その背中を追って
澤田慎梧
その背中を追って
「お前はさ、ゴールを終点だと思ってるから伸びねぇんだよ。ゴールはただの通過点なんだ。俺達が目指すのは、その先にあるものだろ」
百メートルを駆け抜け、息も絶え絶えに座り込んでいる僕に手を差し伸べながら、安彦が言った。
彼の額には玉の汗が浮かんでいたけれども、息は殆ど切れていない。圧倒的一位だったにもかかわらず、まだ余力を残していたらしい。
「……僕は、安彦の背中を追いかけることで手一杯だよ」
「ほれ、そんな考えだから駄目なんだよ! 俺を追い抜く、くらいの気概でかかってこいや!」
安彦に引っ張り起こしてもらいながら愚痴るが、更なる駄目出しをもらってしまう。
これでも自己ベストを更新したのだけれども、安彦は褒めてくれない。傍から見たら厳しいの一言に見えるだろうけど、それは違うと僕だけは知っていた。
安彦は常に僕に期待し、競い合いたいだけなのだ。嬉しくもあり、重すぎる期待でもある。
僕と安彦は幼馴染。幼い頃から共に短距離走に打ち込むライバルでもある。
――ライバルと言っても、戦績は僕の連戦連敗。安彦が常に僕の一歩先を行く関係だ。それでも僕らがライバル関係にあると明言できるのは、誰よりも安彦がそれを望んだからだった。
彼曰く『俺が速くなれるのは、いつもアイツが背中に迫ってくるからだ』だそうだ。何となくむず痒いものがある。
「安彦はさあ、なんで僕なんかを『ライバル』って言ってくれるんだ? 県レベルでも他にも速いヤツはいるのに」
「そりゃあ、今はな、あいつらの方が速いだろうさ。でもな、のびしろだけで言ったらお前の方が遥かにあるんだよ。どっちが怖いかって言ったら、俺はお前の方が怖いと思うぜ? きっと高校生になる頃には、もっと速くなってる!」
「そう……なのかなぁ」
「俺の太鼓判だぜ? ありがたく受け取れよぉ!」
うりうりと僕を肘で突きながら、真夏の太陽みたいな笑顔を見せる安彦。
それにつられて僕も思わず笑う。確かに、僕のタイムの伸びは著しい。コーチからも随分と期待をかけられているらしい。
それでも僕は、安彦こそが主役で僕は脇役だと思っている。僕が一つ成長するたびに安彦も一つ成長している。僕らはそういう関係で良いのだ、と。
――そんな幸せな日々がずっと続くと思っていた、ある日。安彦が転校することになった。
親の仕事の都合で遠くの街へ引っ越すことになったのだ。僕らが中学二年の冬のことだった。
「安彦……」
「そんな顔すんなよ! 俺だってそりゃ寂しーよ! お前ともっと走りてーよ! でも、これで終わりって訳じゃないんだ。……そうだな、次は全国大会で一緒に走ろうぜ!」
「全国……って、無理だよ! 安彦は行けるかもしれないけど、僕は……」
安彦は県大会の上位常連だ。きっと引っ越し先でも活躍することだろう。
でも、僕はいつも一歩足りない。「全国」という言葉は、僕にとってあまりにも遠すぎた。
「もちろん、次の大会でって話じゃねえよ。高校行っても陸上は続けるんだろ? なら、インターハイを狙えばいい。お前ならできる! 俺とお前でインターハイでワン・ツーフィニッシュだ! 約束だぞ!」
そんな言葉を残して、安彦は転校していった。
その後、中学三年生に進学した僕は、安彦の言葉を胸に大会へと挑んだけれども、惜敗。一方の安彦は、見事に全国大会への出場を果たし、そこそこの成績を残した。
僕は安彦との約束を守る為に、高校でも陸上を続けることを決心した。
――けれども、僕と安彦の約束が果たされることはなかった。
僕らが中学三年生だった冬、安彦の引っ越し先で大きな災害が起こった。沢山の人が亡くなり、いなくなり、あるいは大けがを負った。
安彦も、その一人だった。
それから一年と数か月後、僕は高校二年生になっていた。
もちろん、陸上は続けている。安彦との約束を果たすことは出来なくなったけど、彼のもう一つの言葉を嘘にしたくはなかったのだ。
『きっと高校生になる頃には、もっと速くなってる!』
彼の言葉通り、僕はメキメキと実力を伸ばし続け、遂に全国への切符をかけた大会に挑むことになった。
地方大会の決勝という大舞台に。
『
審判の合図で、選手それぞれがスターティングブロックの前に移動し、かがみこむ。
僕は一番端の第一レーンだ。右側にずらりと、ここまで勝ち残って来た強敵たちが並んでいる。いずれも各県を代表する選手達だ。
全国へ進めるのは、この内の上位数名のみ。
『
――腰を持ち上げ、クラウチング・スタートの姿勢に入る。
この数瞬後に運命の号砲が鳴る。スタートが早すぎればフライングになり、遅すぎればその時点で負けが確定する。
短距離走で最も緊張する瞬間だ。
そして――パンッ! と乾いた音が響き、僕らは一斉にスタートを切った。
出足は好調、けれどもそれは他の選手も同じだ。出遅れた者はなく、横並びのままスタートする。
ここからの十秒間余りで、僕らの全てが決する。よくよく考えてみれば、あまりにもストイックすぎる競技だ。
(――くっ! 速い!)
四十メートル付近で、早くも僅かな差が開き始める。
ほんの少しのフォームの乱れが、地面を蹴る足の力強さが、致命的な差となって表れる。
実力が伯仲する中では、「後半に一気に巻き返し」等という奇跡には期待出来ない。必死に手足を振るい食らいつく。
(このままじゃ、ギリギリ届かない!)
雑念であるとは理解しつつも、順位とタイムに思いを馳せる。
このままでは上位に入れないと、焦りが首をもたげる。ゴールであるフィニッシュラインが、遥か遠くに感じられる。
――と、その時。
『お前はさ、ゴールを終点だと思ってるから伸びねぇんだよ。ゴールはただの通過点なんだ。俺達が目指すのは、その先にあるものだろ』
誰かの声と共に、誰もいないはずの左側にひと際速い選手が姿を現す。
――安彦だ。高校生の姿の安彦が、第一レーンの更に左側を風のように駆けていた。
『俺を追い抜く、くらいの気概でかかってこいや!』
聞こえるはずのない挑発の言葉を残して、安彦が加速する。
そこにあるのは理想的なフォームを持った、理想的なランナーの姿だった。僕がずっと追い求めていた安彦の姿だった。
(待ってくれ安彦!)
必死に追いすがる。その背中を追って、僕も加速する。
いつしか周囲の音は消え、他の選手もトラックすらも見えなくなり、世界が僕と安彦、そしてぐんぐんと迫るゴールだけになる。
先程まで遥か遠くにあると思っていたゴールが、やけに近く感じられる。
そうだ。ゴールは終点じゃない。僕が目指すのは、その先にある――。
『お先ぃ!』
不敵な笑みをこちらに向けながら、安彦がゴールの向こう側へ消える。
その背中を追ってゴールを駆け抜け……気付けば僕は、トラックのただ中に舞い戻っていた。
それに少し遅れて他の選手がゴールする。僕は一位だった。
遠くから、コーチや陸上部の仲間達が僕を呼ぶ声が聞こえた。観客席の方へ目を向けると、皆が笑顔でこちらに手を振っていた。
――その中でひと際目立つ、杖を振り回し大喜びしている奴の姿を見ながら、僕は心の中でそっと呟いた。
『やっぱり、まだまだ君には勝てないよ、安彦』
(了)
その背中を追って 澤田慎梧 @sumigoro
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