退屈に告ぐ

ちゃづけ

第1話

森の奥深い所に不気味にも大きい館が一邸ある、という噂は、疾うにそれに登場する館の住人にも知れ渡っていた。その館に住まう召使いたちや館主、その夫人、また庭師、そして館に唯一産まれ育つ一人の子供まで幅広く、漏らすことなくはっきりと。

館主や夫人は興味を足の小指の爪ほど示さなかったが、長く働いている召使いたちは退屈で繰り返される日々に差し込まれた他所の話を大層に面白がって、二人の子であるアランーー先程の子供に対してもぺちゃくちゃと語っていた。

アランにしても噂は、この館から出たことがないと来ればかなりの良き玩具であった。しかし大人たちと違うのは、年齢故の受け止め方ーーとでも言うべきだろうか、こんな自分たちに対して囃し立てるようなものを作り話として受け止めていたことであった。それもまた、召使いたちにとっては面白がる要素を代償として雇われる日々の退屈を凌いでいたのだった。


さて、その噂がこの奇妙とも言える館にたちまち巡り始めて、五年も経った後の話である。

アランは五年前には短く、その母譲りの深い彫りをした小さい顔の横までしかなかった人参色の髪を、今では年相応の美麗な大人びてきた顔に似合うように、項まで伸ばしていた。

もしも街に一度降りるのならば、必ずと言っていいほど異性から声を掛けられただろう。それほどに麗しく、また可憐に育っていた。

そして五年も経てば、彼女の歳での勉学など飽きていて、今の玩具といえば召使いを負かすほどに上手くなったチェスと、年老いた父ーー館主の書斎にある本のみとなっていた。とは言っても、勉学の合間に片端から読み尽くしてしまい、気に入った本を再読しているのが現状であった。

事ある毎に、彼女が退屈だ、という言葉を呟いているのは既に周知の事実となっていて、しかもそんな彼女の能力の高さを知ったものだから、贅沢だと言い返せる者などほとんどいなかった。強いて言うなれば、彼女の話し相手としてよく部屋に招かれていたオリーブくらいなもので、館主も夫人もとうとう口にはしなかったのだ。

アランにとっては草木の一本が生えるのをひたすら見守るような、そんな退屈で飽きが来てしまうような日々。館主たち親にしてみれば、下級貴族としてさらに上の貴族の顔色を窺うことでいっぱいいっぱいな日々。召使いたちにとっては、この館で働き出したことを後悔し始めるような、そんなどうしようもなくつまらない日々。

ーーそんなつまらない日々が繰り返される貴族たちの、何かが壊れた一日の話である。


ーー終わりの見えない洞窟のようだわ、とアランは表情一つと変えずに呟いた。ここまでいくと表情筋すら衰えて自分に飽きてしまったのかもしれない、と、さも自嘲しているように思えて、小さな手に持つ開いたばかりの厚い本をぱたりと閉じる。

今日とて彼女の部屋の窓から覗く空は、両手に持ち腐るような退屈を嗤うように青く、そして浮かぶ太陽の光はアランの目に実によく沁みていた。

「……なぜ、オリーブまでも用事に付き合わなくてはならなかったのかしら」

ふう、と一息吐くと、彼女の脳裏にはふくよかで、いかにも温和そうな笑顔をした召使いであるオリーブの顔がぼんやりと浮かんだ。

昨晩、突如として告げられた、遠縁の上級貴族の葬儀。それにはアランの父であるサリと母であるマーガレットと、そして数名かの召使いたちのみが参加する、と言われると、アランは一人俯いていた。珍しくも召使いたちの中からオリーブが選ばれていたのも原因として正解ではあったが、もう一つこれより大きな原因を挙げるならば、外の世界に踏み出してみたい、というものであった。

「私も、外の世界が見たかった」

空に手を伸ばしてみるも、所詮は箱庭の理想郷。彼女の手の届く場所には、読み尽くした本の塔しかない。

「オリーブだけ狡い」

駄々を捏ねてみても、泣いた赤子を泣き止ませるように宥めてくれる召使いは、アラン一人閉じこもった部屋にはいなかった。大きな館である分、人もそれぞれ隅から隅へと散らばっていて、もう幼子ではなくなった子供を構っていられる時間など、全くないに等しいものだった。それをしっかりとアランも理解していた。

アランは産まれてこの方、たった一度として外の世界に足を踏み出したことがない。土を捏ねて泥団子も作ったことがない。木がそよ風に靡いて、葉を揺らして音を鳴らすことさえ窓からしか覗いたことがないのだ。

だからこそ、話し相手のいない長い時間の退屈を紛らわせようとするには本が最適であった。知らない世界を広げてくれるからである。

幾つかの本に出てくるような、街に暮らす子供たちが外に出て遊ぶことなど叶わず、ただ知ることのみで、その羨望を密かに抱いて生きてきた。

しかし、本ですらその退屈を紛らわせることができないとなると案の定困難なもので、机に戻り勉学に励むか、或いは小窓から見える流れゆく雲を数えるくらいでしか暇は潰せそうになかった。

「……オリーブがいなくなると途端にこうなってしまうわ。どの道、勉学は飽き飽きするほどしたものだし……どうしたものかしら」

そう呟くと、再び大きくため息を吐いた。

昔触れたことのある絵の具を隙間なく塗りつぶしたような真っ青な空は、依然として明るく、アランの心をさらに曇らせる。途端に表情までも曇りだし、それに全くと言っていいほど妙案も浮かばない。鬱屈そうな表情をして、広々としていて若干ばかり光の差し込む部屋を、そわそわと落ち着きなく彷徨い始めた。


青く広い空が紅を取り込み、うっすらと彩り始めるとアランは自室の外へ出た。オリーブたちの帰った証となる無数の足音を待ち望んで、部屋よりもよく聞こえるであろう廊へ出たのだ。しかし彼女が待ち望む通りにはならず、風の吹く音も、召使いたちが小走りして出迎える音も、一つとして聞こえない。

廊に掛けられているこれ見よがしな大きな掛け時計からは、秒針の動く無機質な音だけが響いている。その音に、ぼうと体を委ね、壁に体を預けて意識すら微睡みの中へ落ちかけたちょうどその時、アランの耳にこつんと音が届いた。そして廊の突き当たりの窓から聞こえたであろう音に近寄ろうと、ゆるりと立ち上がる。未だ微睡みの残滓が体を巡り、ふらふらとまともに歩みすらできないが、それでもその音を確かめるために窓へ近付いた。

掛け時計くらい大きな窓から聞こえた音は、これもまた期待に沿うことはなかったが、どうやら小鳥が窓硝子を小突いた音らしく、アランが窓を開くと飛び去って行ってしまった。

そんな無意識な悪戯を残して飛び去った小鳥は、アランにはかなり新鮮に思えた。久しく見た生き物で、驚きも覚えながら、であった。

大自然の中に不気味に聳え立つ館とは言えど、ここに住まう者は皆人間である。換気の最中に虫が入り込むこともあるが、その大抵は召使いたちによって殺されていく。ましてや鼠の一匹も見かけないこの館では、犬や猫などいるはずもなかった。

「……外へ、出たい」

外出のみを抑圧されてきて既に十五年が経つ。外の空気は吸えど、土は踏んだことがない。木製の柱を撫でれど、窓から見える木々の幹のざらついた表面を撫でたこともないのだ。そんな色のない世界に住まう彼女の中で、何かが色づき始めた。

そしてこれが、新鮮なあの一瞬の出来事が、彼女の秘めていた欲を暴き始めた瞬間であった。

「外へ出るなとお母様もお父様も仰っていたけど、誰もその理由は教えてくれない。オリーブもそれに関しては口を噤むばかり。 ……けれど今はそうして止められる人など、いないのよ」

暇潰しに持っていた本を些か行儀悪く床に投げ落として、開きっぱなしの窓から上半身を乗り出した。

廊の階段を下って正規の扉から出ようとすれば、きっと彼女はまた退屈な無色透明の世界へ連れ戻されることだろう。聡明なアランは、それも正しくわかっていた。

故に、宛ら手品のように二階から出てやろうと考えたのだ。

「ほんの少しだけ外に出るだけよ。お母様やオリーブに怒られても、本にあった実験をしていたなど、そう言えば悪い事態にはならないでしょう」

もしも入れなくなったとしたら、逃げ出してしまおう。

そう考えて、アランは自身を落ち着かせる。淡い青のネグリジェを捲り上げて、窓の縁から痣一つない細く雪のように白い足をゆっくりと降ろすと、少し冷えた風が彼女の足に直に触れた。

「……あまり、味わったことの無い感覚」

アランは時折景色が変わることのみで、季節というものを推測していた。春と呼ばれる季節であれば、色とりどりに花が咲いていて、夏であれば強い日照りが目を眩ませて、秋であれば木々の葉が赤く染まって、冬であれば全てを覆うような雪景色を眺めて。

視覚とほんの少しの他感覚で捉えていた世界が、いまここで初めて、寒い、という世界を知れたのだ。

本やオリーブの話だけでは到底知ることのなかった世界の扉が、アランの心の中で大きく両手を広げていた。今にも吸い込まれてしまいそうな、魅力に満ちた世界へと続く扉がそこに。

「飽きてしまったのよ、仕方がないじゃない」

そこまで言うと、彼女は飛んだ。

その扉というものがまるで外の世界そのものを指していたように、地面に垂直に引き込まれていったのだ。

人参色の髪はふわりと膨らんで、ネグリジェも空気を孕み、風船のように膨らむ。存外彼女の部屋のあった二階とは、地上から離れていたらしく体にまとわる空気の冷たさを憂うくらいには時間があったらしい。

「……ほんと」

すると、どうやら地上に着いたようで、どすんと大きく音がした。外に出ることなく、武道にも関わらず生きていたことでは、偶然にせよ咄嗟には受け身など取れるはずもなかったのだ。アランは土に伏せたまま、苦しみに喘いでいた。

幸運にも最悪の事態となり得た、ぐじゃりとした生々しい血みどろの肉片となっての発見は免れたらしい。多少なりの体の負担を生んで、彼女は生き延びたのだった。

「……うう」

何処かの部位の骨が砕けてしまったのかもしれない。或いは、彼女自身の何処かが抉れてしまったのかもしれない。それほどの痛みがズキズキと体を激しく襲った。

いかにも苦しそうに呻き声をあげながらぎこちなく体を起こすと、雑草の手入れすらされていない草っ原の硬い地面に細い腕をついた。ふるふると小刻みに震えながら首を回してみると、どうやらただ全身を酷く打ち付けていただけのようで、特別といった損傷は見当たらない。

ふう、と安堵の息を一つ吐くと、張った気がぷつりと切れたようにアランは寝そべった。

痛みが引かないことによって安易に立ち上がれないこともそうだが、何より初めてあの鳥籠から出られたことを実感していたかった、という思いもあったのだろう。

「出られたの、かしら」

アランは少し日に当たってみたら、また館に戻ろうとそう思っていた。所詮訳を話したら召使いは鍵を開ける、そう考えていたのだ。逃げるつもりなど毛頭なく。

しかし、隣りの芝生は彼女にとって本当に青く思えた。

「……このまま、立ち上がってもしも歩けそうなら、広い街も見てみたい」

草木がそよ風に揺られているのを触れて感じてみて、初めて日の光を目のその奥まで沁みるように見て感じてみて、目的が変わったのだ。禁忌を犯して外の世界と触れ合ってしまうと、アランの思う以上に心地よく、自然という言葉が生き生きと浮き上がってきてしまった。そしてその自然との共存の様子を様々な形で見ることのできる街に降りてみたいと思ったのだ。

「お父様たちが帰ってくるのはもう少し先、と聞いた。嘘ではないのなら、きっともう少しだけ……」

アランの心の奥に生まれていた彼女自身すら捉えきることが難しいような願いは、彼女の震える足を動かした。

少しだけ痛みが薄れた体に気合いを入れるようにして大きく息を吸い込み、勢いよく吐き出しながらどうにか立ち上がったのだ。

「……ごめんなさい、オリーブ、お母様、お父様」

そう小さく口を動かすと、腰をおさえながらも古びた門の間をするりと抜けた。そして一度、館を振り返り、「お許しを」とだけ告げて、ゆらゆらと森を下ろうと歩いていった。


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退屈に告ぐ ちゃづけ @tyaduke_

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