だんだん染まる
そすぅ
第1話
バイトの帰り道。夜桜が綺麗な公園がある。夜桜、といってもライトアップされているわけでもなく、ただ白っぽい街灯に照らされているだけである。そのせいか、昼は花見客で溢れかえっていた桜の木の下も、犬の散歩をする人や缶ビールで酔いつぶれているサラリーマンくらいしかいない。
あ、忘れていた。ベンチでイチャイチャしているカップルもいる。
今日もいちゃつくカップルが一組。女の子が彼氏らしき人に後ろから抱かれている。
しかし、何か、いつも見かけるカップルとは違う。なんというか、漂う雰囲気が違う気がする。
スマホをいじっているフリをしながら、盗み見る。女の子の顔が赤らんでいる。え、まさか……。夜の公園、人が少ないとはいえ、まだ8時。いや、時間の問題ではないけど、こんな人目の着く場所で。本当にいるんだな、と感心するような、軽蔑するような、興味深いような不思議な気持ちになる。
バレないうちに帰ろう。何も見ていないふりをして、スマホをしまって、自転車を進ませた。
しかし、この時の私は3つのことを見落としていた。そして、それらは翌日の同じ時間、私に示されるのであった。
翌日のバイトは長引いた。閉店間際に面倒な客が来て、いつもより帰宅が1時間も遅くなった。
昨日と同じ道。昨日よりも人通りは少ないが、相変わらず夜桜は美しい。
一陣の風。
桜が舞い、視界が一瞬遮られる。
ガシャ!
自転車が何かにぶつかった。
さっきまで何も無かったはずの正面を見ると、人が立っていた。
「えっ、あっ、すみません!!」
人を轢いてしまった。慌てて謝る。
「あのっ!お怪我は?」
尋ねるが返事はない。自転車がぶつかったのにもかかわらず、びくともしなかったその人は、ゆっくり顔をあげる。
どうしよう、どうしよう。
突然の出来事に混乱するばかりの私はあたふたする。
「いえ、予定通りです。」
その人の返事は想定外であった。人を轢いたことに対する混乱を上回る混乱に、思考が上書きされる。また、その声を聞いて、私は初めてその人が女性であったことに気づいた。
がっ。ガシャン!
そして、それをさらに上書きする混乱。
肩を掴まれた。驚きのあまり、自転車を支える手が緩み、自転車が大きな音を立てて倒れる。
「予定通りなので大丈夫。ありがとう。」
えっ。まさか痴漢?いや、でも女性だから痴女かな、と非常事態にそぐわないどうでもいい考えが頭をよぎる。
とりあえず逃げないと。轢いてしまった自分が悪いのは分かっているが、同時に自分がかなり危ない状態にあることも理解していた。
がぶっ。
驚くことにも疲れた。しかし、それでも驚かずには居られないほどの奇怪な状況。
首筋を噛まれた。
混乱が一周まわって、むしろ冷静になった私は改めて自分の現状を解釈する。
首筋を噛まれた。
もう一度。
首筋を噛まれた。
咄嗟に女性をつき飛ばそうとする。しかし自転車と衝突に耐えたその体を19歳女子大生の腕で突き飛ばせるわけがなかった。
それになぜか力が入らない。少しずつ抜けていくような気がする。でも不思議なことにどこか気持ちいいような感じもする。
その原因が首筋にあると気づいたのはその直後であった。
ちゅー。
首筋を吸われている。少しくらっとする。まるで貧血のように。
そして、ここでようやく、私は「吸血鬼に血を吸われている」という可能性を考えるようになった。
そのありえない可能性を考えた瞬間、恐怖はますます膨れ上がった。しかし拒もうにも力が入らない。また、そのありえない可能性を想定した上で私は別の感覚にとらわれていた。
気持ちいい!!
身の危険が迫っている状況であるのにその感覚に身を委ねてしまう自分がいた。
どうせ動けないし、このままでいいや。そう思ってしまったのだ。
首筋を噛まれてから何分経っただろうか。通行人は1人も通らない。
意識がぼんやりとしている。
首筋を離された感覚で現実に引き戻される。
彼女の顔が正面に来る。はっとした。
昨日の人だ。昨日、ここでいちゃついていたカップルの彼氏側。
「はじめましてじゃないよね。昨日の覗き見お嬢さん。」
しかも見ていたことを気づかれていた。
「今日はもうお帰り。」
小説や漫画で出てくるキザな王子様キャラが使うようなその言葉に操られるようにして、私はふらふらと帰宅した。意識はあった。でも少し熱にうかされるような感覚だった。例えばそう、初恋に悶えるように。
気づけば家に着いていた。
帰り道、散歩中のトイプードルにやけに吠えられたこと以外、いつもと全く変わらなかった。
遅めの夕飯を食べ、風呂に入る。
熱めのシャワーが心地よい。
噛まれた痕を見ようと鏡を見て絶句した。
私の姿は、鏡に映っていなかった。
だんだん染まる そすぅ @kingyo333
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