な使命感へと変わっていった。ミティア教国とは、その一つの結実なのである。

 もちろん、綺麗ごとを並べるだけでは現実を変えることなどできない。建国までには血で血を洗う闘争があった。改宗に抵抗する異教徒と争い、地方豪族と戦い、手を朱に染めることで領土を広げていったのだ。はて、それは正しいことなのだろうか? そう問われた信徒の一人は逆にこう問い返したという。――神が偽りだけを禁じ、殺人を禁じなかったのは何のためだと思う?


 拝礼が終わると、司教による説法が始まる。早朝のこの時間、国内のどの教会でも同じように朝課が行われているはずだ。

 滔々と司教の声が響く。聖篇の一節を巡る解釈について、そしてそこから汲み取れる神の御心について。これまで言葉を変え、何度も聞かされた話に舟を漕いでいる者もいるが、大半は神妙な面持ちで耳を傾けている。

 いつもと変わらない一日の始まり。ミト教徒の日常。

 だが――

 ごう、とすさまじい音が響き渡ったかと思うと、司教の全身から炎が溢れた。頭上へと激しく立ち上がった火柱が、突き抜けんばかりの勢いで天蓋へと叩きつけられると、一瞬のうちに幾筋もの亀裂が壁面を走り、周囲はどす黒く焼け爛れた。

 獣のような咆哮を上げ、まるで炎を相手に踊っているかのように司教がのたうち回る。伸び上がった火柱は司教めがけて急速に収束し、その身体を幾重にも包み込んでいく。火勢はいよいよ強まり、周囲の大気は膨張し、ねじれ、渦巻く。

 悲鳴と怒声が飛び交い、信徒たちが我先にと出口へ殺到する。何が起きているのか分からない。けれど、この場にいると危ない。本能がそう告げていた。

 その信者たちの背中を、司教がよたよたと追いかける。一歩踏みしめるごとに大理石へと足跡が黒く刻印されていく。法衣はすでに塵と消えており、前へと突き出された腕に皮膚はまだらに残るばかりだった。

 ようやく出口に辿り着いた頃には、全身の皮膚はすっかり焼け落ちていた。逆巻く炎の中、露わとなったむき出しの肉が組織液をまき散らしながら真っ黒な炭へと変わっていく。

 扉へ体当たりするようにして、表へと転がり出る。扉へと炎が燃え移ったが、気にしている余裕などない。まだ夜の余韻を引きずる冷めた空気の中、石畳が敷かれた前庭を這いずる。もはや彼の目には何も映っていなかったが、その場所は身体が覚えている。左前方、石造りの噴水へと頭から飛び込んだ。

 だが、水中でも炎は勢い衰えず、体組織を蒸散させていく。指の先がぼろぼろと崩れ落ちると、崩壊は一瞬のうちに全身へと波及していった。やがて最後の一片まで灰に、そしてその灰すら消滅すると、ろうそくの火を吹き消すように炎はぷつりと消えた。


 こうしてこの朝、一人の司教に神罰が下った。

 そして、ここ数か月で業火に焼かれた司教は、彼で四人となった。

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