聖痕~スティグマ~

飛鳥休暇

そして、生まれ変わる。

 就職のために大阪に越してきてから数日後、まだダンボールの整理もままならない状況ではあったが、幼馴染の森本和歌子もりもとわかこの誘いを受け、繁華街で待ち合わせることとなった。


 就職活動で何度か大阪には出てくることはあったが、暗くなってからでさえ何か催しがあるのかと錯覚するほどの人の多さに改めて驚かされる。


 ド田舎の地元じゃ、夜なんて歩いている人を見かけるほうがまれだった。


 わいわいがやがやとひっきりなしに人の声が聞こえてくる喧噪けんそうの中で、なぜだが逆に自分が世界から切り離されたような孤独感が襲ってくる。


「おう、お待たせ」


 と肩を叩かれたので振り向くと、一人の女が笑顔で手を挙げていた。


 前髪がきれいにそろったおかっぱ頭で、そのてっぺんから陣地分けをするように様々なカラーのハイライトが細い線のように入っている。


 黒いタンクトップの上から黒い革ジャンを羽織っており、さながらロックバンドの女性ボーカルといったところだ。


「お、お前、……ワカ?」


 記憶にある同級生の姿とはあまりにかけ離れたその容貌すがたに思わず声が上ずってしまう。


「いひひ。拓海は全然変わってないな」


 そう言って笑う顔は、なるほど、あの頃の少女のまんまだった。




 全品299円という値段が売りの居酒屋に入って、二人掛けの小さいテーブルに案内される。


 一息ついて革ジャンを脱いだ彼女の姿を見てギョッとした。


 彼女の両腕、その白くきめ細やかな肌を覆いつくすほどにびっしりとタトゥーが入っていたのだ。


 炎を思わせるような文体で書かれたアルファベッドや薔薇の花、髑髏どくろの目から蛇が飛び出ているような意匠が所狭しと描かれている。


「え、ちょ、おま、それ」


 驚きのあまり言葉が出ないおれを見て、ワカはまたしてもいひひと笑う。


「驚いた?」


「いや、驚いたっていうか。どうしたんだよそれ」


「いやーまぁ。色々あってね」


 悪びれもせずにそう返してくるワカに対して、おれの心臓はまだ落ち着きを取り戻してはくれない。


「色々って……」


「ま、とりあえず飲もうや。生でいい?」


「お、おう」


 おれの返事を待たずに、ワカが備え付けのタッチパネルを操作し出す。


 ワカがタッチパネルにピコピコと触れるたびに、おれの目の前では髑髏が揺れる。


 ほどなく、生ビールと枝豆が運ばれてきたのでそれぞれがジョッキを手に取った。


「とりあえず拓海、就職おめでとー」


 そう言って掲げてきた彼女のジョッキに軽く自分のを打ち当てる。


 凍る寸前まで冷やされていたジョッキに入った生ビールは、喉元に微かな痛みと爽快感をもたらしてくれる。


「ぷはー! ああ、旨い!」


 大きな息を吐きながらワカが大きな声を出す。


「で、なんだよそれ」


 おれがアゴを使って腕を指すと、彼女は無視するかのように枝豆を一つ手に取った。


「私ね。彫り師になるの」


「……はあ?」


 言ってる意味が分からなかった。


 おれにしてみればそれは「ピンクのカバを見た」とか「UFOに連れ去られた」といったものと同じような言葉に聞こえた。


「お前アパレルで働くって言って都会に出たんじゃなかったのか?」


 地元の大学に進学するおれに、当時のワカは確かにそう言っていたはずだ。


「あー、アパレルはやめちゃった」


「やめちゃったって……」


 おれが大学に行っている四年間の間に彼女になにがあったのか。


「それにしてもなんでまたそんな」


 呆れながらビールに口をつける。早く酔いたいという気持ちでごくりごくりと一気に半分以上流し込んだ。


「都会の絵の具に染まっちゃったのかなー」


「染まったのは身体のほうだろ」


 冗談にもならないような軽口を叩いていると、いくつかの焼き鳥の皿が運ばれてきた。


 ワカは鳥皮、おれは砂ズリを手に取って一口かじる。コリコリとした食感に奥歯が喜んでいる。


 目の前のワカも鳥皮とビールを交互に口に運んでは満足そうな笑みを浮かべていた。


 ほんとに、笑顔だけはあの時のままだ。





 

 おれたちの地元、鳥取県の山奥のほうは、村というよりも集落といったほうが正しいほどの人口しかいなく。


 必然、子供たちは幼少期から同じ学校、それも学年を超えて一つのクラスで授業を行うような人数しかいなかった。


 おれとワカはその村で唯一の同級生だった。


 小学校まではずっと二人っきり。中学、高校に入ると隣町まで通学することになり多少クラスメイトは増えたが、それでも二人はずっと同じだった。


 そういう環境にいると恋愛に発展しないのかという疑問を呈されることも多かったが、逆にここまで一緒にいるともはや恋人というよりは家族に等しかった。


 まあ、思春期の頃はほんの少しだけ意識したこともあったが。


 そんな彼女との別れが来たのは高校を卒業するとき。


 家庭の経済事情のため地元の大学に残ることにしたおれに対して、ワカは都会に出ると言った。


「オシャレな服屋さんで働くんだ」とそう言ってた。


 車で二時間もかけないと買い物もままならないような田舎の女に、オシャレな服屋で働けるとは思えなかったが、彼女の目があまりにも輝いていたので、特に何も言わずに見送った。




 あれから四年。


 おれ自身も実家に帰ることが少なくなっていたので、彼女の現在がどうなっているのか知る由もなかった。



 ――それにしても。



 いったい四年の間に何があったのか。


 付き合った男の影響か、それとも本当に都会の絵の具とやらに染められてしまったのか。


 別人のようになってしまったワカを前にして、おれは何を言えばいいのか分からなかった。



「ところで、拓海はなんの仕事すんの?」


 何本かの焼き鳥を腹に入れて満足したのか、ふいにワカが聞いてきた。


「ん? 不動産関係の会社だよ。投資目的の不動産売買。大学在学中に一応宅建だけは取ったから」


「ふーん。拓海は拓海で頑張ってたんだね」


 そう言うとワカはタッチパネルを押し、新しい飲み物を注文していた。


「そっちは。……なんで、入れ墨なんか」


 言葉を発する際に、わずかにたんがからんだ。

 まるで聞きたくないと体が拒否しているかのようだ。


 ワカは「んー」としばらく食べ終わった串の先を眺めてから「あのさぁ」と語り始めた。


「私さ、ちょっと前まで毎日『死のうかな』って考えてたんだ。来る日も来る日も嫌なことばっかりでさ。んで、どうせ死ぬならむちゃくちゃになってやろうって、色んな男と寝たりしてさ。――でも、心はちっとも満たされなかった」


 どこか遠い目をしてそんなことを語るワカを見ていると、だんだんと心臓が冷えてくるような感覚がした。


 自分の中にいる彼女は、いつも活発で、太陽のような笑顔をしていた。


 そんなイメージの中の彼女とあまりにもかけ離れたその告白に、悲しいような切ないような、大海原に身ひとつで投げ出されたような、そんな無力感が襲ってきた。


「……なんで連絡してくれなかったんだよ」


 かろうじて吐けた言葉がそれだった。


 ワカはふっと笑みを漏らし、もてあそんでいた串を優しく皿に置いた。


「なんかさぁ。恥ずかしかったのかも」


「恥ずかしかった?」


「そんなこと、拓海に言いたくないって。弱音なんか吐きたくないって。ううん。当時はもしかしたら、そんなことすら考える余裕が無かったのかもね」


 ワカは気持ちを入れ替えるかのように大きく息を吐き出した。


「で、そんなこんなでめちゃくちゃになっていた和歌子さんは、ちょっとだけ興味のあったタトゥーを入れたのでした」


「めでたしめでたし、じゃ終わらねーぞ?」


 ワカが話を終わらせようとしたのを感じたので、からかいつつもそれを制す。


「ところがどっこい。タトゥーを入れてから、なんだか人生が変わったんだ。ほんとに、生まれ変わったような気分」


 先ほどのしんみりした空気から一転、ワカが笑顔を作り言ってきた。


「ほんとかよ」


「これがほんとなんだよなぁ。んで、タトゥーの魅力に憑りつかれた私は、彫り師を目指すことになったのでした」


「……めでたしめでたし、なのか?」


「いとめでたし、だよ拓海」


 そう言って笑うワカの笑顔があの頃と同じだったので、おれはそれを受け入れることにした。


「そうか。……分かった。応援するよ」


「うん、ありがと」


 そこからは子供の頃の思い出話や親の話に花を咲かせ、久しぶりの幼馴染との楽しい時間を過ごした。




 ******




「なめてんじゃねぇぞ! オラァ!」


 広いフロアに怒声が響く。


 その怒りの矛先は、他ならぬ自分だった。


「オメェ、午前中までにアポ十件取れって言っただろうがよ! なんで出来てねぇんだよ!」


 一見するとホストのような見た目をした会社の先輩がおれの胸ぐらをつかんで叫ぶ。


「……すいません」


 おれは目を伏せ、か細い声でそう返し、嵐が過ぎ去るのを待っている。


「オメェ、午後は出来んのか? 出来んのかって聞いてんだよ!」


「……出来ます」


「言ったな? 達成出来なかったらどうするんだよ?」


 ふざけた質問だと思った。出来なかったらどうするかはお前が決めることじゃないのかと。答えのない質問に、おれは黙りこくってしまう。


「テメェ、やっぱりなめてんだろ! おら! 座れ!」


 力づくで椅子に座らされたかと思うと、先輩はどこからかガムテープを持ってきた。


「こうしたら出来るだろ。なぁ」


 先輩は電話の受話器を掴むと、おれの左手と受話器をぐるぐるとガムテープで固定しだした。

 たとえ捻挫したとしてもここまで大げさなテーピングはされないだろうと、どこか場違いな感想が頭に浮かんだ。


「おら! やれよ! 午後で二十件。取れるまで帰らせねぇからな」


 頭を強く押されながら、おれはデスクにある名簿ファイルを開く。

 後ろでは先輩が仁王立ちでおれを睨みつけている。


 おれは思考するのをやめ、電話のボタンをプッシュした。




 ******




 セミの鳴き声が聞こえる。


 地元の山ではいつも聞いていた鳴き声だ。


 しかしそれは幻聴であることを知っている。


 コンクリートジャングルのその中の、ワンルームの薄暗い部屋。


 こんな場所で、こんなにも鮮明にセミの鳴き声が聞こえるはずがない。



 未だにべたついている左手で、左耳に触れてみる。


 ぬるりとした感触があった。


 手を目の前に持ってきて、ぼんやりとそれを眺める。


 中指と人差し指に、血が付いていた。


 悲しいだとか、痛いだとか、しんどいだとか。


 そんな感情すら湧かなくなっていた。


 ただただぼんやりとした感覚が、膜を張るように身体にまとわりついている。


 涙も出ない。


 食欲もない。


 ただ耳元では故郷ふるさとのセミが、いつまでもいつまでも鳴いていた。



 ******



 眠ったのか眠っていないのかも分からないような状態で、身体だけは無意識に動いている。


 無意識に顔を洗い、無意識のうちにスーツを着る。


 出かける寸前で鏡を見ると、右の頭頂部から寝ぐせが顔を出していた。


 それをそのままほおっておいて、あまりに重いドアを開いた。



 朝の駅は混雑しており、人の流れに沿わないと歩くこともままならない。


 いつもの五番ホーム。ぐるぐる回る環状線。


 ぐるぐる。ぐるぐる。ぐるぐる。




 強烈な汽笛が「ファーン!」と鳴った。


 我に返ったおれはかろうじて立ち止まる。


 気が付くと白線を超えてホームの際まで歩いていた。


 過ぎ去る電車の風圧で頬が揺れる。



「危ないですよ!」と駅員の声。


 おれはそのままふらふらと、駅のベンチに座り込んだ。



 



「――み。――拓海!」


 誰かに揺すられたのを感じたおれは、寝ぼけたような思考のままその声の主を見た。


「拓海。馬鹿野郎。心配させやがって」


 見ると、泣きそうな顔をしたワカがそこにいた。


「……ワカ。……なんで?」


「なんでじゃないよ。あんたが電話かけてきたんだろ」


 自分の手元を見ると、たしかにスマホを握っていて、そこには【通話中――ワカ】という表示がされていた。


「……そうなのか」


「あんたが一言もしゃべらないから、聞こえてくるホームのアナウンスをたよりにやってきたんだよ」


 馬鹿野郎、と言いながらワカがおれを抱きしめてくる。


 抱きしめ返す元気すらないおれは、かろうじて手をワカの二の腕あたりに置いた。


「拓海。死んじゃダメだよ」


 ワカが耳元で言ってくる。


「死ぬくらいなら――」


 そう言うとワカが身体を離し、おれの手をぎゅっとにぎって引っ張った。


「ついてきて」




 ******



 ワカに手を引かれながら連れてこられたのは雑居ビルの三階。


 古いアパートのような鉄製のドアを開けると、アルコールのような薬品の香りが漂ってきた。



 小さな部屋の壁には、所狭しとポスターが貼られ、それらはすべて様々な箇所に施されたタトゥーの写真だった。


 部屋の真ん中にはマッサージ店で使われるようなベッドがひとつ置いてあり、おれはワカに誘導されるままそのベッドに座らされた。


「上の服、脱いで」


 ワカがなにやら道具のようなものをあさりながら声を掛けてくる。


「なんで?」


「いいから早く!」


 叱るように言ってきたワカの勢いに押され、おれは言われるがままシャツを脱いだ。



「こっちむいて、仰向けで寝て」


 まるでいまから手術をするかのように、ゴム手袋をはめたワカが言ってくる。


 おれはもうどうにでもなれというように指示に従って寝ころんだ。


 ワカがおれの二の腕にガーゼを当てて擦る。少し湿っているようで、ほのかな冷たさを感じた。


「なぁ、ワカ。もしかして――」


「死ぬよりはいいでしょ」


 おれの言葉を遮るように、ワカがおれの二の腕を触りながら言ってくる。


「……そう、かな」


 頭の中にいくつかの言葉が浮かんでくるが、どれもはっきりとした輪郭を持たない。


 なんだか記憶喪失か、痴呆症にでもなったような気分だ。


「じゃあ、始めるよ」


 そう言ってワカはおれの二の腕にカミソリを当てて毛を剃ると、何かのシートを貼りつけた。


 シートを剥がすと、おれの二の腕に十字架の模様が現れた。


「痛くても我慢してよ。まぁ、痛みを感じられるならまだ生きていけるだろうけどね」


 そう言うと、ワカがおれの腕をつかみ、――その肌に針を落とした。



 ******



「しばらく、安静な」


 おれの腕にガーゼを巻きながら、ワカが言う。


「私が声をかけたら、施術部分をシャワーで洗い流すんだ。その時、絶対にこするんじゃないよ」


 おれは返事もせずに黙ってそれを聞いている。


「ちょっと横になってていいよ。また時間になったら声かけるからさ」


 そう言うとワカがおれの頭を撫でてから、ゆっくりと身体を横たわらせてくれた。


 ワカが部屋を出て行ったあと、うすぼんやりと浮かぶ天井を見つめる。


 未だに頭はうまく回らない。


 しかしどこか遠くの方で、先輩の怒声が聞こえている。


「……あぁ」


 いったいなんの「あぁ」なのかも分からず、吐き出した言葉が溶けて消えた。



 ******



「三日か四日くらいは、湯船につかるのは禁止な」


 シャワーを浴びてから、患部を丁寧にふき取って軟膏のようなものを塗りながらワカが言ってきた。


「わかった」


「これでよし、と」


 ワカが再び丁寧にガーゼを巻いてくれた。


「拓海。あんたこれからどうするの?」


「これから……。とりあえず、会社に行ってみるよ」


「はぁ? 会社のせいでこんなになったんだろ?」


「それでも……。とりあえず行ってみるよ」


 おれはそう言うとシャツを羽織り、身支度を始める。


「じゃあさ、とりあえず終わったら連絡ちょうだいよ。夜ご飯は一緒に食べよう」


「……うん」


 ワカの誘いに、とりあえず頷く。


「それじゃあ、行ってくるよ」


「気を付けてね」


 ワカが玄関で手を振る。腕の髑髏が揺れていた。




 ******



 鉛のように重い足を動かし、なんとか会社にたどり着く。


 エレベーターを待っている間、ずっと動悸と吐き気が止まらなかった。


 オフィスに入るなり、あの先輩の声が飛んできた。


「オラァ! オメェ無断遅刻とはいい身分だなぁ! なめてんのかコラ!」


 ずかずかと近づいてきて、またしても胸ぐらを掴まれる。


「遅刻した分も働いてもらうからな! 今日はアポ取れるまで絶対に帰さねぇぞ!」


 息のかかる距離で、大声で叫ばれているにも関わらず、どこか先輩の声が遠くに聞こえる。


 めまいがする。足に力が入らない。浮かんでいる。浮かんでいる。



 その時、腕に微かな痛みを感じた。


 見てみると、それはワカがタトゥーを入れてくれた場所だった。


 十字架の意匠に沿うように、肌に痛みを感じる。


 じくじくとしたその痛みがおれの足を大地に降ろしてくれる。




 ――あぁ、なんだ。そうか。


 ――コイツなんて全然恐くないじゃないか。




 目の前で怒鳴っている先輩の顔を見て、なぜか心は冷静になる。


 胸倉を掴んでいる先輩の手首を逆に掴んで引きがす。


「あぁ? お前、歯向かうつもりか?」


 イキがった顔でにらんで来るこいつは、恐くない。全然、恐くない。


 なんでおれは、こんなヤツに。




 おれはそのまま振りかぶって、睨みつけてきたそいつの顔面に向けて思いっきり拳を振りぬいた。


「ぶべぇ!」


 情けない声を出して先輩だったものが倒れこむ。


「お、お前! なにし――」



 痛む鼻を押さえながら何かを言ってこようとするそいつに馬乗りになり、一発、二発とその顔面に拳を振り下ろす。



 一発。二発。振り下ろす度にびくんびくんと先輩の身体が跳ねる。



 その様子を見ていると、何か思い出すものがあった。これは何かに似ているな。





 ――あぁ、あれだ。


 ワカと一緒に釣った川魚だ。


 岩の上でぴちぴちと跳ねる、川魚だ。



 川魚跳ねる。ぴちぴちと跳ねる。








 都会の夜は、明るくて仕方がない。


 虫の声に代わって聞こえるのは、下品なキャッチの掛け声だ。


 すれ違う人がみな、おれの顔を見て驚いた表情をする。


 あの後のことはほとんど覚えていない。


 口の中は血の味で満たされている。右目は腫れているのかなんだか見えづらい。


 駅のそばにある自動販売機の横で力尽きたかのように座り込む。





 なぁ、ワカ。


 おれたちはもう戻れないよな。


 緑でいっぱいの、あの山に。


 戻れないなら、せめてさ。


 ぼろぼろになってこの街で。


 命を刻んでいかなきゃな。




 スマホを取り出し、画面を数度タップするとゆっくり耳に当てた。


 もう、セミの鳴き声は聞こえない。


 それは幻聴からの解放か、それとも故郷ふるさととの別れなのか。


 ――電話が繋がる音がした。





「あぁ、ワカ。あのさ。――また別の、彫って欲しいんだけど」







【聖痕~スティグマ~ 完】

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