帰らずの迷宮

灰崎千尋

帰らずの迷宮

 じりじりと照らす太陽の下を、旅人がひとり歩いている。道、というにはあまりに心もとない、荷車のわだちがいくつか重なって草を踏み分けているだけの上を、彼は辿っている。それは次の町へ続いているはずだった。自分がどれだけ歩いたか、彼は努めて考えないようにしていた。前を見ても後ろを見ても、乾いた草と土ばかり。日差しを遮る木の一本も無く、ただ荒野が広がっている。

 額から落ちた汗が、拭うより先に彼の目へ流れた。その刺激に思わずぎゅっと目をつむり、再び目を開くまでの僅かな間に、は旅人の眼前に現れた。


 白亜の宮殿、と呼ぶにふさわしい佇まいだった。白い石を滑らかに削り出し、その上から金を貼って彩った巨大な建造物。蜃気楼か、熱さで頭をやられたか。旅人は目が眩み瞬きをするが、その宮殿が消えることは無かった。腕をつねったり頬を打ったりしても同じだった。宮殿は突然現れたまま、そこに在る。

 旅人はいざなわれるようにふらふらと宮殿に近寄り、その大きな柱の一つに触れてみた。ひんやりとした石の感触がした。これがいったいどういうものかわからないが、とにかく少し休ませてもらおう、と旅人は中央の階段を上がって行った。彼が入口であろう重厚な扉の前まで来たとき、どこからか白い鴉が飛んで来て、旅人に言った。


「この扉の先は、帰らずの迷宮。お前の望みを叶える代わりに、ここから帰ることはかなわない。それでも行くか?」


 鴉が人の言葉を話すことに旅人は驚いたが、宮殿が突如現れたことに比べれば大したことではない、と彼はすぐに思いなおした。


「私はただ、少しの間この身を休ませたいだけなのです。中へ入らずとも、軒下を貸していただくだけで結構なのですが」


 旅人は懇願するようにそう言ったが、白い鴉は鋭い鳴き声を上げてそれを遮った。


「入るのか、入らぬのか」


 鴉は続けてそう言った。旅人は選択を迫られていることを悟った。それから、こんな不可思議なことができるのは神々かそれに準ずる存在に違いない、とも考えた。それが善きものか悪しきものかはわからないが、これを断って呪われる方が困る。


「入ります」


 長い沈黙の後、旅人がそう答えると、鴉は「よろしい」と言って白い翼を大きく広げた。そうして旅人と鴉の体が目映い光に包まれたかと思うと、音もなく扉の中へ吸い込まれてしまった。




 次に旅人が目を開いたとき、そこは薄暗い通路だった。左右の石壁には一定の距離をおいて松明たいまつの灯りがついているが、それだけだ。煌びやかな宮殿はどこへやら、装飾一つない廊下がずっと続いているようだった。それでも、あのまま日の光に焼かれ続けるよりはマシなはずだ、と旅人は自らに言い聞かせた。

 旅人は歩みを進めた。炎がジジ、と燃える音と自身の足音の他に聞こえるものは無い。延々と続く灯りに導かれるまま、彼は歩いた。不思議と体は軽かった。空腹も喉の渇きも消えていた。けれども何故か、背後を振り向くことだけができない。頭も足も、左右に向けることまではできるが、後ろに向けようとすると動かない。旅人は今更ながら恐ろしくなった。

 通路は分岐することもなく、しかし少しずつ湾曲しながら続いていた。長く歩いているような気もするし、少ししか進んでいないような気もする。疲れを感じないので、体では距離を測れなくなっていた。時間の感覚も曖昧だった。一本道であるはずなのに、深い森で迷ってしまったような心持ちだった。

 その時、急に鴉の鳴き声が響いた。

 ハッと鳴き声のした方を見遣れば、そこにいたのは鴉ではなく、一人の女だった。


「この道を振り返るな。己をかえりみよ」


 女は人形のように生気のない顔で、旅人に語り掛けた。旅人は目を見開いて彼女を見た。青ざめ、唇をわなわなと震わせ、乱れた呼吸を繰り返した。


「答えよ、私は誰か」


 女が問うと、旅人はびくりと肩を揺らし、かすれた声で答えた。


「……我が妻」


「よろしい」


 その声が聞こえたかと思うと、女の姿は消えていた。肩を上下させる旅人だけが立っていた。

 通路は一旦そこで折り返すように曲がっていた。旅人はまた、歩き続けるしかない。




 通路の景色は折り返してからも変わらない。旅人の歩みはいくらか遅くなった。無論、疲れからではない。彼の妻の姿を、こんなところで見るとは思わなかったのだ。そして、これで終わるとも思えない。

 しかし次に彼の前へ現れたのは、また違う人物だった。

 それは先ほどよりも年若い女だった。しかし彼女もまた、生きているようには見えない。

 その姿を見て、旅人はひどく悲しそうに、くしゃりと顔を歪めた。


「答えよ、私は誰か」


 年若い女が、先ほどと同様に問う。旅人は両手で顔を覆い、くぐもった声で答えた。


「我が娘」


「よろしい」


 旅人が顔を上げると、やはり娘は消えていた。

 通路は再び折り返し、まだ先へ続いている。




 旅人はもはや、この通路がずっと伸びていてくれればいいと考えるようになっていた。折り返しに着いてしまえば、また誰かに会ってしまうだろう。その顔で何を言われるのか、恐ろしくて仕方なかった。

 また鴉の鳴き声がして、旅人の前に再び彼の妻が立った。


「答えよ、なぜ私の命が失われたか」


 旅人は唇を噛み締めた。その顔に激しい怒りと悲しみが浮かんだが、やがて諦めに落ち着いた。彼は大きく嘆息してから、こう答えた。


「私が、殺したから」


「よろしい」


 妻の声が無感情に響き、俯いた旅人が残された。通路はまだ続いている。




 旅人の足は、まるで鎖に繋がれた囚人のように重かった。それでも彼は歩くほかない。この先に待っていることを、彼はもう悟っていた。

 鴉の声の後、彼の娘が現れて問う。


「答えよ、なぜ私の命が失われたか」


「望みを失い、自ら首を括ったから」


 娘の顔を悲しげに見つめながら、旅人は静かに答えた。


「よろしい」


 娘の姿は消えた。旅人は娘の立っていた場所をしばらくじっと見てから、また歩き出した。




 これは尋問なのか。拷問なのか。旅人は歩きながら考える。やはり自分はここへ招かれたのだ。全てを知る何らかの存在によって。

 そうして彼はまた、彼の妻の姿をしたものと相対する。


「答えよ、何故お前は私を殺したのか」


 旅人はその問いに息をのんだ。妻の顔には、やはり何の感情も見えない。生きているときのように泣き叫んだり、罵ったりする様子はない。

 やがて旅人は、こう答えた。


「私のせいで娘を失った妻が、私への愛を失い、不義をはたらいたことが許せなかったから」


「よろしい」


 また一人残された旅人は、天を仰いだ。石の天井があるばかりだった。




「答えよ、何故私は首を括ったのか」


 旅人の娘が問う。彼女の顔にもやはり表情は無く、生きているときのように悲し気に微笑んだりはしない。

 旅人はこう答えた。


「私が娘の恋人との結婚を認めず、家に閉じ込めたから」


「よろしい」


 旅人は思わず娘に手をのばしたが、それが届くより前に娘の姿は消えた。




 あとどれだけ歩けば、あとどれだけの問いに答えれば、この迷宮は終わるのか。永遠にさまよい続けることが償いなのか。あのとき、扉の中へ入らなければどうなっていたのか。巡り続ける思考の中、旅人は歩き続ける。

 しかしこの迷宮も、無限ではなかった。

 もはや折り返す道は無く、かといって出口も無い。最奥の行き止まり。そこに立つ金の止まり木の上に、白い鴉が待っていた。


「ここは、お前の旅の終わり。お前の罪からは決して逃れられない」


 それを聞いた旅人は、遂に両の膝を着いて慟哭した。


「どうか、どうか裁きを! 確かに私は、自らの罪から逃げて放浪しました。それが許されることとは思っていません。しかし、妻や娘にこれ以上責められることには耐えられない……!」


「お前は何か、勘違いをしている」


 鴉は小首を傾げて、つぶらな瞳で旅人を見つめた。


「最初に言ったはずだ。お前の望みを叶える代わりに、ここから帰ることは叶わない。それがこの迷宮のことわり。さぁ、お前の望みを言うが良い。代わりにお前の魂を差し出してもらう」


 白い鴉の言葉に、旅人は動揺した。断罪の場ではないのだと。魂を差し出せば望みが叶うのだと。


「あなたは、いったい……」


「それを知るのが、お前の望みか?」


 そう問われて、旅人は慌てて首を横に振った。旅人はしばし考えたが、答えはもう決まっていた。


「贖罪が、私の望みです」


 鴉は「ほう」と興味深そうに瞬いた。


「では、お前の妻と娘の魂を、母の胎に戻そう。それで良いか」


「はい」


 旅人が頷くと、鴉は三度鳴いた。すると旅人の体はみるみる塵へと変わり、あとに残った小さな光の塊を、鴉があっという間に飲み込んでしまった。それから彼との約束通り、二人の魂に新たな生を与えた。




 罪から逃れようとするものは心せよ。帰らずの迷宮はすぐにも現れる。

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