グレイディア・レース ~引退レースに臨む君と俺の物語~
夕藤さわな
第1話
グレイディアは、小型のクジラに似た姿をした海獣。ラクダみたいに背中にコブがあるのが特徴だ。
いや、泳ぎ抜ける……と、言った方がいいだろうか。コースは海、会場は海の上に作られているのだから。
グレイディア・レースは競争競技であり、公営賭博であり、富裕層の老若男女に人気のエンターテイメントだ。
レースが始まる三十分前――。
待機場である巨大水槽に向かうと、相棒のクレアがじっと分厚いアクリル板を見つめていた。正確には、分厚いアクリル板を挟んだ向こうに見えている、本物の海を。
クレアはメスのグレイディアだ。
グレイディアは本来、群れで生活する動物だ。並んで泳ぐこと、一塊になって泳ぐことを好むから、レースでもなかなか前に出ようとしない。自分の相棒を他のグレイディアよりも前に行かせようと、ライダーたちは必死に鞭を入れる。
でも、クレアは好奇心の強い性格をしている。見慣れたグレイディアたちの顔を見ているよりも、先頭を泳いでいち早く知らない世界を見たがった。
おかげで俺とクレアは色んなレースで一番にゴールできたし、鞭を振るわずに済んだ。
ライダー仲間からはずいぶんと羨ましがられた。誰だってレースには負けたくないし、鞭を振るいたくも、振るわれたくもない。
クレアのおかげで、普通の選手寿命よりもずっと長くレースに出ることもできた。
ライダーは十三才、グレイディアは十才が選手寿命とされている。俺は十八才、クレアは十五才。五年も長く、この世界で生き延びることができた。
それも今日、ゴールしたらおしまいになるのだけど――。
「クレア、そろそろ時間だよ」
声を掛けると、クレアは頭の上にある穴から音を鳴らして返事をした。きゅ! と、短くて高い音は機嫌が良い証拠だ。
今日が最後のレースだと、きっとクレアはわかっていない。
練習のときは同じ場所を泳ぐ。好奇心旺盛なクレアには苦痛だ。でも、レース会場は毎回、変わる。クレアにとっては新鮮で、楽しみなのだろう。
水槽に足を差し入れた俺はぶるりと震えた。
アクリル板で仕切られているけど、水槽を満たしているのは海水だ。冬の、海の水。申し訳程度に温水が混ぜてあるけど、ウェットスーツで入るには冷たい。
入るのをためらっている俺を見て、クレアが狭い水槽で器用にジャンプした。
「……」
クレアの着水と同時に上がった水しぶきを俺は頭から被った。
きゅ! きゅ! と、クレアが鳴くのを聞いて、俺は引きつった笑みを浮かべた。楽しそうで何よりだ。
でも、おかげで覚悟が決まった。
勢いよく飛び込むと、体を冷たい水に慣らすためにゆっくりと泳ぐ。
どうも泳ぐのが下手くそだと思われているらしい。クレアは俺にぴたりと体をくっつけて付いてくる。
同じグレイディアは置き去りにして泳ぐくせに、俺が水の中にいるあいだは決してそばを離れようとしないのだ。
俺は苦笑いしながら、クレアの頭をぽんぽんと叩いた。
「俺とお前の最後のレースだ。絶対に……生き残ろうな」
俺が言っている意味をわかっているのか、いないのか。
クレアはきゅ! きゅ! と、上機嫌で鳴いた。
***
『……八枠九番、ダグラス。そして、八枠十番……このレースが引退レースとなります、女王クレア。今日も他のグレイディアたちを大きく突き放し、ゴール前を泳ぎ抜け、有終の美を飾れるのか。……全十頭、スタートゲートに収まりました』
「有終の美……か」
会場に響く実況アナウンスと歓声を聞きながら、俺は唇の片端を上げた。
モンキー姿勢――クレアの背びれを掴み、胴体から尻を離し、前傾姿勢でスターターが旗を振り下ろすのを待つ。
『スタートしました。全頭横並びで、まずはスタンド奥の直線。第一コーナーへと向かって泳ぎます』
実況アナウンスがのんきにスタートの話をしているあいだに、レースは進んで行く。スタンド奥の直線は約一千メートル。グレイディアはその距離を一分ちょっとで泳ぐ。
クレアはいつも通り、他のグレイディアよりも前へ、先頭へと出た。
飛ばすクレアの背びれにしがみつきながら、俺は第一コーナーを睨みつけた。
いや――。
第一コーナーの、その向こうにある高く白い壁を睨みつけた。
グレイディアは頭のいい動物だ。
レース本番前に下見として、コースをゆっくりと周る。それでコースの形を覚えてしまう。本番も覚えたとおりに泳ぐし、コースを外れようとすると抵抗するグレイディアもいる。
仲間から離れること、知らない場所に行くことを不安がるのだ。
でも、クレアは好奇心旺盛な性格をしている。
俺の言うことを聞かずにコースアウトすることもあって、ずいぶんと悩まされた。
それで負けたこともあったし、鞭で打たれたこともあった。クレアの短所だと思ってた。
でも――。
「今はそれが、お前の個性で、長所だって思うよ」
俺は姿勢を低く、それこそクレアの胴体にしがみつくように、低く構えた。
「クレア、ゴールなんかしなくていい! このまま、真っ直ぐだ!」
とん……と、クレアのお腹を足で蹴る。そのまま行け、という合図。
次に背びれを引っ張る。これは――。
「……飛べっ!」
俺の合図に従って、クレアは水しぶきを上げて高く――それこそ、第一コーナーの向こうにある白い壁を飛び越えるほどに高くジャンプした。
白い壁の向こうに見えたのは、海。
アクリル板やネットで仕切られていない、コースも、ゴールもない、ただ広くて自由な海だ。
温暖化によって陸地は海に飲み込まれ、そこで暮らしていた動物たちの多くが居場所を失った。
人間は海の上に人口の陸地を作ったけど、土地も資源も限られている。今でも当たり前のように〝間引き〟が行われる。
第一コーナーを曲がって、スタンド前の直線を抜け、ゴールして。約二分のレースが終わったら、俺とクレアは引退する。
引退したライダーとグレイディアは死ぬ。……殺される。
それが寿命なのだと。選手寿命が俺たちの寿命なのだと、ずっと思ってきた。
でも、違った。
クレアのおかげで他のライダーよりも長く生きた分、色々なことを知った。
グレイディアの選手寿命は十年だ。でも、野生のグレイディアの寿命は五十年。クレアは引退したあとも四十年近く生きられるはずなのだ。
それを知った時からずっと、俺はこうしようと決めていた。
クレアと共に落ちた本当の海は、コースの水よりもずっと冷たかった。
温暖化どうこうと言っても冬は寒いし、申し訳程度とは言えコースには温水が混ざっているのだ。
冷たい海水に叩きつけられて、体中が痺れるように痛い。
それに流れも早い。海面がわからなくて、息が出来なくて、パニックになる。手足をばたつかせていると、クレアが体当たりしてきた。無我夢中でしがみつくと、
「……っ、はぁ!」
海面に押し上げられた。
「ありがと、クレア」
肩で息をしながら言うと、つぶらな黒い目がじっと俺を見つめた。元からそういう形なのだけど、口元も笑っているように見える。
なんとなくバカにされている気がして、
「うるっさいなぁ。お前たち、グレイディアと違って人間は陸の生き物なんだよ」
クレアの顔を手でぐいっと押しやった。きゅ! と、クレアは上機嫌で鳴いた。
と、――。
白い壁の上が賑やかになってきた。警備員たちが追いかけてきたのだろう。
俺はクレアから体を離すと、とん、とん……と、クレアのお腹を手のひらで叩いた。行け、という合図だ。
でも、クレアはなかなか行こうとしない。俺が背中に乗っていないせいだろう。
好奇心が強すぎて、俺を背中から振り落として突っ走ったことなんて何度もあったのに。
「こんなときに限って、俺のことなんて気にしてんなよ」
人間は陸の生き物だ。ただただ広い海で生きていくことはできない。クレアの足手まといになってしまう。
ずっと人間の飼育下にあったクレアが、本物の海でどれくらい生き残れるかはわからない。普通のグレイディアなら不安で死んでしまうかもしれない。
でも、好奇心旺盛なクレアなら、きっと――。
少なくとも、あのまま泳ぎ続けて、ゴールするよりもずっと。引退して、殺されるよりもずっと、長く生きられるはずだ。
色々なものを見に行けるはずだ。
「いいから行けって。すぐに追いつくからさ」
微笑みかけて、俺はもう一度、クレアのお腹を叩いた。
クレアはためらいながら俺から離れた。最後の一押しに水面を叩くと、ようやく泳ぎ出した。最初はゆっくりと。でも、すぐにレース中と変わらないくらいのスピードで。冷たい海を泳ぎ出した。
きっとクレアの興味を惹くものがあったのだ。あっという間に、クレアの姿は見えなくなった。
「ライダーがいたぞ!」
「グレイディアもまだ近くにいるかもしれない。探せ!」
見上げると、黒いスーツに黒いサングラス、髪をオールバックにした男たちが俺を見下ろしていた。クローンのようにそっくりな警備員たちのうちの誰かが、
「……処分命令、出ました!」
そう言った。
クレアのおかげで他のライダーよりも長生きできた。その分、殺されるライダーとグレイディアもたくさん見てきた。
プシュ……と、気の抜けた空気銃の音がしたあと、俺はきっと死ぬのだろう。
大丈夫。今ならまだ、クレアに追い付ける。クレアの背に乗って、色々なものを見に行ける。
例え、もうクレアの頭を撫でてやることはできなくても。
四十年、もしかしたら五十年。これから先、クレアが本当にゴールする、そのときまで――。
「……ずうっと一緒だよ」
俺は、波の向こうへと消えていったクレアにそう囁いた。
グレイディア・レース ~引退レースに臨む君と俺の物語~ 夕藤さわな @sawana
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