22 年老いると段々と嫌いだったものも食べれるようになる
「もしかしたら、勝木君みたいな人がこの世界を変えるキーマンになるのかもしれないな」
「どうして?」
「君には裏表がない。素直だし、純粋だ。わしの様な長年者に対する態度と、西濱君のような若者に対する態度に差がない。これはなかなかできる事じゃないさ」
ふむふむ。
つまり、これは遠回しに礼儀がないって言われてるな?
「馬鹿にしてる?」
「まさか。確かに君の態度を咎める人間もいるかもしれない。けれど、それも長所だ。君みたいな人間が語る正義なら人はついてくるだろうね」
「買い被りすぎだよ」
「……わしはそうは思わないがね」
立ち上がって冷蔵庫の方へと向かう酒井。
何するんだろ。まさかホットコーヒーじゃ飽き足らず、アイスコーヒーを飲もうとしてるの?
「どうかしたの?」
酒井は私の質問を聞き流しながら、冷蔵庫からぶどうジュースを取り出した。
紙パックにでかでかと『果汁100%』と書かれているものを丁寧に開き、透明なグラスに注ぐ。
コーヒーとぶどうジュースって合うのかな。ずいぶんと味のカテゴリーが違いそうだけど……。
不思議に思っていると、そのグラスは私のもとへと置かれた。
「サービスだ。長い話を聞いてくれたお礼だよ」
グラスの中になみなみと注がれたジュースが揺れる。
「いや、私が聞きたくて――」
「それでもいいのさ。年寄りってのは身の上話をしたがるもんだ。そして、それを聞いてくれる人が中々いなくて寂しくなる。悲しい生き物だよ」
私が返そうとしたグラスは、酒井の手によって止められた。
「……ネガティブだね」
「大人になるってのはそういうことなのかもしれない。人生をやめたくなるような色んなことを経験して育っていくもんだからね。コーヒーが苦いのだって、いろいろな辛さが詰まっているからに違いないさ」
「……じゃあ、おいしくないんじゃないの?」
言いながら、差し出されたぶどうジュースをごくごくと飲む。
うま。
あまりの美味しさに一口で済ますはずだったぶどうジュースはいつの間にかなくなっていた。
「痛いところを突くなぁ。でも、そういう色々な経験が段々と良い思い出になっていくんだ」
「そういうもんかなぁ」
「そういうもんさ」
いったん、話が一段落つき私も酒井も目の前にある飲み物に手を付ける。
BGMしか流れていない静かな店内に二人の喉が鳴る音だけが響いた。
「思い出したくもないつらい思い出もいつか自分の中で消化出来る。何とかなってしまえばそれはいい思い出だ。美味しいに違いないさ」
だから、これを楽しむには君には経験が足りないんだ、と酒井は続ける。
……いや、別に私嫌いなだけでコーヒー飲めますけど。
そんな不満げな私の心を察したのか、酒井が訳の分からない提案を始めた。
「どうだい? せっかくだから飲んでみるかね?」
「……え?」
心底要らない。
食わず嫌いじゃないのだ。
以前、飲んでちゃんと美味しくなかった。
けれど、ここでこの提案を断るのはなんだか負けた気がして気に入らない。
「……じゃあ、せっかくだしもらおうかな」
「良い心意気だ」
満面の笑みを見せる酒井。
殴ってやろうか。
「とっておきのをご用意するよ」
「……出来れば甘いと助かるな」
私の苦笑いは読めただろうか。
笑ったままの酒井の表情からはその真意は分からない。
先ほどまで優しかった酒井の背中が、なんだか恐ろしく見えた。
「どうぞ」
黒色の液体が注がれたカップが私の目の前に置かれる。
とりあえず、匂いを嗅ぐか。
うん、さっきからカウンターの奥から漂ってきていたものと変わらない。良い匂いだ。
次に揺らしてみるか。
さっきから酒井もちょくちょく揺らしてたしな。多分荒れ美味しくなるんでしょ。
ゆっくりと、目の前のコーヒーを吟味していると、酒井の笑い声が耳に入った。
「大丈夫。それは人が口にしていいものだよ」
「……分かってる」
うるさいな。
煽るんじゃない。
「……いただきます」
「ごゆっくり」
カップを徐々に口に近づけていく。
大丈夫。これは結構有名なカテゴリーの飲みもの。
カップを口につけたところまでは良かった。コーヒー本体が唇についたところで体が強張る。
いや、大丈夫。
すぐに強く目を瞑ってコーヒーを飲んだ。
「どうだい?」
憎たらしい笑顔を浮かべる酒井。
さっきまではいい人だったのに、今は悪魔だ。
「……やっぱ苦いや」
何がおいしいんだ、馬鹿。
経験不足だね、と酒井は私を笑った。
◇
「いつか、これが美味しく飲めるようになったらまた来るといい」
酒井の昔話も終わり、帰りの時間となった。
要らないと断ろうかとも思ったが、ご厚意だ。
受け取ることにした。
お土産は酒井おすすめのコーヒー。
出来るだけ初心者でも飲みやすいものを、とのことだ。
しかし、そもそも私が酒井に出されたものすら相当初心者向けだったので、もちろん渡されたものは今の私の口には合わない。
「ずいぶんと物騒なことを話してしまったけどね。もしかしたら、君のような裏表のない人が世界を変えてくれるんじゃないか、とわしは思っているよ」
「……大げさだよ」
私にそんな大きな力はない、と否定しようとしたところだった。
「そういう自分が思ってもいないようなことを口にできない正直さが君のいいところだ。もし、つか大事な約束をする時が来たなら、ぜひ安請け合いすると良い」
「無責任だね」
「大人ってのは無責任な生き物さ。君も大人になったと感じたなら、これを飲むこと。いいね?」
「私が大人になった、って誰が教えてくれるの?」
酒井は中身がきちんと詰められた紙袋を私に渡しながら笑う。そして、口を開いた。
「君が大人になったかどうかなんて誰も教えてくれないものだ。自分で気づくときがあったら、その時、晴れて君は大人になれたってことだろうね」
難しい事を言う人だ。
酒井の言葉の真意は分からなかったが、ただ一つ確かなのは『私がまだ大人ではない』ということ。
「いつかまた来ます」
今度は飛び切り苦いコーヒーを飲みに。
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