43 可愛い子には旅をさせよ
鳴り響くサイレンはまだ小さい。
けれど、確かに俺の耳まで届いている。
それは、タイムリミットまで長くはないことを示していた。
「……あとどれくらいで着くんだ?」
「音から察するに長くてあと十五分ってとこかな?」
「十五分……」
確かに存在するその猶予。
何かちょっとしたことなら、
けれど、人生を左右する選択をするにはあまりにも短い。
「どうするんだ? ディルナさんと一緒に逃げるか。それとも俺と一緒に再転生者に操られてました、って泣きつくか。どっちだ?」
意味が分からない。
俺は何を間違えた。なぜ転生庁は俺達の家を目指している?
いろいろな疑問が頭に浮かぶが、今それを考えている時間はないと自制した。
「どういうこと? なんでサイレンが鳴ってるの?」
「君宛のラブレターだよ、ディルナ君」
「ラブレター?」
こんな緊迫した状況であるというのに、不思議な言い換えを行う佐多。
意味の分かっていないディルナは、佐多に向かって聞き返した。
「新たな再転生者は来訪していない。それなのにサイレンが鳴る理由はただ一つ。未だ逃亡を続けている君だ」
「あー、なるほど。だから、ラブレターね」
「そうそう。理解が早いね、ディルナ君」
ディルナと佐多が他愛のない話をしている間も、サイレンの音は大きくなっていく。
既に、もうすぐそこまで迫っているということを誰に言われるでもなく理解した。
「さて、簡単な二択問題だ、勝木。悩むことなんてない。……それに、悩む時間もない」
窓の方へ目をやる佐多。
パトカーのライトが反射しているのか、窓は少し赤みがかっていた。
「……ディルナは――」
――どうしたい? と続けようとしてやめた。
こんな大事な選択を他人に預けるなんてどうかしてる。
これは、俺が決めなきゃいけないことだ。
ディルナは再転生者。俺とは違う。
災害であり、化け物であり、人類の敵だ。
彼女についていくことを決断するのなら、今の立場を捨てなくちゃならない。
仕事だってなくなるし、この家とも一旦さよならだ。
だから、頭のいい人間。ちゃんと倫理観のある人間なら迷う必要はない。
二択じゃない。一択なんだ。
分かっている。
一緒に逃げるなんて、馬鹿のやることだ。
そもそも逃げて何するんだ。未来がない。
復職だって難しくなる。最悪出来ないかもしれない。
こんなにもデメリットがあるんだ。
しかも、ちょっとしたものじゃない。
どれも取り返しがつかないレベルのモノ。
ただ。
――――それでも。
「どうせもう決まってるんだろ。普通の人は迷わない。でもお前は迷ってる。その時点で答えなんて決まってるじゃねえか」
背中を押すような佐多の言葉。
「……そうだな。その通りだ。間違いないよ」
――それでも、俺は多分逃げたがってるんだ。
ありえないくらいのデメリットが目の前に広がっている。
それは間違いない。けど、ダメだ。
そんなものは理由にならない。大したことじゃない。
目の前に広がるデメリットより、さらに大事な何かがその先にある。
「行ってくるよ。きっとそれがいい」
満足げに頷く佐多。
その様子を見て、暴れていた心臓の鼓動がゆっくりと落ち着いていくのを感じた。
「だな。んじゃ、準備しな。さっさと逃げろ」
話が一段落したのを確認して、ディルナがようやく口を開く。
「でも、これ実際に逃げるって言ってもどうやって逃げるの? だって玄関は絶対囲まれてるでしょ? 殺して強行突破するわけにはいかないし」
当然の疑問である。
避難の練習をしてきたわけではないし、目の前の転生庁を蹴散らしてに逃亡するなんて論外だ。
しかし、佐多は自信満々にジェスチャーを交えながら「ノンノン」と首を振っている。あまりにもうざい。今すぐにでも殴ってやりたい。
「どういう意味だ?」
「簡単な話さ。なんのために君の能力を聞いたと思ってるんだ。飛べるんだろ? そこのベランダから羽ばたいていけよ」
あまりにふざけた提案に目を丸くしていたが、ディルナは反対に目をキラキラと輝かせている。
無茶苦茶乗り気なようだ。
「良いじゃん! 頑張る、任せて」
「いや、本気か? え? 俺、あんまりディルナが飛べるって話信用してないよ?」
「いいや、任せて。飛べる」
なんだその根拠のない自信は。
こちらの目をじっと見つめて「行ける。行けるよ」と訴えてくるディルナにさすがに狼狽えてしまう。
けれど、俺に残された選択肢はそれしかない。
仕方ないので隣で大笑いしている佐多を殴って気を落ち着かせることにした。
なんか文句を言っているが気にしない。
「さっさと、重要なもの整理しろ。肌身離さず持っておきたいものもあるだろ」
言われるがまま、身支度を始める俺とディルナ。
財布や、スマホなどの生活必需品をリュックに詰め込む。
こういったとき、何を入れても「まだなんか持ってくべきものあったかなぁ」と心配になってしまうのは人間の性なのだろうか。
そんなくだらないことを考えてふと気づく。
「……佐多はどうするんだ?」
一緒に逃げるという選択肢はないはずだ。
そもそも今日が危ないと分かっているのに、なぜこいつはここに来た。
「
言われて、部屋の中に目をやる。
確かに汚い。
そりゃそうだ。ホームパーティーしてたんだから掃除が必要に決まっている。
「お前らにそんな時間はないからな。掃除しておいてやる。だから、存分に楽しんで来い。その代わり、極上の土産話を持って帰って来いよ」
佐多が言い終わるとともに、インターホンが鳴った。
まるで狙いすませたかのようなタイミングに思わず笑ってしまう。
なにか気の利いた一言でも行ってやろうかとも思ったが、残念ながらそういったセンスは持ち合わせていない。
だから、分かりやすい一言を。
「行ってくる」
満足げな佐多の表情を確認し、既に準備万端なディルナの方へ向かう。
「よし、じゃあ出るよ」
「……なあ、これ以外の方法で飛べないのか?」
「成功確率下がってもいいなら他の飛び方も提案できるよ?」
「……おっけ。これで行こう」
屈んだディルナにおんぶをしてもらう。
まさか、この歳になって年下の女性におんぶしてもらうことになるとは思わなかった。非常に恥ずかしい。
でも、背に腹は代えられない。
「飛ぶよー!」
ディルナが叫び声が俺の耳に届くとほぼ同時に体が浮遊感に包まれるのを感じる。
直後、風を切る音が耳に入った。
まるで飛行機が離陸するときのように、耳に嫌な違和感が走る。
「……あ、これ死んだわ」
目を瞑って衝撃に備える。
しかし、意外にも吹き付けてくる風は気持ち良い。
恐る恐る目を開くと、死ぬほど綺麗な景色が目に入った。
その後一瞬遅れて自宅付近にたくさんの車が止まっているのに気付く。
「すっげえ……。なんだこれ」
「いいでしょ? これが空だよ。自由な世界さ」
視界を遮るものは何もない空。普段ならガラス越しにしか見えない世界が眼前に広がっていた。
思わず息をのむ。その後、唾を飲み込んだ音はディルナに聞こえただろうか。
少し恥ずかしくなりながらも二度とお目にかかれないかもしれない景色を見逃さまいと必死に目を凝らした。
「あまりにも気持ちが良いな」
「そりゃよかった」
「自力で飛べなきゃ気分も高まらないかとも思ったが、五感で飛んでるって感覚を得られるってのはとんでもなく幸福なことらしい」
あまりの気分の良さに思わず笑いがこみあげてくる。
「あははははははっ!」
俺の大笑いは地上には届くのだろうか。
そんなことが頭をよぎったが、遠慮して笑いを抑える気にはならなかった。
「ご機嫌じゃん」
「ああ、気分は最高だ」
俺の返答にディルナは満足そうに笑う。おんぶされているので、表情はよく見えないが、満面の笑みを浮かべているに違いない。
「それで、どこ行く?」
「せっかくだしどこか遠いところに行きたいな」
「おっけー。任せて」
快適な空の旅をご堪能下さい、とまるで機内アナウンスのようなことを呟きながらディルナは速度を上げる。
より一層強くなった頬を打つ風が、今まで抱えていた悩みをすべて吹き飛ばしてくれたような気がした。
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